★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

リライトの時代

2019-03-18 23:26:19 | 漫画など


突然思い出したのだが、真船一雄という漫画家がいたことを……。ドクターK、か何かを描いていた。ブラックジャックがケンシロウになったような感じの風貌であったが……。この頃のマンガの倫理観があたえた影響は、最近顧みられないが、案外重要かもしれない。

この30年ぐらい、作品のある意味でのリライトというものがかなり進行していて、われわれがいろいろなことを忘れたのはそのせいもある。

そういえば、真船氏はウルトラマンの漫画化もしていたはずで、たしか以前少し読んだことがあるが、これも最初に円谷がつくっていた特撮とはまったく質の違うものであった。

戦前が戦後によって解釈されたことはいろいろ言われているが、戦後を平成が解釈したこともちゃんとこれから言わなくては……。それをやったうえでないと、戦前のなかから可能性を脱構築的に引き出すなど、ただの恣意的なものになりかねない。

以前の興奮

2019-03-17 23:46:26 | 思想


わたくしは、吉本隆明の真価を、連合赤軍や三島事件の時代にかかれた『初期歌謡論』のような書物にみたいと考えているが、――院生の時にそれをめくったときには、案外それは文化研究みたいにみえた。当時のわたくしは、それが花田的なものにも三島的なものにも回収されないための、吉本の抵抗のようにみえたが、それは果たして「文学」ではなく、「文化研究」なのではないのかと疑ったわけである。

いま読んでみればもう少し違った感想を持つかもしれない。

わたくしは、ともかく、現在を閉塞と感じるならば、問題を蘇生させるしかないと思っているのである。

千葉雅也氏が、自己破壊のマゾヒズムを体現するプロレスラーは、「ジェンダー以前の興奮を体現している」と述べていた(「力の放課後」)。千葉氏の観点とは違うが、そういう「以前の興奮」を見出すことが重要である。問題とは興奮である。もっとも、広い意味での言説のプロレスや実際のプロレスを見つめ続けていても見出されるとは限らない。

いといたうなよびて

2019-03-16 23:44:42 | 文学


されど、いと急に、のどめたるところおはせぬ大臣の、思しもまはさずなりて、畳紙を取りたまふままに、几帳より見入れたまへるに、いといたうなよびて、慎ましからず添ひ臥したる男もあり。


朧月夜の君と密会していたら、右大臣に踏み込まれてしまう源氏であった。すぐかっかと来てしまう右大臣に対して、源氏が「いといたうなよびて」いるのが、いやあ酷く腹立つわいな……源氏のことである、いい体をしているのであろう。

今ぞ、やをら顔ひき隠して、とかう紛らはす。

顔を隠しているからよけいいい体が目立つじゃないかっ

先日、うすた京介の『フードファイタータベル』というのを少し読んだが、『すごいよマサルさん』が、島本和彦のど直球(ただし暴投)をカーブにしたような感じの球を投げているとすると、――これはもう少しエロティックな感じがした。食べることの身体性を表現しているマンガはそう多くないだろう。シランけど。食事のマンガはなんかうんちくがすごくてどっちかというと、オタク的な気がする。しかし食べることはもっと苦行に近い。うすた氏は、あいかわらず、笑えるのか笑えないのかみたいな所ばかり狙っている。

女郎花盛りの色を見るからに露の分きける身こそ知らるれ


紫式部は、もう少し身をずらせば笑いに移行できる……かもしれない。

存在権を承認される社会は、案外に狭かった

2019-03-15 23:22:50 | 思想


和辻哲郎の随筆は面白くなるまでに時間がかかるものが多い。今日も、「犬の社会」という昭和27年にかかれたものを読んだが、最初は案外退屈で、猿よりも犬が人間に近いんじゃないかと言われても、そりゃ従順だからそう思うわな隣人は憎くても我々に似ているのに……、と思わざるをえない。ところが、この小市民ぶった態度が最後にきいてくる。

自分が飼っていた従順な犬ではなく――、行き場をなくした「醜い」野良犬が自分の家の周りをうろついていたので、トラックで遠くに捨ててきて貰った。しかし、ある日、三週間ほどたったある日、「ひょこりひょこり坂道の段々を上ってくる」彼をみて、和辻はぞっとするのである。

そして、犬にも社会があり、命がけの縄張りを争いをしても「存在権を承認される社会は、案外に狭かった」のであるなどと言っている。そして結局、和辻は、その醜い犬を大学病院の実験犬に寄付する。

