いまどきのスマホは、しらんうちに画像を加工してオススメしてくる。
まめ文、通ひ通ひて、いかなるあしたにかありけむ、
夕ぐれのながれくるまを待つほどに 涙おほゐの川とこそなれ
いかなるなんとかにかありけむ、という言い方がわたくしは好きで、源氏の所謂「いつれのおほんときにか~」も、いつのことであったんだろうねえ、と言いながら読者にはいつのことなのか勝手に断定せざるを得ない心理が働くのではなかろうか。違うか……。――いずれにしても、要するに結ばれた朝のことなのはたぶん明らかで、だからこそ、「涙おほゐの川」という小学生みたいな男の歌が面白い。
返し、
思ふことおほゐの川の夕ぐれは 心にもあらずなかれこそすれ
対して蜻蛉さんの方は、多いとは言ってもそれは涙とかおしっことかいう小児みたいなもんじゃなく「思ひ」である。二人ともベッドインしたくせになにほにゃほにゃ言い合ってるんだと思うが、こんなもんなんであろう。事態は逆で、ベッドインを結婚に差し戻すのがこの歌の世界なのであろう。
また、三日ばかりのあしたに、
しののめにおきける空は思ほえで あやしく露と消えかへりつる
返し、
定めなく消えかへりつる露よりも そらだのめするわれは何なり
「そらだのめするわれは何なり」。さあ言ってみろ、私は一体あなたのなんなのだ?と問い詰めているのかもしれないが、もっと冗談みたいなものなのであろう。若者たちの「何それ~」みたいなものだろう。――が、それは彼らがこれからも仲良いことが前提なのだが、物語はそうじゃない。これはフラグなのであった。
と言うわけで、「蜻蛉日記」の作為ぶりはなんかあからさまな感じもするので……、わたくしはこの夫婦が仲が悪かったことも疑わしいとさえ思うのであるが、それもふくめて読者の楽しみと言ったところだ。
小林秀雄は、「平家物語」(『無常といふこと』)で、平家物語は、作者も知らない叙事詩の魂によって書かれていて、それは短調のシンフォニーみたいなものでその曲調は「哀調」じゃないんだ、みたいなことを書いている。蓄音機にしがみつく小林は、音楽の世界に、みえない叙事詩の魂を見出したのでかもしれず、音を人間の叙事的空間の役割に解放したかったのであろう。だから、我々の生きて居る町の中にすらモーツアルトがいなくてはならないのである。彼は、60年代にバイロイトに行って「バイロイトにて」を書いている。バイロイトはつまらない街で劇場も巨大な「喇叭」であった。ワグナーの世界は蓄音機の「中」の世界であった。小林は耳を澄まして最後にやっと舞台をちょっと対象化できる感じになった、みたいなことを書いていた――気がする。
「蜻蛉日記」にはその短調が聞こえるであろうか。いまのところ、私にはあまり聞こえないのである。わたくしは昔、「蜻蛉日記」の方が、源氏よりあとの作品だと誤解していたのは、なんとなく「蜻蛉日記」が心理小説的に見えたからだと思う。
叙事詩を書かざるを得なくなるときがあるのだ。魂は、人間に宿るものではなく、時代に宿っている。そして、今回のコロナ騒動のように、目に見えないものによって、一気に世界の網の目のような世界が浮き上がってきて、それがドラマというより叙事のようなかたちで書き記すしかなくなるのである。
小林は本当は「平家物語」にも不満だったと思う。そして自分が戦時下にあってそういう叙事詩を書ききれない自分を憾んでいた気がする。
これを初めにて、またまたもおこすれど、返りごとも せざりければ、また、
おぼつかな音なき滝の水なれや行方も知らぬ瀬をぞたづぬる
これを「今これより」と言ひたれば、痴れたるやうなりや、 かくぞある。
人知れず今や今やと待つほどに返り来ぬこそわびしかりけれ
次々に手紙をよこすカネ家。無視する蜻蛉さん。「あなたはもしかして音なしの滝なんですか?」そんな訳はないだろう。カネやんは滝のうるささを知らないのであろうか。無視する蜻蛉、と思いきや「あとでお返事します」と言ってやった。すると「バカじゃないかという夢中な感じで、こんな風に言ってきた」←口が悪いのう蜻蛉さんは……
「あなたの手紙を人しれず今か今かと待っているのに全然来ないじゃないですか淋しいですYO」
なんじゃそりゃ、子どもかお前は……
このあと蜻蛉さんのじらし戦法は、侍女による代筆作戦にうつってゆくが、――そんな感じで
かかればまめなることにて月日は過ぐしつ。
