★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

センt、共通テスト終了

2022-01-16 23:17:27 | 大学


間違った命令が降りてきていると、それに対する密かな抵抗というものが自然発生し第一の目標となる。そして本来の目的は二の次になる。こんな簡単なことしか起こっていないのだが、それによっていろいろなことを破壊されてしまうのは、本来の目的によって人生を築こうとしている人間たちである。そして、彼らは、密かな抵抗を行う人間たちを責めてしまうのだが、それは間違っている。おおもとの権力と幇間、攻撃するのはこのふたつでよい。そして普段は、かかる権力のもとの原因である我々自身の何かを攻撃、いや阻止すべきなのであった。

木太町の新開神社を訪ねる(香川の神社217)

2022-01-14 23:36:55 | 神社仏閣


新開神社は木太町。案内の碑には「住吉神社」とあり。香川県神社誌には「保食神」とある。



立派な樹木が護っている。



小さい神社のなかでは立派な造りの方だと思う。ちゃんと今でも人の手が入っていることが分かる。



こういう風にみれば、昔の世界に行くようです。日が翳ってきました。

地蔵と天皇

2022-01-13 23:35:55 | 文学


千々の春 万の秋にながらへて 花と月とを君ぞ見るべき

花と月。そういえば、「花とゆめ」という雑誌があって、載っている少女まんがも、別に花とゆめそれ自体に向かって行くものじゃないわけであるが、そういうシンボルが存在していること自体が文化を支えるみたいな論法になってしまうと、――それがそのまま天皇制の根拠付けにもなってきたわけである。しかし、実朝の場合は、ほんとに天皇に親密さを感じていたに違いない。古典文学の中心にいた宮中や権力者にとっては天皇は人間である。逆に我々のような庶民にとっては権力でありシンボルであり、といった疎遠さによる利用価値の発生がある。そもそも、天皇を中心とした文藝サークルは、国民国家体制に向かないのである。

若い頃は、「かさこ地蔵」みたいな話、お地蔵さんとか狛犬さんたちにセーターを着せてあげてしまうようなおじいさんやおばあさんの気持ちはわからなかったが、いまは分かる。私は、お地蔵さんが、人間の擬人化だと思っていたのだが、それが間違いだったのだ。そうじゃなくてお歳をとると、自分が寒くなっているから、即ちお地蔵さんも寒い訳なのである。感情移入とかではない、単に同じようなかたちをしているから同情するのである。同情とは、情が移るとは違い、感覚的な交感である。これが庶民の場合は、お地蔵さんにはいけるが、天皇に対してはどうか。

賽の河原は哀しいそうして真実な俚伝である。この世は賽の河原である。大御親の膝下からこの世にやられた一切衆生は、皆賽の河原の子供である。子供は皆小石を積んで日を過す。ピラミッドを積み、万里の長城を築くのがエライでも無い。村の卯之吉が小麦蒔くのがツマラヌでも無い。一切の仕事は皆努力である。一切の経営は皆遊びである。そうして我儕が折角骨折って小石を積み上げて居ると、無慈悲の鬼めが来ては唯一棒に打崩す。ナポレオンが雄図を築くと、ヲートルルーが打崩す。人間がタイタニックを造って誇り貌に乗り出すと、氷山が来て微塵にする。勘作が小麦を蒔いて今年は豊年だと悦んで居ると、雹が降って十分間に打散す。蝶よ花よと育てた愛女が、堕落書生の餌になる。身代を注ぎ込んだ出来の好い息子が、大学卒業間際に肺病で死んでしまう。蜀山を兀がした阿房宮が楚人の一炬に灰になる。人柱を入れた堤防が一夜に崩れる。右を見、左を見ても、賽の河原は小石の山を鬼に崩されて泣いて居る子供ばかりだ。泣いて居るばかりならまだ可い。試験に落第して、鉄道往生をする。財産を無くして、狂になる。世の中が思う様にならぬでヤケを起し、太く短く世を渡ろうとしてさまざまの不心得をする。鬼に窘められて鬼になり他の小児の積む石を崩してあるくも少くない。賽の河原は乱脈である。慈悲柔和にこにこした地蔵様が出て来て慰めて下さらずば、賽の河原は、実に情無い住み憂い場所ではあるまいか。旅は道づれ世は情、我儕は情によって生きることが出来る。地蔵様があって、賽の河原は堪えられる。
 庭に地蔵様を立たせて、おのれは日々鬼の生活をして居るでは、全く恥かしい事である。