いうまでもなく、和辻は、この犬に昭和27年の日本におけるルンペン情況だけでなく、日本そのものを見ているのであろう。

――しかし、犬を語るまでもなく、その最後の地点から見える何かが問題ではなかったのか。

それから一二年して、仕事にヒロポンを用いているという二人の男にぶつかった。南川潤と荒正人だ。南川がヒロポンというのは話が分るが、荒正人とヒロポンは取り合せが変だ。ヒロポンが顔負けしそうだけれども、彼は女房、女中に至るまでヒロポンをのませて家庭の能率をあげるという奇妙な文化生活をたのしんでいるのだそうである。

坂口安吾は「反スタイルの記」でこんなことを書いていた。わたくしは荒正人がそうであったとしても驚かない。荒正人はそんな実験的な平等主義者だ。スタイルとは関係がない。坂口安吾みたいなスタイルに拘るひとたちが自分以上の何かを努力しようとして無理な働き方をした。堕落ははやり無理矢理な堕落だった。

和辻は、そんな堕落なしの可愛い犬のレベルに人間を設定している。

考えてみると、こんな両極端に対して、南川潤みたいな通俗小説の書き手で原爆反対運動の旗手こそが正しかったのかもしれない。

もっとも、そんな風に思うのは、われわれにそもそも自由がなくなっているからだ。他人がどんな生き方をしようと関係ないはずなのに、ついわれわれはどういう生き方が妥当なのか考えたがっている。

いまうちの大学の博物館で「木村美鈴寄贈作品展」がおこなわれている。木村先生は一昨年亡くなっていたのだが、わたくしは木村先生を含む何人かの先生や学生と一緒に中国に旅行したことがあったので、ちょっぴり知っていた。わたくしが四国にやってくる直前ぐらいに退官されていたので、一緒に職場にいたことはないのだが、――内気な人であったような気がする。作品からなにか倫理の問いかけを感じるというのはあまりないが、この人の作品にはそれを感じる。自由人の作品には倫理的なところがある。まだ作品の未来を語る雰囲気の中に芸術家がいた証拠であるとわたくしには思われた。自由は、単に自由な感じではなく、自由な時間感覚なのである。働き方改革やらアクティブラーニングやらにはそんなものは全くない。逆に時間の管理が特徴である。

心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変わりもまさりゆく

2019-03-14 23:21:48 | 文学


あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたる、あやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたまひて試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだにうとましう思さるるに、まして人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変わりもまさりゆく。


御息所が自分の身と心を疑う有名な場面だが、それは、葵上の安産の知らせを聞いたあとのことであった。世界の変調を自分の身のものと思う。で、自分の身から、怨霊退治の芥子の実の匂いがするといって「心ひとつに思し嘆」き、心の変化をきたしてゆく彼女である。ここの「心ひとつに思し嘆く」というのが、よいと思う。それは「我にもあらぬ御心地」という状態を経験しているから重大なのである。心を一つにしようとするのは、もう彼女には普通のことではない。いつ自分でなくなるかもしれないからだ。

われわれも確かに、予測できない自らの急激な変化を怖れるあまり、徐々に狂うことがあり得ると思うのである。

お勢の事は思出したばかりで心にも止めず忘れるともなく忘れていたが、今突然可愛らしい眼と眼を看合わせ、しおらしい口元で嫣然笑われて見ると……淡雪の日の眼に逢ッて解けるが如く、胸の鬱結も解けてムシャクシャも消え消えになり、今までの我を怪しむばかり、心の変動、心底に沈んでいた嬉しみ有難みが思い懸けなくもニッコリ顔へ浮み出し懸ッた……が、グッと飲込んでしまい、心では笑いながら顔ではフテテ膳に向ッた。

「浮雲」みたいな心の変動は、かえって「心では笑いながら顔ではフテテ」といったことになりがちだ。心が大したことでない場合、顔もやっぱり大したことにならないのであった。心は軽いほど浮かびだす。だいたい、文三はお勢の浮薄さに抵抗力が全くない。御息所はひとりでに身より外側に心が浮かびだしてしまうレベルの人なので、顔に影響しないどころか、源氏の軽薄さにも影響されない。心ひとつに思し嘆くだけであった。