どこが「まめ」(誠実)なのかちょっと言ってみてくれよ、というかんじであるが、いつの時代も習慣なのか意地の悪さなのか分からないことは多い。
はじめてジャックにあって、道をおしえてくれた妖女が、こんどはまるでちがって、目のさめるように美しい女の人の姿になって、またそこへ出て来ました。きらびやかに品のいい貴婦人のような身なりをして、白い杖を手にもっていました。杖のあたまには、純金のくじゃくを、とまらせていました。そしてふしぎな豆が、ジャックの手にはいるようになったのも、ジャックをためすために、自分がはからってしたことだといって、
「あのとき、豆のはしごをみて、すぐとそのまま、どこまでものぼって行こうという気をおこしたのが、そもそもジャックの運のひらけるはじめだったのです。あれを、ただぼんやり、ふしぎだなあとおもってながめたなり、すぎてしまえば、とりかえっこした牝牛は、よし手にもどることがあるにしても、あなたたちは、あいかわらず貧乏でくらさなければならない。だから、豆の木のはしごをのぼったのが、とりもなおさず、幸運のはしごをのぼったわけなのだよ。」
――「ジャックと豆の木」(楠山正雄)
ああそうですか。豆は大事なんですね。
3密さけたので寒かった……。疲れた……。どうみても危機に臨んで旗をふりふりうきうきしている人間がいるが、わたくしも学生運動の時代に生まれていたならばなんかうきうきして街をうろついていたに違いないのだ。
「誰」など言はするには、おぼつかなからず騒いだれば、もてわづらひ、取り入れて持て騒ぐ。見れば、紙なども例のやうにもあらず、いたらぬ所なしと聞きふるしたる手も、あらじとおぼゆるまで悪しければいとぞあやしき。
兼家がやってきた。兼家の父は右大臣、蜻蛉さんの父は受領。県庁の娘にいきなり麻生太郎の息子が求婚しに来たようなものだ。――と考えると大したことはないのだが、カネのことを考えるともうそうはいってられない。もはや金家(カネイエ)としか思われない。蜻蛉の実家は大騒ぎである。で、求婚みたいなしゃれた感じでもなくすごく達者な字だと噂されていた筆跡も「これ違うんじゃねえかしら?」と思われるほどゴミクズみたいな字だったので「あやしい」と思うのであった。書いてあったのは、
音にのみ聞けば悲しなほととぎす こと語らはむと思ふ心あり
可愛らしいという噂ばかり聞いてるので僕は悲しいです時鳥ちゃん、是非じっくりお話ししたいと思ってるんです
それはともかく、かような事態には慣れておらぬ田舎の家であるので、「いかに。返りごとはすべくやある」と慌てふためていると
古代なる人ありて、「なほ」とかしこまりて書かすれば、
語らはむ人なき里にほととぎす かひなかるべき声な古しそ
古めかしい母親が「ちゃんとしなきゃだめです」と言うので恐縮して書いたものが、上の歌である「そんなお話相手はここにはおりませんことよ時鳥さん、無駄に鳴いて聞き飽きられないようになさいませ」と。思うに、通い婚というのは、時鳥に喩えられるのではなく、時鳥を真似ているのではなかろうか。我々はこういう擬態をしているから活き活き出来るのである。
さっき、NHKで、ネット上に集積されたデータがリアルな個人を模倣出来るかみたいな番組をやっていたが、およそくだらない。自分の情報が自分に似ているのは当たり前であり、自画像が自分に似ているといって驚いているのはお馬鹿ちゃんである。自撮りとかなんというのも貴族趣味に過ぎず、そんなもんは十九世紀に乗り越えられているのだ。問題は、どう我々が常に何かを模倣し変身しているのかである。プライバシーというのはこういう変身の過程のことであると思うのである。
ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、かけぶとんがすっかりずり落ちそうになって、まだやっともちこたえていた。ふだんの大きさに比べると情けないくらいかぼそいたくさんの足が自分の眼の前にしょんぼりと光っていた。
――「変身」(原田義人訳)
我々はしばしばこういう朝を迎えている。兼家も蜻蛉さんもまだ時鳥のふりをしますよ、というレッスンをしている段階であり、変身はお互いに対面で向き合ったときに訪れる。これは長大な過程である。
かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経ふ人ありけり。かたちとても人に似ず、心魂もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことはりと思ひつつ、ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ、天下の人の品高きやと問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてありぬべきことなむ多かりける。
「蜻蛉日記」は堀辰雄や室生犀星の作品から入って、読んだ気になっていたが、――その実ちゃんと読んでなかったことが悔やまれる。「世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり」と、古い物語を平凡な空言と貶し、自分の日記で越えていこうという気満々であるが、物語が平凡にみえるのは、――わたくしもそうであるが、引きこもっている時であって、お外に出れば、世の中奇想天外なことばかりである。昨日、道路を渡っている蝶々の幼虫を眺めていたのだが、実に不思議な体の運動である。この動きに比べれば、道綱の母の夫の浮気など想定内の動きに過ぎぬ。とはいえ、これはわたくしの引きこもり的妄想であろうからどうでもよい。
「かたちとても人に似ず、心魂もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことはりと思ひつつ、ただ臥し起き明かし暮らすまま」という言い方は自意識を感じるが、なにしろ、このこの方、美人で有名だったのだ。「かたちとても人に似ず、心魂もあるにもあらで」というのは、並外れて美人で大した考えもない、――もしかしたら、私はちょっと、所謂「心」の存在がかすむ程に美しすぎてね、と言っているようにも思える程である。だからこそ、「天下の人の品高きやと問はむためしにもせよかし」(最上級の男との生活は如何に?という問題の例にもしてくださいな)ということがますます煽り文句となるわけである。で、しかも、記憶は危ういんだけど、ときた。美人と美男の生活の記憶はあやふやだ、――読者としては、そうですか、逆にもっと聞かせろ、となる。
『そうです。若くて、金があって、しかもいい地位にいる、あの男です。私は残念ながら、ネネを最後まで満足させることが出来なかったんです、ネネは大勢の人々に讃美渇仰される為には、何物も惜しまぬ女ですからね。ネネは例えば心の底では一人の男を愛してはいても、それが守って行けない女なのです。彼女は本当に都会の泡沫の中から現われた美しい蜉蝣ですよ、ネネは、その僅かな青春のうちに、最も多くの人から注目されたい、という、どの女にもあるその気持を、特に多分に、露骨に持っただけなんですね。
――蘭郁二郎「腐った蜉蝣」
わたくしは、こんなことを思う余裕はなかった。大概の男にもないのではないだろうか。身近には、政治に興味がある男しかこの蜉蝣に当てはまるような人間はいなかった、――わたくしの経験では。
あからさまにまかてゝ、二の宮の御五十日は、正月十五日、その曉まいるに、こ少將のきみ、あけはてゝはしたなくなりたるにまいり給へり。
中宮の次男が生まれて五十日のお祝いが、正月十五日にあった。帰省していた紫さんは当日の夜明け前に参上したのだが、小少将の君はすっかり明るくなって決まり悪い時間になってご出勤。
面白いのは、案外女房の世界がゆるいということである。以前、紫さんも帝の行幸の時にはうじうじして文句を言ってギリギリに間に合う?みたいな行動をとっていたし、ここでも同室の若い女房が遅刻?である。ここの挿話は小少将といかに仲がいいかを示すものなので、「【ベスト】嗚呼私たち遅刻魔よ【フレンド】」みたいなのりなのかも知れない。事実はともかく、ということである。
例の同じ所にゐたり。二人の局を一つに合はせて、かたみに里なるほども住む。ひとたびに参りては、几帳ばかりを隔てにてあり。殿ぞ笑はせたまふ。
「かたみに知らぬ人も語らはば。」
など聞きにくく、されど誰れもさるうとうとしきことなければ、心やすくてなむ。
「お互いに相手の知らぬ男がしのんできたらどうする?」というエロ道長が言う。でも私たち友だちだから大丈夫だよねー、というわけである。
むろん、女の心はなんとやらなので、この二人が何をしていたのかは分からない。だいたい、目の前のエロ道長との関係はどうなのであるか?お互いに知っている男ならいいのか?例えば、道長ならお互いによいのか?
