御前にも、近うさぶらふ人々、はかなき物語するを、聞こしめしつつ、なやましうおはしますべかめるを、さりげなくもてかくさせたまへる御有様などの、いとさらなることなれど、うき世のなぐさめには、かかる御前をこそたづねまゐるべかりけれど、うつし心をばひきたがへ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。
この幇間野郎がっ、と言いたいところであるが、「うき世」をなぐさめ、「うつし心」を忘れさせる、不思議な程に、という大仰なところはやはり気に掛かる。卑屈な幇間はこうまで言わない。一条天皇がなかなか彰子の方を振り向かなかったらしいこともあったのかもしれない。この時代の女性の心情を勝手に推測出来ないにせよ、道長の子で天皇の妃とはいってもそりゃ大変にきまっている。ショーペンハウアーに言われるまでもなく、この世は苦しみが殆どだ。男のわたくしが言うとなんなんだけれども、彰子は重い体をさりげなく隠している。これだけでも大変なのだ。少しの苦労も、少しとはいえないのがこの世の苦しみの実体なのである。
最近の世の中でいけないと思うのが、人の苦しみに対して簡単に癒やしたり、合理的な提案が出来たり、――心理的に寄り添ったり出来るという想定がまかり通っていることだ。
「ツインピークスリミテッドイベント」というのを観た。第八話で原子爆弾の発明が悪の因子をアメリカに撒き散らしたみたいな描写があったが、――しかし、このドラマで描かれているのは、原爆という単一物を越えた「様々なるゴミクズ」という体たらくなのである。悪の原因を絶てばすべてが解決したり、愛や協働があればみたいなクソ夢をリンチ監督は粉砕している。悪の因果がたどれないのだ。超現実の世界の存在に閉じ込められていたクーパー捜査官は、現世に帰って最後まで合理的な捜査をしていた。すなわち最初の殺人(ローラの殺人)を阻止して歴史を変えてしまうのである。しかしやはり助け出したはずのローラが悲鳴とともに消えたので、並行世界?に飛んでなんとかしようとするが、自分自身も含めてどこかしら暴力的で、並行世界のローラも殺人を犯している。どこをどうやってもどうにもならないのである。
じゃ、何うすりゃ好いかと云うに、矢張りそりゃ解らんよ。ただ手探りでやって見るんだ。要するに人間生きてる以上は思想を使うけれども、それは便宜の為に使うばかり。と云う考えだから、私の主義は思想の為の思想でもなけりゃ芸術の為の芸術でもなく、また科学の為の科学でもない。人生の為の思想、人生の為の芸術、将た人生の為の科学なのだ。
――二葉亭四迷「私は懐疑派だ」
こういう意見を以て、「人生派」をバカにする連中がいたけれども、それは自然主義にも二葉亭にも失礼だ。「手探り」は文字通り、手探りであったに相違ない。リンチ監督がコメディやホラーに作品を接近させすぎないのもそのせいである。人物たちは、何回も何回も「手探り」の演技をしていた。