お薬だしときますね

2019-03-13 23:49:05 | 漫画など


大学生の頃、売っていた気がするマンガだったので、ついコンビニで買ってしまったのが、林壮太氏の『黄金色の風』である。日本陸軍の中国大陸での行動について、一人の軍人青年が中国人の子どもに撃ち殺される(復讐される)までを描いた作品である。戦争を描く作品は多くあり、多くあること自体が考察の対象になりうるが、――とりあえず、何が描かれていようとも、賢しらな感じがする作品は信用できない。この作品は注意深く視野を狭くしワンエピソードに限った。それ自体、作者が戦争責任をどのように考えているかがよくあらわれている。我々は、逆説的だが、視野を自分の感情に限ることに拠ってしか、責任問題を論じることは出来ない。坂口安吾が、戦争がおわったときに、これから人間の本性を観た奴がきちんした小説を書き出す、みたいなことを言っていた――わけだが、わたくしはそれは楽観的だったような気がする。われわれはいろいろ経験すると自分の感情がむしろ分からなくなるのではないか?

中野重治が『近代文学』の連中と行った座談会をみると、やはり『近代文学』の若手たちが自らの視野が開けた感じを、中野重治にぶつけていた。中野は全然こたえない。これはこれで若手たちの危惧は当たっていた側面もあるのだが、――自分の感情がよく分からなくなってしまっているのは、戦時中逡巡させられた若者たちの方であった。中野はたぶん、戦時中、現実をある意味軽蔑しきって乗り切ってしまっている。そらまあ、誠実ではないのかもしれないが、誠実であればいいというものではないのも自明の理だ。

この頃は、ヒロポンを打っていたひとも多かった。これはよく言われていることだが、戦前から、特攻とか徹夜のために必要なひとたちがいたので戦後も流行ってしまったのである。最近、わたくしも病院などでいろいろな薬を貰ってくるが、確かに薬というのはよくきく。ある種の神秘である。――こんなことを感じているようでは、我々はほとんど精神的にはドラッグ中毒者だ。そういえば、また薬関係でアーチストが捕まっていたが、――アーチストは作品のために野垂れ死にしてもかまわん連中がほとんどのはずであり、教育者面しているわたくしとしてはあまり興味はないと言わざるをえない――が、精神を持たせようとする努力に一般人とは桁が違う神経が必要なことはわたくしでも分かる。それに――作品の生成はまあ神秘的であり、これまた薬の作用も同じである。この同質性がどこかでわれわれをひっかける。――いうまでもなく、その作品とは優れていないクズみたいなものもふくむからやっかいだ。

むしろ、作品がうまくいかないときにこそ生じる空白を神秘としてみなすデカデンツへの誘惑が……、これは冗談ではなく、ものをつくろうとしたやつにはほとんど経験済みの出来事なのではあるまいか。だから、ぼーっとしたデカデンツはだめなんだ。

まあ、べつに何でもかまわんよ、人は人、自分は自分である。

わたくしはしかし別に、ワイルドみたく

うわさになるより悪いのは、うわさされないことだけである


とまでは思わない。自信がないからであろう。

現認

2019-03-12 23:25:24 | 思想


『現認報告書 羽田闘争の記録』を観た。10・8というのは山崎博昭氏が亡くなった事件として有名であるが、この事件が有名なのは、氏の孤立においてであって、このあとの運動の性格に決定的な影響を与えているというのが、一般的な見方ではなかろうか。

とはいっても、最近は、運動が、あたかも共産党とか中核派の指導によってのみ展開していたかのような、みずからの奴隷根性を反映させただけの見方が横行しているので、上のような常識的な見解も一応押さえておくべきである。

ドキュメンタリーの中で、学生たちが「貧しい考えかもしれないが」、「人間的にどうなのだ」、「自分はどうなのだ」と自問しているのは印象的で、かれらにとって倫理とは、そういうことを問い返す行為そのものである。

しかも、彼らの感情は、アメリカやソ連共産党の対立ではないものを考えなくてはならなかった新たな事態に対する反応に他ならないから、まったく素直な反応(現認)なのである。

ただ、このような反応は、案外倫理としての効力の方が大きく、八〇年代以降の教育などにかなり役に立っていたのではないかとも思われる。そのかわり、政治的行動や過去の分析など、果ては「作品」を生成させる方向を看過する傾向がより拡大された面は否めないのではないか。

吉本隆明が八〇年代、存在感を増していた蓮實重彦かなにかに、世の中を変えるのはご託じゃなく作品しかないのだ、死ねっ、みたいな悪口をどこかで言っていたように思うが、――蓮實に言うことが妥当かどうかはともかく、確かにそうなのだ。吉本にも責任があったとしても。