元来主人は平常枯木寒巌のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱には恋着するという事が諷刺的に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が何故牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などには到底分らない。或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質だからだとも云う。
漱石というのは強がりを書く作家であるが、紫さんがそうでなかったとは言い切れぬ。ただある意味うらやましいのは、漱石みたいに「牡蠣的生涯」とか言ってしまう視点が紫さんにはないということである。
渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、恐しさに音もせで明かしたるつとめて
夜もすがら くひなよりけに なくなくぞ 真木の戸口に たたきわびつる
返し
ただならじ とばかりたたく くひなゆゑ あけてばいかに くやしからまし
道長かどうか分からんが、紫さんのところに訪ねてきた男ありけり。戸を叩く音がする。恐くて一睡も出来ずに明かした。すると「夜通し水鶏よりすごく戸口をこんこんと泣きながら叩いてたんですよ」ときた。紫さんは「ただ事じゃない叩き方でしたわね、ホントは「とばかり」(ちょっとだけの)あれなんでしょう?そんな水鶏なんですからね、戸を開けたら後悔しちゃうワ」と即答。
水鶏(くひな)がどういう声として捉えられていたのかわからないが、いま調べてみた限りでは、案外ノックの音とは違うようだ。いわばおきゃんな若い女房が喋っているようなリズムがある。わたくしは、このやりとりは別に女が男をフッたものでも一度はフルものという習慣のものとはおもえない。水鶏のような音=恋のさえずりだと思うのである。
我々の世界の恋愛が痩せこけてきたのも、我々が動物たちを模倣しなくなったことが大きい。いつから「動物」が概念となってしまったのか?
母親に会いたいというグレゴールの願いは、まもなくかなえられた。昼のあいだは両親のことを考えて窓ぎわにはいくまい、とグレゴールは考えていたが、一、二メートル四方の床の上ではたいしてはい廻るわけにいかなかったし、床の上にじっとしていることは夜なかであっても我慢することがむずかしく、食べものもやがてもう少しも楽しみではなくなっていたので、気ばらしのために壁の上や天井を縦横十文字にはい廻る習慣を身につけていた。とくに上の天井にぶら下がっているのが好きだった。床の上にじっとしているのとはまったくちがう。息がいっそう自由につけるし、軽い振動が身体のなかを伝わっていく。そして、グレゴールが天井にぶら下がってほとんど幸福な放心状態にあるとき、脚を放して床の上へどすんと落ちて自分でも驚くことがあった。
――カフカ「変身」(原田義人訳)
この作品の恐ろしい場面の一つで、グレゴールにおいては常に体の変化が意識よりも先なのだ。勝手に体が虫になって行く。彼はおそらく病気なのである。家族から嫌われていても我々は虫になることはないが、虫になる病がこれから流行るかも分からない。我々は紫さんの時代と違って、我々が本当に目に見えないレベルでは大きなシステムの中の交換や組み替えの結果に過ぎないことを知っており、目に見える部分を本当には信じていないのである。我々が植物や昆虫に対して急速に興味を失ってしまったのも、目に見えないものに対して注意を向けすぎたせいでもある。
源氏の物語、御前にあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとども出で来たるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる
すきものと 名にし立てれば 見る人の 折らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
とて、賜らせたれば
人にまだ 折られぬものを 誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ」
紫式部の返しは異様にエロティックであると思う。彼女は子持ちのくせに「わたくしは折られたことはありません(男の経験がありません)誰が、私のことを「好き者」と言っておられる?」と言い放っている。道長が「好き者として評判のあなたを口説かずにいる男はあるまい?」と一般論的に誘っているところに対して、「私処女だけど誰が好き者と言ってるの?」という彼女の返しを聞いた道長は、「好き者と言っているのはまず俺だよね、俺は君のことを好き者として想像した当事者だよね、処女としての君を」という初恋の当事者に似た感情を誘発しているのではなかろうか。これは処女信仰?を利用した、非常にどぎついやりとりであって、こういうやりとりをしたあとじゃ、むしろお互い拒むことができなくなってしまうであろう。――これは和歌を用いたやり口ではあるが、行動を促す実効力があり、こういうやりとりによって、文化が政治の中心を強制して、文化の中心という権力を獲得するのではなかろうか。要するに、結果的にではあるが、紫式部に権力的な意思があるのと同じなのだ。志村けんと石野陽子のコントにはそれはないから、彼らはひたすら同じ状況を繰り返して行く面白さに浸るのである。80年代にみられるのは、こういう反復としての快楽だったような気がする。これは権力意思とは無縁の庶民的なものであった。志村けんのコントにセクハラがあるかという問題は、こういう問題と絡まっている。
「首切りを取消せ!」
彼らの強く踏みつける靴の下でダラ幹組合旗はへし折られ、蹂躙され、破れた。彼らは今こそ全協の旗の下でストライキに起つた。
汚れた旗よ、失せろ!
