
孟子謂萬章曰、一郷之善士、斯友一郷之善士、一國之善士、斯友一國之善士、天下之善士、斯友天下之善士、以友天下之善士爲未足、又尚論古之人、頌其詩、讀其書、不知其人、可乎、是以論其世也、是尚友也。
善士であるならば彼がいる郷土に一人で影響を与える、そういう人は同レベルの人しか友人とせぬ。国の場合もおなじである。天下の場合も更におなじだ。それでも満足で来ない場合は、いにしえの人を論ずるのだ。その人の詩、書を読み、その人そのものを論じないわけにはいかない。これで古人を友と出来る。
なんと、いにしえの偉人を友にするのは、郷土の、国の、天下の善士という段階を踏み、その上で満足できない人間がやるべきであった。実際は、善士ではなくコミュニティに影響をあたえる悪人の方が、この段階を踏めるわけであるから非常に難しいことだ。だから、この善士というのは、ヤクザの親分ではなく、そのヤクザを善導する人間のことであり、孟子の言っているのは、そういう人間の存在意義のことなのである。一国のブレーンとなった暁には、もうすにで古の偉人の言葉だけではなく、その人間のあり方まで会得しているに違いない。そのあり方とは、善導されたヤクザのあり方のことである。
この言葉の上での善と、人間のあり方のつながりはどのようにして実感されるべきなのか。たぶん、ヤクザとインテリでは、本性が同じである可能性があって、能力や性格や魂の違いなどは適当に付与したり出来るものと勘違いされやすいものである。やはりこれは、「根が**」(西村賢太)の部分から実感される必要があるのだ。昨日、親や姉妹がわしの家にやってきたんだけど、心と魂、身体と性格、みたいな対立はだいたい親から受け継がれた何かをもっともらしく対立物にしただけのような気がしてくるからオソロしや。この恐ろしさが「根が**」の実感というやつである。人間のカオス的なあり方は、親子や兄弟において実感され、それだけに対立も昔から生んできた。しかしこれを実感しない社会が心を持つのかどうかわたくしは不安だ。
インベーダーゲームや真理夫すらやったことのない、ゲームといえばオセロが限界のわたくしであるが、ゲームやり続けて育った方々はかように負けが込んでいる人生なのに、なぜプライドが高いのであろうか。彼らのいうバーチャルというのは、なにか神様かなにかに対するように、一種の自らの行為の無謬性を獲得する。人を殺しても平気な場合、人は神様でなくても神を信じるしかない。ゲームの場合は、信じるところから逆行している。思うに、チャットGPTに対するのんきさもそんなところがあるようだ。わたくしは、もう三回ほど、講習や講演でこのAIに対して敬語を使っている人間に会っているが、逆にこれは、漱石さんとか、式部さんみたいななれなれしさに通じる不遜さなのである。
最近ちょっと流行の、古典作品のくだけた現代口語訳(を超えたポエム)は確かに楽しいかも知れないが、チャットGPTでつくった妙な調子のいい文章をいい文章だと思って挨拶文とか要約に使ってしまう精神とどこかしら似たところもある。言葉だけではなく、その人間がどういう者か知ることが友となることだという孟子の金言からして、信じられない堕落なのである。
むかしのテレビは、脳天に対して気合いを入れると少し映りが回復したりすることもあった。いまの機械の方が遙かに人間に機構的には近いのかも知れないが、脳天に気合いを入れてもなおらない。寿命も半分くらいになった気がする。昔の機械が、馬鹿な中学生が窮死するかんじで、いまの機械は小学校に入りたてで植物人間になる口だけの天才児という感じだ。悲惨さもあれだけど、――そもそも擬人化できにくくなってるのである、いまの機械は。擬人化とロボットは根本的に違うものであった。我々自身が擬人化された肉であるように、我々の擬人化の行為はモノに対する蔑視と慈悲の錯交した視点によって成り立っていた。それをロボットは、土人形に自らを投影する一元的な意味で異常な視点によって消去する。
ロボットは群れることができない。その代わり、人間を平等に奴隷にし、自らもそれを模倣する。学問がやたら越境したり合体していかずに領域を守る傾向があるのはまさに人間らしいが、ヤクザみたいなものかもしれない。が、それがないと勘違いすると、容易に他分野の人を馬鹿とか言ってしまうのであった。AIに、挨拶文ならの「雑用」や思考の下部作業をやらせて自分は研究をいたしますみたいなことを述べてしまう学者がいたとしても、決して