つかみかかるこの根は何?砂利交じりの土から
――T・S・エリオット「荒地」
時々思い出すエリオットの荒地の一節である。それにしても、我々が思い出すというのはどういうことであろう。我々は、この前よりもあの昔のほうが今のように感じられるので、逆に過去の反省をせずにあの昔みたいなことをするのだ。
あの昔みたいな映画と言えば、三丁目のなんとかとか、ゴジラ引く1とかであろうが、――そもそもわたくし、土日がなかったから疲れてて、演習で、「ゴジラファイナルウォーズ」のゴジラキーパーやプールでの立ち泳ぎについての熱弁しか、今週のおれの価値はなし。あとは、「ゴジラ英霊説とかはゴジラのとっとこハム太郎化である」説もポップフライ並みであるし。「ゴジラ英霊説なんぞ、自衛隊の憲法違反行為に相当する」はよく分からんし。
疲れると、最初に認識したことしかわからない。上のそれなんか、ゴジラを見た大人は与太話にしているレベルである。世の中はこんな洞穴の入り口ではなく、洞窟そのものが問題なのである。その洞窟みたいなそのことについてどう思う?と聞くと、前半のとか前提について「共感」しますみたいな答えがでてくることあるが、これを0点としないで30点ぐらいあげてしまうのが国語科で、それをはっきりやめたほうがいい。SNSで調べたこと自体を自分で認めると、そこで認識したことを肯定するみたいなのはそれに近い。
「天声人語」とは一体どういう種類の文章なのか、学生との演習で考えている。これは案外勉強になる。以上のことぐらいは判明するからである。断じて朝日の読者は良くこんなのに我慢しておるな、と言いたいわけではない。