俺達は新しい全協の旗を高く掲げよう!
――永崎貢「組合旗を折る」
これだって、反復が命の文化である。ただ、汚れた旗を折りつづけるのは疲れる。道長だってそれほど軽いノリで紫さんを誘ったとは思えない。反復ばっかりやっていると、恋や革命は難しくなるのだとわたくしは思う。
書に心入れたる親は、「口惜しう、男にて持たらぬこそ幸なかりけれ。」とぞ、つねに嘆かれ侍りし。それを、「男だに、才がりぬる人はいかにぞや。はなやかならずのみ侍るめるよ。」と、やうやう人のいふも聞きとめてのち、一といふ文字をだに書きわたし侍らず、いと手づつにあさましく侍り。
紫さんは文人・藤原為時の娘であった。この父親が息子に漢文を仕込んでいたら、傍で聞いていた紫さんがすっかり覚えてしまったのである。紫さんにとって漢文の教養は秘かに無理に勉強したとしても、むろんひけらかすものでもなかったから、たまたま自然に覚えてしまったんです、ということにしているのかもしれない。むろん、本当にそうだった可能性もあるとは思うが、――文脈的には、要するに紫さんが言いたいのは、私は「自然」にやってます、ということだ。漢文を覚えているのも自然なら、漢文なんか詠めないふりをしているのも、「男でさえ才をひけらかす人はぱっとしないようではありませんか」ということを聞いたから、自然にそうしているのです、ということである。この前で『源氏物語』を読んだ帝が、「紫は漢文をずいぶん読んでるな」と言ったことが紹介され、この後では、中宮に白氏文集の新楽府を教えているのも、中宮が興味を持ったからやっているんですと述べている。自分はすべて自然に従っているのだと言っているようなものである。
左衛門の内侍といふ人侍り。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知り侍らぬ心憂きしりうごとの、おほう聞こえ侍りし。
紫さんが一番いやがっているのは、こういう嘘を振りまく輩であった。こういうものたちへの怒りが第一義であり、この後の上記の漢文に関するエピソードも、このいやな内侍が「紫式部は漢文が得意で「日本紀の御局」だねえ」とか言うてたことに対する反論に過ぎない。嘘の対義がシモベとしての自然の成り行きという紫さんの考え方は賛否両論あると思うが、我々の社会が、異様にこの現状の自然さに拘る癖があるのも、こんな苦労をし続けたせいかもしれないのだ。
それにしても、漢文に対するアンヴィヴァレンツは今日の英語と全く同じであって、我々はまったく変わっていない。
人類が、もし、失われたる幸福を取り返えさんためには、この物質主義的文明を拒否すればいいのだ。一言にすれば、虚飾を排することだ。しかも、これを拒否する自由は、誰にもある。
やはり、芸術に於てもそうだ。複雑なる主義に、たとえば、政治に、経済に、既成の哲学に、依拠し、隷属しなければならぬとするごときは迷蒙である。こうしたことによって何等か、感激を呼び起した場合がなかったと言わない。しかし、いまは、この重圧のために、空想を、想像を、拘束されているではないか。
――小川未明「単純化は唯一の武器だ」
これは昭和5年の文章で、こういう言い方が出てくるようになると危ない。確かに我々は自分を見失っているところはあるし、米国やイギリスのようにはやれない。しかし米作りだってなんだって研究熱心な賢い人々が成功させてきたのである。単純化なんていうのは劣等生の症状だ。戦後はまだ、素朴なふりをしながら裏で「自然」を組織するずる賢い輩ががんばっていた。しかしいまは、症状がなかなかおさまらないうちに失敗を恐れて行動が萎縮し、指示をあらゆるものに適応させる人間が増えてしまった。かくしてすべてが「不自然」の連続にみえるようになるわけである。
演技でなく、本当に「いと手づつにあさましく侍り」(本当に不調法であきれはてたものです)になってしまったのである。紫さんにだってそういう側面がなかったとはいえないのではなかろうか。単なる想像であるが……。
