★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

加持祈禱、おどろおどろしく尊し

2020-03-08 20:33:04 | 文学


まだ夜ふかきほどの月さし曇り、木の下をぐらきに、「御格子参りなばや」「女官は今まで候はじ」「蔵人、参れ」など言ひしろふほどに、後夜の鉦打ち驚かして、五壇の御修法の時始めつ。我も我もとうちあげたる伴僧の声々、遠く近く聞きわたされたるほど、おどろおどろしく尊し。
観音院の僧正、東の対より二十人の伴僧を率ゐて御加持参り給ふ足音、渡殿の橋のとどろとどろと踏み鳴らさるるさへぞ、ことごとの気配には似ぬ。


五壇の御修法というのは、五人の明王を並べておいて、そのまえで僧達が祈禱を行うもので、「我も我もとうちあげたる」というのが雰囲気をよく出している。「遠く近く聞きわたされたる」というのもいいね。集団で行う祈禱というのは明王のビジュアルを伴った映画音楽のごときものであり、寝殿造りで上手い具合にサラウンド効果を出していたに違いない。お坊さんの世界はよく知らないが、当然、良い声で祈禱出来るというのは良い僧であることと関係があるはずである。「後夜の鉦」を合図に良い声の坊さんたちが一斉に陀羅尼を唸り始める様は、もはやペンデルツキのレクイエムみたいであったに違いない。

彼らは中宮の側までやってきていやなものを退散させるのである。側に来ることも重要なんだろうが、「渡殿の橋のとどろとどろと踏み鳴らさるる」音どもが、「ことごとの気配には似ぬ」(ただならぬ気配を帯びるのだ)であり、これはストラビンスキーの「春の祭典」といったところである。中宮は生贄じゃねえが、生贄を捧げることと悪霊退散の祈禱はほぼ同じものではなかろうか。どこか別の世界に向かって暴力を振るう意味で……。

うちの田舎の「みこしまくり」なんかでも、重たい神輿を転がして行くのは、いまはコンクリートに木材がぶつかる音なので、派手な音響になっているが、土の道だった時にはもっと虚空に吸い込まれる不気味な音がしたはずである。

いまだって、みえないウイルスに対して何かをしようとすることは、心理的な経験としては、加持祈禱と同じだと思う。それはある意味、五壇の御修法やみこしまくりのような芸術性を伴う必要があるのではないかとわたくしなんかは妄想するのである。科学的数値だけで人間が安心出来るはずがない。

ウイルスを制圧出来なかったことを政治や科学のせいにするしかない我々は、上の加持祈禱の世界よりは、疫病の原因を人間、もっというと平家の滅亡に求めてしまうような世界に住んでいる。インフルエンザが殲滅出来ないように、今回のウイルスもそんな風に収束させるしかない。それがいやなら「平家物語」みたいな悲惨な世界を覚悟するしかないのである。


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