
古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先齋其家。欲齋其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。
整然としすぎてびっくりの『大学』の八条目である。天下、国、家、自分、心、意、知、物と大きいものを治めるためにはかえってものそのもののような小さいものをきちんと認識するように「欲する」のである。この欲するものは、もうこうなると個人の欲望のかたちをしていない。欲望が大きいものと小さいものに向かって流れることが良き流れである、しかしこれが良き流れであると、主体の側から視ても物への認識が天下に向かって逆行してゆくようにみえるわけである。この円環のようなものは、「明徳」を真に欲する時だけに現れ、すべてが明徳的であることによって現れる。
だから、天下国家のために、家族の絆や個人の倫理から矯正しようというわけにはいかない。上のようななんとなくの全体化が必要である。――これはだからこそ理想であり、強制されてできあがるものでさえなかった。これを強制しようとすると悲惨なことになる。
昨日は、演習の計画の変更で、急遽、〈子ども向け〉の作品の歴史と称して90分講義をでっち上げた。国家の政策から生じた男/女のエンタメの系譜と、児童文学=童心主義の系譜の関係を適当にでっちあげてしゃべった。前者が天下国家から物の認識に至る道だとすると、後者は物の認識からの出発であったが、それはどこかで野合して楽しい作品を創り出しもしたわけであった。それは、その野合は「人間的行為」で「生活」に近いものだと思われていたからであろう。しかし、いま前者には科学という副将がいるので、それもなかなか出来にくくなっている。科学が生活を責め立てている。
生活に於いては、ともかく、我々はなにか星座を描くように、目の前のものを結びつけて「像」をつくるみたいなことに集中しがちである。これはテキストの読解に似て、人によって様々なかたちをとっている。人によっては妄想的になり、我々のような人種は、それを「観察」に近いと言うであろう。世の中が荒れてきて複雑に見えすぎると、その観察とやらもそれをするだけで精一杯になって、どうしても「像」に対して飛躍的に原因をさがしたくなる。本源とか神とか、いろいろ見つかるであろうが、ほとんどはそこで思考を止めたいだけの毒物である。
故に、我々はどうしてそうなってんのかと問うことをわすれがちになる。しかしそれを「科学」と呼んでしまうと、今度は生活から離れる。「大学」は、流れの往還を理想を欲する人間に即して描きすぎたのかも知れない。必要なのは、悪人や凡人の往還の方であるように思われる。それをやらないと、科学の方も、我々をよくすることばかり考える傾向があるんじゃないか。
――と思ったのだが、よく考えてみると、医学は上の「科学」なのかもしれないが、インターネットやスマホなどは、ほとんど我々を堕落させているだけであった。個人と世界をつないで、――欲の往還を物質化したら大変なことになってしまった。