さっき志村けんが笑福亭鶴瓶の「家族に乾杯」に出演したときの録画が流れていた。二人はほぼ同世代の芸能人だが、素人と一緒に場を形成して行くのは鶴瓶の方が遙かに上手で、志村けんの方は引っ込み思案的な穏やかな人で、しっかり人工的に作品をつくるあげる人だということが伝わってくるようだった。考えてみると、教員にも二つのタイプがいるはずで、前者が最近は持ちあげられているが、理不尽な話である。面白いことに、鶴瓶は落語家でもともと一人芸の人で、志村けんはドリフターズだから集団芸のひとなのである。分かりやすくするために、ふたりを引き合いに出してみたのだが、――教員でも案外一人語りをしたがる人間ほどなんだか対話的になってゆき、そうでもない人が作品みたいに講義を洗練させようとするものである。
しかも、独りよがりなのは、講義をしたがる人間よりも学生との対話をしたがる教員だというのが、なんとなくわたくしの経験から言える気がするのだ。おそらく、それが独りよがりとみえるのは自信のなさを他人との対話で埋めているからである。対して勉強している人間というのは、自分に対してもだめな人間に対しても羞恥心があるから、対話が却って恐ろしくなる。
それ、心よりほかのわが面影を恥づと見れど、えさらずさし向かひまじりゐたることだにあり。しかじかさへもどかれじと、恥づかしきにはあらねど、むつかしと思ひて、ほけ痴れたる人にいとどなり果ててはべれば、
「かうは推しはからざりき。いと艶に恥づかしく、人見えにくげに、そばそばしきさまして、物語このみ、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、ねたげに見落とさむものとなむ、みな人びと言ひ思ひつつ憎みしを、見るには、あやしきまでおいらかに、こと人かとなむおぼゆる」
とぞ、みな言ひはべるに、恥づかしく、人にかうおいらけものと見落とされにけるとは思ひはべれど、ただこれぞわが心と、ならひもてなしはべる
ボケキャラを演じていた紫式部であるが、「もっとつんつんしているかと思って嫌っていたのよ。案外「おいらか」(おっとり)してるのね」と言われて恥ずかしくなる。ボケキャラは高慢な人とまともに付き合わない為の作戦であったが、そういうことをしていると却ってひとを遠ざけてしまう。本心では人を馬鹿にしているからである。しかし、注目すべきなのは、紫さんの決断の早さであって、――本物の「おいらか」なひとになるという決断をしたのである。で、中宮とも打ちとけることができた。ここには、社会的人間として馴致しようとする葛藤がない。ただ「恥ずかし」と思っただけである。これは我々にはちょっと想像出来ない。
女らしい我ままや、おしゃれは、級の中で誰よりも持っていた。家が、金持ちの実業家であり、末の娘であることから、ちっとも憎らしくはないたよたよとした処、無意識の贅沢、おっとりした頭の働きが、ありありと思い出される。
その他、私としては、胆に銘じ、忘れ得ない記憶がその人に就ては与えられている。私は、幾度も、
「可哀そうに」
と云った。思い出すと、可哀そうに、と云わずにはおられない。――
――宮本百合子「追憶」
本当は、紫さんだって、本来的に育ちがよかったのだろうと思うんだが……
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。
和泉式部については、学部でも院でも演習で習ったはずであるが、わたくしには難しくてあまりついて行けなかった記憶がある。それでもこの前その「日記」の冒頭部を読んで見たら、結構諳んじていることが分かったので、勉強はしておくもんだなと思った。それでも和泉式部はとても難しいという感じがいまもしていて、いろいろ読んでからの方がわかるんじゃねえかと思っている。
「はかない言葉のにほひも見えはべる」(何気ない言葉が匂い立つようみえます)――これはなんだか分かる気がする。これを不心得者が、天才は却ってわかりやすく表現するものだとか言うてしまうのだが、そういうことじゃない。
それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