そんな「作品」欠乏症によるフラストレーションは、常に敵に対して倫理を問う行動に戻る。これまたネット社会には向いていた。

で、わたくしは、彼らの演説を、「長歌」としてきちんと洗練できないかどうかを考えてみた。

――無理であった。

地方の

2019-03-11 23:36:31 | 思想
今日は、病院の待合室で山下悦子氏の『高群逸枝論』を読んでいたが、やっと山下氏の言いたいことがわかってきたこの頃である。考えてみると、八〇年代にこれに触れていたときはなんとなくぴんとこなかったのだが、果たしてどちらの読み方が妥当だったのか……。

本を読んでいると、「同時代性」などというものが、非常に判断しずらいものであることは明かである。わたくしはこの本にようやく同時代性を共有することになったのか、あるいは、この本の八〇年代には同時代性などなかったのか。それとも「同時代」が続いているだけなのであろうか。

一番可能性が高いのはわたくしの読解力の問題だが、――ひとつには、いま、四国遍路の地にわたくしが住んでいることも重要であるだろう。

思うに、高群における彼女の田舎がきわめて思想的に重要であって、それゆえ、四国遍路みたいなものも重要であるに違いないので、わたくしはこのひとなんかのエネルギーの在処を「地方の人間」としてかんがえたい誘惑に駆られた。



高崎経済大学の六〇年代の闘争をえがいた上のドキュメンタリーを初めて見た。高崎経済大学とわたくしの母校は、体育祭とかを一緒にやっていたからよく知っているのであるが、ICUとともに、単科大学における早くからの学生運動で知られているのであった。日大とか東大の運動の記録をみると、まるで津波のように学生が押し寄せる場面があるが、まったく今も三百人教室に津波が押し寄せて滞留しているのであって――、わたくしが経験した大学とはそういうものではない。まるで、全国から国語だけが好きな子たちが、再度国語専門高校に入学したかんじであって――、クラス名も「花・鳥・風・月」や「止・水・黎・明」で、まことに牧歌的なかんじであるが、決して全面的にそうではない。そこでは、マンモス大学にはある資本主義社会を仕切る(あるいは、学問的出世、でもいいが)人間になるための秘策が群の中にういておらず、閉じた学級会みたいなものが乱立している感じであった。

案の定、わたくしのいた大学にも孤立したセクトがまだ活動していた。

まったく無関係にみえなかったことは確かである。単科大学で趣味や勉強にふける我々と彼らは本質的におなじような気がしたからである。上の高崎経済大学の闘争の面々も、もはやわたくしがいた吹奏楽部の低音パートぐらいの人数である。それが大学と戦って逮捕され裁判にかかっている。これは、マス化した学生運動とは根本的に異なるものである。参加したら最後、逮捕裁判が目の前なのだ。マンモス大学でデモ隊の後ろからくっついていた御仁たちとは訳が違う。

わたくしが大学までで身につけた、そんな感覚を思い出した二作品であった。

嘆きわび空に乱るるわが魂を

2019-03-11 01:51:43 | 文学


「何ごとも、いとかうな思し入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、かならず逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ。大臣、宮なども、深き契りある仲は、めぐりても 絶えざなれば、あひ見るほどありなむと思せ」
と、慰めたまふに
「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあくがるるものになむありける」
と、 なつかしげに言ひて、
「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」
とのたまふ声、けはひ、 その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐらすに、 ただ、かの御息所なりけり。


この場面がいいと思うのは、最初の源氏のあんまり気持ちがこもってるとも思えない――とわたくしは思うんだが――紋切り型のせりふを、葵上(ではないのだが)が「いで、あらずや」と全否定したあとで、物思う魂はほんとに体をぬけでてしまうのですね……、と源氏の「かならず逢う瀬あなれば」、「深き契りある仲は、めぐりても 絶えざなれば」といった魂の行く末についての言葉の残響と絡みつつ、「わが魂を結びとどめよ」という、――魂の独立性だけの問題だけでいえば、葵上の言葉であってもまあおかしくはないのだが(やはり無理かもしれないが)、「たまふ声、けはひ、その人にもあらず」と急速に明らかになってしまうところであった。

