ロミといえば、『三面記事の歴史』という本で出会った作者であるが、この前、『乳房の神話学』というのを買った。図書館で『おなら大全』というのを読んでいたら止まらなくなったので泣く泣く帰宅した思い出がある。
日本のスカした文化研究者が面白くも何ともないような話題を半端にあれするのに対して、ロミは本物の収集家であった。全くの独断であるが、このロミというやつ、実にいやなやつだったと思うのである。しかしまあ、紳士面して研究はやれんわな、というのは事実である。
三島由紀夫の『潮騒』のなかの乳房の描写なんか、とっても通俗的であり、――三島も大蔵省に残っていたならば、案外偉くなってから、「なにやら触って良い?」とか女の子に意地悪していたのかもしれない。高遠弘美氏が、解説で日本の文学の「乳房」について語っていたが、なんとなくロミの収集したものにくらべると、心ときめくものがない、という気がした。
戦前の京大俳句事件で有名な、西東三鬼の所謂
おそるべき君等の乳房夏来る
ぐらいは、わたくしでも知っていた。これはいいいかんじであるが、この「おそるべき」に対する想像力が読者に希薄な場合、ただの中2男子の妄想になってしまう。
思うに、乳房にしてもおならにしても、神秘化も観察もまだまだ我が国の文学において足りていないのではなかろうか。セクハラは文化だという人もいるようだが、もしそうだとしたら、われわれの文化はやはり問題が多い気がする。最近、朝ドラの「カーネーション」の再放送が夕方やっているのだが、ちょうど近日の放送で戦争が終わった頃のことをやっていた。これは、女洋裁職人のドラマであるが――主人公は洋裁職人なのに、服を縫うことばかりに集中しすぎたせいか、戦争で周りの男が死にすぎたせいか、――戦争がおわって若い男が帰ってきて、女子達がおしゃれをしたがっているという空気を読めていなかったという場面が出てくる。日本は戦時中、女の子に名札付きのだっさいもんぺなど強制してたくせに、ウメよフヤせよと言っておったのである。「蒲団」の時雄が、芳子の乳房ではなく、リボンや蒲団に執着して性欲とか悲哀を覚えているのは正しい。文化もないのに、カエルみたいに増えてどないすんじゃと思うね。
三島の『潮騒』がださいのも、そのせいなのである。主人公は、セーターの下の乳房が想像通りだったとかいうのだが、そのセーターとかいうのが田舎くさいのだ。やはりロミが紹介するような貴族の衣装の文化が乳房にとって重要だったのであった。そうに違いないっ