
告子曰、「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶水之無分於東西也。」
孟子曰、「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。人無有不善、水無有不下。今夫水、搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。
是豈水之性哉。其勢則然也。人之可使為不善、其性亦猶是也。」
人間の性とは善であるか、そうでないか、これを水で説明しようとする気持ちは分かる気がする。人間機械論的なものの繁茂はいまも続いていて、文化は人間をこえたのこえてないだの、そもそも記号は超えてるなどとうるさい限りである。告子や孟子の方が物質的な議論をしている。我々はほとんど水で出来ているではないか。
わたくしが興味があるのは、本性が変化するかどうかである。そこからいえば、水だと言い切っている告子や孟子は根本的に心が清い。濁った水で議論している感じがしないからだ。最近は若者がテレビをみずにスマホ見てて、みたいな恐怖を抱いているご年配の方々に言いたいのは、やつらがみているのはちっちぇえ多チャンネルテレビであって全然事態はかわってないということである。ちっちぇえから持ち運びが出来るようになったに過ぎない。でも、本性がかわっているという人間の直観はあまり馬鹿にしてはいけない。見ることそのものに葛藤がないことは確かに変わった。テレビは、見ている人間の視線が交わる空間であった。だから恥ずかしくて多人数では見てはいけないものが存在していたのである。見ることの現場そのものにコミュニケーションがあったと言ってもよいかも知れない。
怒鳴りあいの喧嘩をしてそのあと殊更仲良くしようとしなくても仕事を一緒にやれるみたいな能力がコミュニケーションの能力であって、悩みを共有できるみたいなのは、なんというかスマホ的で、窃視的でもある気がする。許されているのはコミュニケーションの訓練の授業とかグループ治療みたいな現場だが、人を勝手にみてもよい情報を共有してもよいコモンセンスが許されるのはテレビではなくスマホ的だと思うのだ。わたくしはどうしてもそういうシュチュエーションになじまない。先日、テレビで、コロナ後の大学生のコミュニケーション能力の低下というか対人恐怖についての番組をやっていた。高校まではコミュニケーションが得意だったのに大学にきたら難しくなったみたいな学生が出ていた。――しかし、いろいろ原因はあると思うけど、部活にしても高校までは教師がコミュニケーションの手助けをしてしまっているんで、大学で自分の実力が露呈するというのはあるように思う。コロナ以前の問題ではなかったであろうか。
愛情にしろ友情にしろ?派手な失敗が必要で、しかもそれを自分のせいにするしかない失敗が必要で、そのためには放置されている必要がある。大学の教員と密に話したあとで急に実力が発揮する学生が散見されるけれども、ちょっと極端だと思うのよな。仲良くならないと頭が回り始めないというのは、すごく分かるが、そんな関係は大学が所詮学校だからだよ、と思わざるをえない。
しかしまあ、なぜこういう話題で、マウスでの実験をすぐに人間に適用したがるのであろう。マウスを孤独にしておくと他のマウスをいやがるようになるのだそうだ。しかしそれはそりゃそうだろう。証明する以前に当たり前のことしか証明されてないではないか。人間のコミュニケーションの具体性に即した議論をしなきゃ意味がないんじゃないか。例えば、人が怖い、と学生が言っている意味は対人恐怖症的な防衛本能なのではなくて、荒れた中学校で友人が怖い、みたいなものである可能性があると思う。大学だって、頭の★そうなやつらが集団でのし歩いていて、そういうやつらとグループワークしなきゃということで「怖く」なっていることだってあるわけだろう。高校までは、そこで教師が介入してくるわけだが、大学ではありえない。そこで逃げの一択ということになるかもしれない。――これはわたくしの妄想であるが、コミュニケーションは具体的に想起しとかないと意味がないのである。そもそもこういう妄想もコミュニケーションの一部である。
近代叙述文体のふにゃふにゃさに嫌気が差し、漢文や古文の世界を彷徨っていると、やはり垣からのぞき見られるはわれわれのふにゃふにゃした姿だ。――これもわたくしの妄想であろうが、コミュニケーションの一側面である。
AIの発達で、いまこそ児童生徒の十人十色の読解の出番である(棒読み)。そもそも読解が多様である以前に、読解そのものが滅茶苦茶なものだ。AIはネット上で発表された映像や言語だけをみている。社交で論文で書こうとしているのがAIだ。例えば、わたくしのエンドウ豆スナックを妻がぬすみ食いした理由について自由に論じなさい、とAIに命令したとする。たぶん、何らかの答えが返ってくるのであろうが、そもそも盗み食いしたのはわたくしである。命令自体が虚構であった、と同時にわたくしのコミュニケーションの性格を示しているのである。ロマン派の議論は、こういうものが人間に於いて何かを構成してしまうことを論じていたように思う。
カエルの映像見てたら、実に我々は平泳ぎを彼らから学んだみたいだし、向上心も忍耐力も植物なんかから学んでるきがするわけである。それをあれですか、AIは人間様から学んで倫理的にも自分で律しようというね、どこまで人間が好きなんだよいい加減飽きろや、でオレの庭にまた糞を落下させた鳩はすみやかに地獄に墜ちるべし。