和辻哲郎の随筆は面白くなるまでに時間がかかるものが多い。今日も、「犬の社会」という昭和27年にかかれたものを読んだが、最初は案外退屈で、猿よりも犬が人間に近いんじゃないかと言われても、そりゃ従順だからそう思うわな隣人は憎くても我々に似ているのに……、と思わざるをえない。ところが、この小市民ぶった態度が最後にきいてくる。
自分が飼っていた従順な犬ではなく――、行き場をなくした「醜い」野良犬が自分の家の周りをうろついていたので、トラックで遠くに捨ててきて貰った。しかし、ある日、三週間ほどたったある日、「ひょこりひょこり坂道の段々を上ってくる」彼をみて、和辻はぞっとするのである。
そして、犬にも社会があり、命がけの縄張りを争いをしても「存在権を承認される社会は、案外に狭かった」のであるなどと言っている。そして結局、和辻は、その醜い犬を大学病院の実験犬に寄付する。
いうまでもなく、和辻は、この犬に昭和27年の日本におけるルンペン情況だけでなく、日本そのものを見ているのであろう。
――しかし、犬を語るまでもなく、その最後の地点から見える何かが問題ではなかったのか。
それから一二年して、仕事にヒロポンを用いているという二人の男にぶつかった。南川潤と荒正人だ。南川がヒロポンというのは話が分るが、荒正人とヒロポンは取り合せが変だ。ヒロポンが顔負けしそうだけれども、彼は女房、女中に至るまでヒロポンをのませて家庭の能率をあげるという奇妙な文化生活をたのしんでいるのだそうである。
坂口安吾は「反スタイルの記」でこんなことを書いていた。わたくしは荒正人がそうであったとしても驚かない。荒正人はそんな実験的な平等主義者だ。スタイルとは関係がない。坂口安吾みたいなスタイルに拘るひとたちが自分以上の何かを努力しようとして無理な働き方をした。堕落ははやり無理矢理な堕落だった。
和辻は、そんな堕落なしの可愛い犬のレベルに人間を設定している。
考えてみると、こんな両極端に対して、南川潤みたいな通俗小説の書き手で原爆反対運動の旗手こそが正しかったのかもしれない。
もっとも、そんな風に思うのは、われわれにそもそも自由がなくなっているからだ。他人がどんな生き方をしようと関係ないはずなのに、ついわれわれはどういう生き方が妥当なのか考えたがっている。
いまうちの大学の博物館で「木村美鈴寄贈作品展」がおこなわれている。木村先生は一昨年亡くなっていたのだが、わたくしは木村先生を含む何人かの先生や学生と一緒に中国に旅行したことがあったので、ちょっぴり知っていた。わたくしが四国にやってくる直前ぐらいに退官されていたので、一緒に職場にいたことはないのだが、――内気な人であったような気がする。作品からなにか倫理の問いかけを感じるというのはあまりないが、この人の作品にはそれを感じる。自由人の作品には倫理的なところがある。まだ作品の未来を語る雰囲気の中に芸術家がいた証拠であるとわたくしには思われた。自由は、単に自由な感じではなく、自由な時間感覚なのである。働き方改革やらアクティブラーニングやらにはそんなものは全くない。逆に時間の管理が特徴である。