いまも昔も批評の言語というのは、ただでもその人の格を落とす行為になりがちなのだ。下品になるというのもあるけれども、批判の言葉というものはそれ自体で歌や小説の境地に達するのは無理だからなのである。だから、この格の下落という現象は、人そのものを批判する場合には案外有効である。「このクソ餓鬼」という非難が、もっとひどい状態にある子どもを救う場合がある。否定か肯定かで考えている人間に何か創造的なことが出来るとは思えない。この紫さんの批評でも二項対立的に考えたために、和泉式部の勤勉な面を取り逃した。そもそも、こういう上げて下げてみたいな批評は、いまの、確かにAしかしBのやり方と同じで、Bの暴発を一生懸命押さえているという、ルサンチマンにルサンチマンを重ねてしまうやり方であって、精神衛生上よくないばかりか、時間の無駄なのである。
我々のコミュニケーションの場合は、褒める方が即効性があるみたいな半端な科学主義が入り込んでいるため、よけい時間がかかる。
自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲った。そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両腋から汗が出る。背中が棒のようになった。膝の接目が急に痛くなった。膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。無はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。無念になる。非常に口惜しくなる。涙がほろほろ出る。ひと思に身を巨巌の上にぶつけて、骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。
――漱石「第二夜」
無はアイロニカルなものであるけれども、ここにはいろいろなものを入れたっていいのだ。我々には自然な動作以外に役立つものはほとんどない。
まづは、宮の大夫参りたまひて、啓せさせたまふべきことありける折に、いとあえかに児めいたまふ上臈たちは、対面したまふことかたし。また会ひても、何ごとをかはかばかしくのたまふべくも見えず。言葉の足るまじきにもあらず、心の及ぶまじきにもはべらねど、つつまし、恥づかしと思ふに、ひがごともせらるるを、あいなし、すべて聞かれじと、ほのかなるけはひをも見えじ。
仕事というのはこういうことがある。引っ込み思案な集団は神経は張り詰めているのに、恥ずかしいミスが恐い、という訳で身を竦めてしまう。ただでもこういうことがあるのに、その人それぞれの適性に合わせて仕事しましょうということになれば、恥ずかしさが消えただけで、堂々と身を竦めるという奇妙な状態になる。――最近、よくみる光景である。
我々は集団でいると互いの脳が漏れ出してそれらを共有しているような状態になる。学会に参加しただけで賢くなったりあるいはその逆だったりするのはそのせいであろう。紫さんは、自分が漏れ出す脳みそとなって女房集団を叱咤激励しているのであろう。
マルクス・ガブリエルが https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/8624/2 で、「コロナ危機 精神の毒にワクチンを」(斎藤幸平氏訳)を書いている。グローバル資本主義の感染によって引き起こされている事態(気候変動を含む)を考えとかにゃ、コロナ対策は、あるニューヨーカーが言うところの「科学を信奉する北朝鮮」を生み出すだけだ、我々が目指すのは、「共産主義Kommunismusではなく、共免疫主義Ko-Immunismusである」――「競争的な国民文化、人種、年齢集団、階級に私たちを分断する精神の毒に抗するワクチンを打たねばならない」、――ガブリエルのいつもの調子なんだけど、こう言っている。パンデミー(全民衆)に必要なのは「ウイルス学的パンデミー」のあとの「形而上学的パンデミー」なのだ、と。前者は我々を救うことはない、グローバリズムに対する倫理的教育こそが必要だというわけだ。
