もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる那須の篠原
高校だかの時に図書館で見て以来、実朝の歌の中では好きである。霰の音が武士たちが矢を整える音の中で聞こえる。ちょっと気取っているなと思いながら、モダンな感じがする。もっともわたしは時代劇を映画で楽しむ時代の人間であって、「霰たばしる」イメージは湧いても、続く「那須の篠原」と言い切るかっこよさはいまいち分からない。こっちの方は、当時の共同幻想というか意識がわからないと分からない気がする。
調子がいいときには、起きたら一首つくって仕事を始めた時期があった。これは孤独な時間が多い大学院時代の話である。しかし、こういうのはあまり習慣化すると自分の首を絞めそうでやめた。私には才能が無いだけに、自分が自分の能力のなさに影響されると考えた気がする。模倣すべきは天才たちである。
上の歌との出会いも、教室の空間から離れた図書館での出来事であり、図書館が入館者が少なくても存在していなくてはならないのは、文化に仕える人間を作り出すのは物理的隔離が必要だからである。
物理的隔離と言えば、この前読み終えた「進撃の巨人」もそうである。もうさんざ言われているのかもしれないが、この作品で、隠蔽されている、というか意図的に抑圧されているものとして、性的な問題がある。巨大化した人類=巨人には性器が見えない。その代わりに食欲(小さな人間を食べるある種の共食いだけど)に特化したような行動を起こしている。これが、気になっていた。巨人化の能力をもつ民族を安楽死させる展開が後半出てくるけれども、それもそれとつながっているんだろうと思う。あんなにグロテスクな描写が多いのにNHKがこの作品のアニメ放送できるのものせいで、この性を抑圧され食欲だけ放埒な感じがいまのわれわれとあっているのだ。さっき七〇年代の映画「天使の恍惚」みてたものでこんなことを思うわけであるが。
隔離されると我々は欲望が変化して「死」に接近して行く。文学青年そのものの現象である。隔離されなければ、ひたすら模倣をし続ける欲望だけが残る。生殖もその一環である。
小学校の先生が重要なのは、たぶんそれがどういう人間だったかによって、児童たちにおいて、同年代以外の親ではない人間、ひいては世の中全体への態度が醸成されるからである。学者でよくある、自分以外をバカにしている態度って、小学校の頃、先生に向けていた態度に近いのではないか。むろん、これは学者だけじゃなく、一般的にみられる現象だ。しかし、それは先生をバカにしているからというのは意識の表面に過ぎず、実際は先生を模倣していることが多いわけである。子どもに限らずわれわれは一番頻繁に相対する人間を愚かさや軽薄さも含めて模倣する。教え方とか寄り添い方だけに反応してくれとかそんな都合よくいかないのだ。
言うまでもなく、ハラスメントの怖さは、ひどいのを受けると、受けた方が今度は誰かに同じようなことを行うモードが被害を受けたことによってインストールされてしまうことで、先生と児童、生徒の間でもそういうことは起こっている。むろん言葉によるコミュニケーションは力の行使だから皆ハラスメント的とは言えなくはないが、そういわずに喧嘩しながらうまくやってくしかない。猫なで声コミュニケーションばかりやっていると逆に規則や命令などの力の行使に互いに頼る局面が多くなるわけである。猫なで声は表面上のもので、実際は権力の行使が目的だと相手に伝わっており、それを相手も模倣するからである。模倣を介して欲望を伝達し合う我々はとにかく一緒にい続けてはならない。(ジラールみたいだけれども、――最近読み直していないので忘れてしまった。)
かように教室にいる我々は、本当に意識をもっているのであろうかと屡々思うわけであるが、――教師は特にそう思うのである。しかしそれは容易ではない。教師自身の「個体史研究」というのがあり、いくつか読んだことがあるが、内省から逃走している感じがあった。極めて困難なことであるが、教師が一回ゲーテの教養小説からドストエフスキーのロマンのような軌跡を描く内省を強要される必要がある気がする。「坊っちゃん」から学園ラブコメ、湊かなえにいたるまで娯楽的になるのは、我々が教室では模倣するシステムになっているからだし、そのシステムを作動させられるほど、日本の教師はけっこう優秀なのである。これからはわからんが。。
もっとも、教師が執拗にフィクションのなかで人間として再創造される社会的理由をじっくり観察する必要がある。そこには失われた人間の意識が求められているのであろう。そこんとこを考えないとケアだハラスメントだと言ってても、教師によりロボットになって下さいと言ってるようなものである。