年末忘れていたので、いまごろ挙げてみます。
10、東浩紀『訂正可能性の哲学』……東氏に言われるまでもなく、わたくしは10年以上前から「縦塗横抹」と自分の名前を並列化している。
9、『易経』(ビギナーズクラシック)……宿命は自由に解釈される。「歴史的必然性」とかが嫌われるわけである。
8、『近代の超克 知的協力会議』……いまさらながら真面目に読んでみた。そして公開講座で喋った。人は超克と口走っている人たちをみると自分も彼らを超克したくなる。いまの我々だってそうなのだ。戦時下の彼らはそこまでの意識はどうやらなさそうなんだが、非常に戦闘的な題名なのである。
7、王寺賢太『消え去る立法者』……氏はほとんど同世代の論者である。この世代には高い理想と緻密さ至上主義と自己否定癖みたいなものがついて回っている人が多いが、この本が最初の本である。極めて難産だったのだ。でもなにかさわやかな論だった気がする。
6、郡司ペギオ幸夫『創造性はどこからやってくるか――天然表現の世界』……「やってくるもの」を方法論として語るみたいなねじれた本に見えたが、ある程度このねじれは創造性にはつきものなのであろう。ちょいと腑におちないでもなかったが、やはり頭のいい本であった。
5、田山花袋「蒲団」……ものすごくひさしぶりに読みなおしたんだが、とても面白かった。読者はいろいろと表現も観念も限られているのである言説を構成してしまうのだが、作品そのものは「やってくるもの」なのである。
4、山根龍一『架橋する言葉』……書評するために初夏にゆっくりゆっくり読んだ。
3、『宇津保物語』……たしかにこれを読むと中上健次なんかの理解が進むようだ。そして、何か物語がそこらにある気がしてくるのである。
2、四書(『論語』『大学』『孟子』『中庸』)……すべて角川文庫で読んだだけだが、とにかく読むべきものは読んでおかなくてはならない。どうみても我々の道徳観念はこれらと似ている。若者でさえそうだ。
1、島崎藤村『破戒』……これもかなり久しぶりに再読した。田山花袋もそうだが、文体というより、場面の切り取り方が近代文学のある一角を形成したといえると思う。そして、それは一角に過ぎなかったが、けっこう大衆化はしたと思う。