★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ロビンソンと島の人

2017-10-17 05:19:09 | 映画


学生が推薦していたので観てみた「オデッセイ」。監督はエイリアンの人。『コヴェナント』もそうだが、創造主への反抗とかロビンソンクルーソーの世界をまだまだ続けていくつもりがすごい。『オデッセイ』は、この物語に中国まで巻き込んでいる。ここでも潜在的な、というか、あからさまテーマは、ある種の狂人が世界を救うというやつで、遭難した植物学者もちょっと空気の読めない変な人だし、救出プランの決定打を案出するのはあからさまに「アスペルガーでござい」みたいな男。気持ちは分かるのであるが、もっと下働きでうんうんうなってる連中が居るであろうが……。ああそうですか、そういう人は死んでも構わんと?

Vivre ? Les serviteurs feront cela pour nous.

生きることか?そんなもんは召使い共に任せたね。

花★■輝が、別の文脈で使用してしまったのであれなのであるが、これはたしか、リラダンの「アクセル」が愛のための自殺かなんかするときの台詞なのである。ここで「召使い」(公務員?)とか言ってしまうあたりが、ロビンソンとか公務員批判ばかりしている日本の人民みたいでいやである。こういう輩がいつ「死ぬことか?そんなもんは召使い共に任せたね」とか言いはじめるかわかったものではない。ただ、まだアクセルの台詞は孤独が感じられていいと思わないではない。



高松でも『海辺の生と死』の上映が始まった。わたくしは、島尾ミホの同名原作を読んでも吉本隆明みたいにはすげえとは思わなかった記憶がある。しかし、特攻前の島尾隊長とミホの最後の逢瀬を描いた「その夜」なんかが、万葉集のようではない「細密画」であるという吉本の言い方はよくわかった。島尾ミホが「アマテラスが岩屋戸から出現なさった時もかくやありなむ」云々とか、自分はいなばの白ウサギみたい、とか呟き、海にむかって和歌を詠み出す様は、見かけよりも、近代的な「国文学・皇国少女」みたいな側面があるのだと私は思うのであるが、この映画では、天皇や古代文芸に関する彼女の側面がやや後ろに引っ込んでいるようにみえた。この側面が後ろに退くと、細密画はややメロドラマになってしまうと思う。この映画は、編集前は3時間のバージョンがあったらしい。わたくしも、上映版の150分では短すぎると思った。たぶん、少なくとも、最後の逢瀬、終戦の場面はあと30分ぐらいは必要だったような気がする。ミホが島尾隊長と共に死んでもいいと思ったのは、心中というより、島の他の人間も集団自決の可能性があったからに他ならない。このことも重要である。これを神話の中に生きる人々の心性に頼って説明するべきではない気がする。

わたくしは、「死ぬことか?そんなもんは召使い共に任せたね」という台詞の意味がある時が思った。死んでも我々は草葉の陰や山には帰らないとわたくしは思う。平田篤胤の言っていることは嘘っぱちである。

満島ひかりさんは、座ったり熱出して寝転んだりする演技がすごかった。なぜか分からんが、わたくしは、そこに「戦前」を感じた。


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