三石神社の一つ、「伏石神社」にやってきました。となりに小学校があるのですが、この神社に守られておるのでしょう。たぶん。
狛犬のかわいさがわれわれのセンスの中には宿っている気がする。阿
吽
顕彰碑(神社の中で顕彰碑が一番でっかい気がする)
木曽にはないね、この組合せは……
忠魂祠――わりとしっかりとした造りである
安政期の狛犬と見える。
明治三十八年一月二日旅順攻略乃紀念。ちゃんと戦闘が終わった次の日にしてあるわい。十五年戦争の時も乃木大将になりたかった連中がたくさんいたんだろうね、祭られりゃ……しかしいつまでも突撃攻撃がいいというわけではないのである。
高岡市の笹島栄吉氏から送られた
みつどもえの馬――そういえば、乃木大将と言えば馬であり、ステッセリ将軍から送られた馬のエピソードなんかが戦前は有名であった。
春日神社・八坂神社・多賀神社……いろいろ集められました。
鹿だから頂きましたか。鹿はこの前のココホレシカシカの鹿だな……
いつもの神話の人たち――なぜいるのか……
まさに動物園、いや「もののけ姫」の世界とは神社なりけり
!
ほ乳類から遡り始めました。鶴亀です。
伏せっ(亀)
触って下さいとかいてあったので、触ってみようと思ったがなんかやめとく。↓
鶴↓
鶴と言うより、鶴をくっつけたようにみるのは、私の心が汚いからであろう……
寺島家では鬼門には、鬼門荒神を祀り裏鬼門には庭園に鶴亀を安置していた。鬼門荒神は寺島家の安泰を守り、鶴亀は長寿を祈念したのである。其後立派な鶴亀は他の家の前に置かれていたが、第十四代政吉氏は伏石神社へ寄進を申し出た。氏子は鶴亀石を受けることとなった。時恰も昭和二年二月吉日であった。
亀は神社境内に安置した。鶴は寒川忠五郎氏の顕彰碑の柱石とした。
この度寺島和周先生のご芳志に預かり使途について總代協議の結果、鶴石を亀石と並置してはとの結論に達し忠五郎氏の孫清氏の快諾を得て、亀の横へ移すこととなり、奇しくも五十五年ぶりに鶴亀は再会することとなった。昭和五十七年二月吉日。 亀石幣殿の北側に大きな亀石がある。この亀石は寺島屋敷の西南隅に安置していたものを第十四代政吉氏が昭和二年二月吉日寄進したものである。
……
本殿をのぞむ
心水 (大正2年)
高松市の名木のひとつ。ケヤキ。実に立派である。
反対側の木も立派である。
「明治三十八年皇軍奉天戦捷紀念」……明治三十八年は大忙しだな。お金はどうしたんだろう……その横に大正三年の気になる記述が刻まれた石があったのだが、ちゃんと読めなかった、今度読んでみよう。
「伏石明神」が奥の方にひっそりと……
お狸様……(新八・お竹・権八かな?)
商売繁盛、学業、人生すべて他を抜くべし――煩悩を全面肯定でございます。世界宗教に刃向かっております。
慶長七年、寺島という人が、ある晩、三百メートル先の(遠いっ)林の中から不思議な光がココヲミヨココヲミヨと漏れているのを見つけました。翌晩も光り続けていたので、おそるおそる家族みんなで近づいていきますと、想像を絶する巨大な石が伏せたように埋まっていたのである。おもわず拝んでしまったが、偶然にしては出来すぎた事態が――近くに立石、流石があるぞよ、屋島の近くの海底には鰭石というものもある、当然、どれも神の宿る石であるぞよ、教えておくぞ、あとは分かってるな、とのお告げが寺島氏の脳裡にぴかーっと閃き、建立に至ったのである。(一部、わたくしの脳内で脚色あり)毒蛇を憎み、災害を防ぐ神なのであった。
そういえば、さっきの「明神」に
蛇さんが。見なかったことにしよう。
「平成天皇即位十年記念」。それにしても陛下が崩御せず退位するとは思ってもみなかったであろう。
ちなみに伏石神社と言えば、こういうこともある↓
大正13年(1924)夏、大干ばつとなり、鹿の出水をめぐる伏石村と多肥村の水争いが起こった。8月21日、伏石の農民たちは鍬やジョウレンを持って、夜中に伏石神社に集まり、鹿の井出水に押しかけ、夜を徹して出水の底を深くさらえた。これを知った多肥村の人たちは警察に急報して出動を要請した。現地に駆けつけた多肥村側と伏石側は土砂を投げ合い、泥仕合が続けられたが、警察によって紛争はおさめられた。幸い翌日から待望の雨が降り始めた。
http://www.shikoku-saigai.com/archives/8479?preurl&query_pref=%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C&query_city=%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%B8%82&query_paged=28#!prettyPhoto
水争いで警察出動である。神社というのは、こういうときに分かりやすい集会場所になるのであった。