石原慎太郎の追悼文を書いていた西村賢太氏が突然死した。
氏の多くの小説を読んだが、同じような話をくり返し書きながら楽しませる様は、小説落語という感じであった。内容はDVとかなので、いわば悪質な粋という芸風であった。まあ、文体は大正時代や昭和初期の作品に倣ったように一見古風だが、カッコをつけて自虐と悪態をやっているのも現代風だし、無頼だけど、根が趣味的にできている作者であるからして、カッコをつけようとしてもっとカッコをつけてる多くの人よりは遙かにましに見えたから、――けっこう読んだのである。西村氏は石原を買っていたみたいであるし、一方の石原も西村氏のことを「お互いインテリヤクザだな」と言っていたらしいが、西村氏はその某石原よりも相当なインテリだったと思う。
石原には、進学校の中学二年生が過激な悪口を休み時間に言っている趣がある。休み時間は人気取りの時間だ。これでは中卒でどんなひどい情況を生きてきたかわからない西村氏に勝てるわけがない。たぶん、西村氏は休み時間でなくても悪口を言ってしまう。政治家としての石原にはまったく興味がなかったと西村氏が言うのはそういうことである。休み時間に政治家をやってたのが石原氏なのだ。
これはインテリが受験労働者として純化していってしまっているなかで特異な現象であって、語彙も文体もいまどきのインテリ文士とはまるで違っていた。我々が受けた受験勉強や学校教育というのは、文体・語彙の画一化、貧困さを生み出している。そのことを証明しただけでも西村氏は生きた意味があった。
大学は、学問をやってることに宿業を感じさせるような人間を失いつつある。これがなんとかならない限り、学生のなかにそういう種類の人間が出てくることもない。学者たちが処世のために生きている限りは、学生だってそうするに違いない。社会的に正しいことを言うだけでは駄目なのは当たり前である。こんなことは小学生でもわかるが、キャリア形成とやらを行っているうちに、その時々の「正解」しか行えない人間が出来上がる。
一方で、わたしのように、学生時代に仲間と音楽ばかりやっていたようなタイプにも問題がある。こういうタイプは案外孤独に耐性がないのだ。単なる感想だが、社会性を養うとかいうて学生を部活漬けにしていることが、社会人として必要な「思ったよりも長い時間の孤独」に耐えられない性格を作ってるんじゃないかとも思う。西村氏には、おそらくそういう耐性もあった。