かかる意見に対しては、西洋人のいつものいい子ちゃんか、という感じを我が国ではもたれがちであって、外山恒一氏なんかは、コロナと同盟を組んで(感染して)死を覚悟で街に繰り出そうと述べている。コロナは人間が行うグローバリズムなんかとは別次元の素早さでパンデミーに浸透する。この能力に乗らない手はない、と言うわけだ。ちょっと『〈帝国〉』の人の――制度的に総動員されているのを逆手にとってそのまま総動員的に革命だ、みたいな発想に似ているような気がする……。もっとも、わたくしの経験では、この換骨奪胎作戦はだいたい換骨奪胎というやつが非常に観念的操作であったことを露呈させて終わる。結局、外山氏が理屈でなく実践的に孤立しているうちにだけ革命がある。
そういえば、昔、NAMの決起集会を覗きにいったとき、NAMはウィルスのような存在としてあるんだと盛り上がっていた。
しかし、我々はウイルスに比べて恐ろしく複雑に出来た巨大な欲望ロボットなので、なかなか素早く動けないのである。ウイルス的になろうと思う革命運動はつねに我々の存在と欲望を有限化したがるがそんなことは出来ない。
上の紫さんだって頑張ってどこまでやれたかどうか。もっとも、紫さんは「源氏物語」で一種の日本人の形而上学的パンデミーをつくりあげているとはいえるかもしれん。くやしくて悲しくて頑張った結果、狭い宮中を越えてウイルスを撒き散らしたのだ。
スペイン風邪が世界大戦の火種をつくったように、今回のパンデミックで恐れなければならないのは、むしろ速やかな全世界的北朝鮮化である。だって、ベイシックインカムみたいなことをせざるを得ないんだろう?しかも、中国のようなテクノロジー全体主義はいやだと。すると、なんかヒューマニズム的なことを口先で言う人に厳密に管理されるみたいなことになりはしないかな。しかも移民の扱いは面倒なのでなかったことにするというような。
げにものの折など、なかなかなることし出でたる、後れたるには劣りたるわざなりかし。ことに深き用意なき人の、所につけてわれは顔なるが、なまひがひがしきことども、ものの折に言ひ出だしたりけるを、まだいと幼きほどにおはしまして、世になうかたはなりと聞こしめし、おぼほししみにければ、ただことなる咎なくて過ぐすを、ただめやすきことにおぼしたる御けしきに、うち児めいたる人のむすめどもは、みないとようかなひきこえさせたるほどに、かくならひにけるとぞ心得てはべる。
彰子後宮の消極的なかんじが、彰子の幼い頃の体験に起因していることを指摘する場面。「深き用意なき人の、所につけてわれは顔なるが、なまひがひがしきことども、ものの折に言ひ出だしたりける」(わきまえもないのに、いつも我が物顔に振る舞っている女房がいて、僻みっぽいことを、大切な折に言い出した)のを、彰子さまは大変幼いながら「これほどの見苦しいことがあろうか」と骨身に染みてお思いになったのだという。で、彰子さまはとにかく出しゃばっていろいろ言うよりは大過なく過ごすことが見苦しくないと思っていて、お嬢さん軍団の女房がたはそれに合っていたというかなんというか、そんなかんじで、おとなしい気風になってしまったのだ、という。
それを男どもが「なんか昔に比べてつまんないね」と言っている声が聞こえる。むろん、彼らは定子・清少納言の『枕草子』の時代と比べているのであった。
こういう風景は、いまでもよくある。わたくしは、才気煥発でござるみたいな集団がいかに自己崩壊を起こして行くかみてきたので、三十代以降は、引っ込み思案でみんなの調子に合わせられないうじうじした若者の味方であろうと試みてきたが、「めやす」くゆくときもあればそうでないときもあるのだった。
わたくしがいるところは香川で、大阪的なものとの相克がある。
たしかに京都の言葉は美しい。京都は冬は底冷えし、夏は堪えられぬくらい暑くおまけに人間が薄情で、けちで、歯がゆいくらい引っ込み思案で、陰険で、頑固で結局景色と言葉の美しさだけと言った人があるくらい京都の、ことに女の言葉は音楽的でうっとりさせられてしまう。しかし、私は京都の言葉を美しいとは思ったが、魅力があると思ったことは一度もなかった。私にはやはり京都よりも大阪弁の方が魅力があるのだ。優美で柔い京都弁よりも、下品でどぎつい大阪弁の方が、私には魅力があるのだ。
――織田作之助「大阪の可能性」
まだよく分かっていないのだが、学生のなかにもこんな心持ちがどこかにあって、わたくしはよくわからない。