
康誥曰、克明徳。 大甲曰、顧諟天之明命。帝典曰、克明峻徳。皆自明也。
みんなで徳を明らかにする世界は、明らかにされた側がそれを認識できる。明らかになった徳を、明らかになったという状態で受け取る、つまり、徳を明瞭に認識したと思う状態とは、徳を明瞭に認識した人によって明らかにさせられるのであって、明徳が明らかにされることの連鎖である。
この連鎖がとぎれた単に「明徳」だけが存在する状態、例えば、王がものすごくひどい人なのに自ら明徳であると言い張る事態だけは防がなければならないわけだ。
今日は市民講座で、吉満義彦・西谷啓治と菊池正士のやりとりを個々の論文とともに解説し、この三人にたいした罪なし、ごろつき★房雄がわルイという受講者の感想を引き出したので、勝利(吉本隆明)である。林★雄のロジックは、いままでの近代文学の苦悩を踏まえなかった。一番明晰であり、個人主義的であり、本心みたいなエネルギーに溢れていても、これではだめなのであった。
十年以上前、北京郊外を旅したことがあるんだが、その風景には坂本龍一よりもショスタコビチが合うと思った。インテリの感傷じゃなくてプロレタリアートの情景にほんとに合うところがある気がしたのである。やっぱショスタコービチが映画音楽作曲家だからか、とも思ったが、――やはり、四つの曲の集合である交響曲を一つの曲としてつくってきた、それまでの作曲家の明徳が踏まえられていることが、重要だとおもうのである。交響曲は、20世紀になってからはおそらく、その作曲行為自体が伝統を背負った「労働」になっていた。ショスタコービチの第5番の第3楽章はあまりにトラウマ的に悲しい音楽なので、第4楽章はそれを引き摺りながらの苦行になる。トラウマは大騒ぎによっては解消されない、――というか、第3楽章の響きが、第4楽章になっても消えないことで、交響曲は、苦悩や哀しみの鳴ってない音が鳴っているフィナーレとなる。曲は精神の重ね書きみたいな統一体となる。
章がわかれているから、論理が繋がっていなくても救われている論文というものがあると昔教わったことがあるが、ショスタコービチも映画のシーンのように音楽が数珠つなぎのようにみえて、楽章の切れ目をなくして聞いてみることが重要だと思う。そこでようやく、曲が情景として成立するのである。