だいたい、葵上にも冷たかった源氏のことである。本当は、生き霊なんかだれのものでもよいはずだ。生き霊なんてもともとは噂みたいなもので、生じてしまえば誰が口にしようと同じことだ。葵上の代わりに御息所がしゃべっただけかもしれないわけである。

それはともかく、震災のあと、我々の社会は、あたかも死者の声が聞こえるが如き仕組みをメディアなどで作り上げて独特な呪術国家になってしまったが、――いわば、メディアで流されているそれは、「かならず 逢ふ瀬あなれば、対面はありなむ」、「ダヨネー」みたいな妄想的コミュニケーションを延々しているようなものであって、源氏でさえ若くして罪に苦しみだしているのに、我々の社会は、まだ死んでも会えるみたいなところでうろうろし始めている人々を多く生み出している。まだ現実で正義を為している近代人と思い込んでいるわれわれは、噂の量で人を脅しつける手法をとっている限りはほとんど源氏の周りの凡人たちとかわらず、生き霊にもなりきれない妄想人にすぎない。

死者について語ると、源氏みたいなきれい事をいうことにもなりかねない。死者に自由はないから反論ができない。我々は自由に嘘がつける。そのために、昔は、生き霊とか死霊がきちんと「嘘つくな」と言いに来てくれたのであった。

まあ、いろいろ事情はあるにせよ、親子を含め他人とともにある人生は半分嘘なので、自分の生は自分だけで落とし前をつけなくてはならない。そのために宗教に頼るというのがひとつの道であったが、それは死んだ他人に頼ると現在の日本みたいに、欺瞞が幼稚で善良で誠実なかたちで行われるようになるのを避けるためではなかったか。わたくしは、自明の理がさまざまに分からなくなった我々に、法や近代を語る資格はもう既に失われていると思う者である。いや、実際に資格はあってもなくてもいいのだが、実際にきちんとまともに出来なくなってるじぇねえか、という……

さばかりにては、さな言はせそ

2019-03-07 23:55:02 | 文学


「さばかりにては、さな言はせそ。」
「大将殿をぞ、豪家には思ひ聞こゆらむ。」など言ふを、その御方の人も混じれれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。


学校で「車あらそひ」の場面を習ったときには、年寄りは引っ込めという友人たちに対して、六条の御息所はかわいそうだなあと思ったが、――いや、本当は大して何も思わなかったのであるが、考えてみると、葵上にしても六条の御息所にしても、賀茂祭でうきうきしすぎなのだ。後者は特に、お祭り騒ぎで鬱憤を晴らそうと来ているわけであって、上のように「源氏の大将を笠に着るつもりなんじゃねえか」みたいな暴言を吐いている、葵上の方のあほな若手にしても、お祭りで普通の精神状態ではない。普段の秩序が崩れているところで、かえって普段の隠れていた現実が顕わになってしまい――、そりゃ、隠れた怨念が現実に飛び出すわけである。かくして御息所の魂は分離して恋敵を襲うようになる。

対して、源氏は、生まれたときからお祭り状態なので関係ない。

そういえば、大澤真幸氏が『〈自由〉の条件』のなかで、例の「江夏の二十一球」について解釈してて、江夏の、満塁での石渡のスクイズを外した奇跡のウエストボールの秘密を次のように述べていた。すなわち、江夏は超人でもなければ、努力によって全てのケースに対応する能力を持っていたのでもなく、バッターという他者(第三の審級)に感応しただけだ、というのである。それが江夏の「自由」を生んだと……。

自由は本当にそんなものであろうかとも思うけれども、考えてみると、生き霊となってしまう人は、その他者みたいなもんに感応することの出来なかったとはいえるかもしれない。祭りでは、そんな他者が現れる。そして、葵上や御息所が実は不自由な生活をしていることが明らかになってしまう。

いかなる場合にも、自からを偽ることなく、朗らかな気持になって、勇ましく、信ずるところに進んでこそ、人間の幸福は感ぜらるゝ。しかるに矛盾に生き、相愛さなければならぬと知りながら、日々、陰鬱なる闘争を余儀なくさせられるのは、抑も、誰の意志なのか? これ、自からの信仰に生きずして、権力に、指導されるからではあるまいか。

――小川未明「自由なる空想」

残念なことにと言うか、当たり前というか――近代に於いては、だいたいこういう人が生き霊となる。

朧ろけならぬ契りと度胸

2019-03-06 20:11:38 | 文学


「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、
「何か、疎ましき」とて、

深き夜のあはれを知るも入る月の朧ろけならぬ契りとぞ思ふ

とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、
「ここに、人」
と、のたまへど、
「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ、忍びてこそ」


ここだけ読むと、何か犯罪映画の一シーンのようだが、「朧月夜の君」との密会の場面である。朧月夜の興趣を共有するなんて――なんという前世からの契り、などといつもの調子で自分の腕の中に引きずり込んだ相手は、右大臣の娘――政敵の弘徽殿の女御の妹であった。そりゃまあ、舞台が舞台なのでこういう話は必然であったような気もするのであるが、――思うに、紫式部ははやくも書くことがなくなってきていたのではと疑われる。ただ、書くことがでてきた人になるとこうなる。

「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧にお辞儀をした。三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、
「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。三四郎はプラットフォームの上へはじき出されたような心持ちがした。


この迷える子羊が朧月夜がなんたらという実践力をそなえた場合どうなるか。いうまでもなく、ドストエフスキーの描くテロリストになるわけである。冗談のようであるが、やたら歴史を弁証法的に統一して何かをしようとするときの危険性はこういうところからも察せられる。知に立脚するときの注意点はこういうところにもある。

皆朕が罪なれば

2019-03-06 19:10:40 | 思想
会田雄次の『ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界』という本の中に、「皇室のあり方について」という文章がある。そこで氏は、慶応4年にでた「国威宣布ノ宸翰」を引用して、明治天皇が示したのが天皇の「完全無私」という性格であったと解している。

蜜かに考ふに中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表には朝廷を推尊して実は敬して是を遠ざけり、億兆の父母として絶えて赤子の情を知ること能はざるやう計りなし、遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、其が為に今日朝廷の尊重は古に倍せしが如くして朝威は倍衰へ上下相離るること霄壌の如し。斯る形勢にて何を以て天下に君臨せんや。今般朝政一新の時膺りて天下億兆一人も其所を得ざるときは、皆朕が罪なれば、今日の事朕躬ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立ち、古列祖の尽させ給ひし蹤を践み、治績を勤めてこそ、始めて天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし。

確かに中世以来の武家政権による親子分離政策(違うか)によって、霄壌のように離された自分と民との関係を何とかしなくてはならず、上手くいかない場合は?「皆朕の罪」であって、「朕躬ら身骨を労し、心志を苦しめ、艱難の先に立」たなければならないという。このあと、むかしのご先祖は、部下と仲良く戦争の先頭にたっておったぞ、みたいなことが書かれているので、今とはだいぶ違うように思うが、会田氏が「完全無私」が実は明治天皇が崇拝されるに至った原因であるとみなしているのはなんとなく分かるし、――氏が、私生活の充実という模範を示すような現在のありかた(昭和41年)よりも、「新しい明治天皇」のようなものがこれから必要なのではないかと言っているのも、氏の論理からするとわかった。それは、日本人は、横の関係よりも縦の関係でしか自分を支えられないという哲学による論理である。

かんがえてみると、最近の天皇のあり方は、会田氏の推測したとおりになっている。今の天皇と美智子皇后の「理想の家族」像は、平成になってからほとんど消滅し、そのかわりにあまり上手くいかなかった子ども・孫たちのスキャンダルが話題になって、「理想の家族」像が上書きされる一方、天皇皇后は戦争と災害の人心を鎮めにかけずり回る高度ボランティア的な何かになってしまった。確かに、戦の先頭に立たない「新たな明治天皇」みたいな感じである。われわれも、いつの間にか、完全無私みたいな人間をフヤしてしまっている。



テレビで、「HERO」という木村拓哉主演の映画がやっていたので、観てみた(はじめてみたぞ、このドラマ……)。わたくしがよかったと思うのは、ここには未熟な子どもが一人も出てこなかったことである。物語の目標は、悪い奴を裁くというというより、愛する人を見つけることで、そこで物語は止まっている。キムタクと松たか子が演じてきた一連のラブコメであるから当然なのであるが、青春ドラマであるうちは、「チーム検察」も見れたものである。ただ、キムタクを好きな検察事務官・松たか子が、上司と部下なのはなんかあれである。現実問題として、ボスについて行きますみたいなこういう女子は、もっと底意地の悪い奴に決まっている。(個人の見解です)

明治天皇は、親を敬愛するみたいな子が、底意地の悪い奴になってゆく可能性はまったく考えていない。明治天皇はこのとき十五歳。自分が子どもなんだからしょうがないかもしれない。いや、そんなことはない。