――徳冨蘆花「地蔵尊」


賽の河原での人間の体たらくを描写する蘆花は嬉しそうである。一応、「源氏物語」や「平家物語」にでてくる天皇をはじめとする高貴なお方たちはここでの賽の河原の人間だ。しかし彼らがどんなに滅茶苦茶でも、実は仏に護られている事態をもって、われわれ庶民も実は護られてるんではないかと錯覚を起こさせるところもないではない。

模倣と隔離

2022-01-12 23:43:18 | 文学


もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる那須の篠原

高校だかの時に図書館で見て以来、実朝の歌の中では好きである。霰の音が武士たちが矢を整える音の中で聞こえる。ちょっと気取っているなと思いながら、モダンな感じがする。もっともわたしは時代劇を映画で楽しむ時代の人間であって、「霰たばしる」イメージは湧いても、続く「那須の篠原」と言い切るかっこよさはいまいち分からない。こっちの方は、当時の共同幻想というか意識がわからないと分からない気がする。

調子がいいときには、起きたら一首つくって仕事を始めた時期があった。これは孤独な時間が多い大学院時代の話である。しかし、こういうのはあまり習慣化すると自分の首を絞めそうでやめた。私には才能が無いだけに、自分が自分の能力のなさに影響されると考えた気がする。模倣すべきは天才たちである。

上の歌との出会いも、教室の空間から離れた図書館での出来事であり、図書館が入館者が少なくても存在していなくてはならないのは、文化に仕える人間を作り出すのは物理的隔離が必要だからである。

物理的隔離と言えば、この前読み終えた「進撃の巨人」もそうである。もうさんざ言われているのかもしれないが、この作品で、隠蔽されている、というか意図的に抑圧されているものとして、性的な問題がある。巨大化した人類=巨人には性器が見えない。その代わりに食欲(小さな人間を食べるある種の共食いだけど)に特化したような行動を起こしている。これが、気になっていた。巨人化の能力をもつ民族を安楽死させる展開が後半出てくるけれども、それもそれとつながっているんだろうと思う。あんなにグロテスクな描写が多いのにNHKがこの作品のアニメ放送できるのものせいで、この性を抑圧され食欲だけ放埒な感じがいまのわれわれとあっているのだ。さっき七〇年代の映画「天使の恍惚」みてたものでこんなことを思うわけであるが。

隔離されると我々は欲望が変化して「死」に接近して行く。文学青年そのものの現象である。隔離されなければ、ひたすら模倣をし続ける欲望だけが残る。生殖もその一環である。

小学校の先生が重要なのは、たぶんそれがどういう人間だったかによって、児童たちにおいて、同年代以外の親ではない人間、ひいては世の中全体への態度が醸成されるからである。学者でよくある、自分以外をバカにしている態度って、小学校の頃、先生に向けていた態度に近いのではないか。むろん、これは学者だけじゃなく、一般的にみられる現象だ。しかし、それは先生をバカにしているからというのは意識の表面に過ぎず、実際は先生を模倣していることが多いわけである。子どもに限らずわれわれは一番頻繁に相対する人間を愚かさや軽薄さも含めて模倣する。教え方とか寄り添い方だけに反応してくれとかそんな都合よくいかないのだ。

言うまでもなく、ハラスメントの怖さは、ひどいのを受けると、受けた方が今度は誰かに同じようなことを行うモードが被害を受けたことによってインストールされてしまうことで、先生と児童、生徒の間でもそういうことは起こっている。むろん言葉によるコミュニケーションは力の行使だから皆ハラスメント的とは言えなくはないが、そういわずに喧嘩しながらうまくやってくしかない。猫なで声コミュニケーションばかりやっていると逆に規則や命令などの力の行使に互いに頼る局面が多くなるわけである。猫なで声は表面上のもので、実際は権力の行使が目的だと相手に伝わっており、それを相手も模倣するからである。模倣を介して欲望を伝達し合う我々はとにかく一緒にい続けてはならない。(ジラールみたいだけれども、――最近読み直していないので忘れてしまった。)

かように教室にいる我々は、本当に意識をもっているのであろうかと屡々思うわけであるが、――教師は特にそう思うのである。しかしそれは容易ではない。教師自身の「個体史研究」というのがあり、いくつか読んだことがあるが、内省から逃走している感じがあった。極めて困難なことであるが、教師が一回ゲーテの教養小説からドストエフスキーのロマンのような軌跡を描く内省を強要される必要がある気がする。「坊っちゃん」から学園ラブコメ、湊かなえにいたるまで娯楽的になるのは、我々が教室では模倣するシステムになっているからだし、そのシステムを作動させられるほど、日本の教師はけっこう優秀なのである。これからはわからんが。。

もっとも、教師が執拗にフィクションのなかで人間として再創造される社会的理由をじっくり観察する必要がある。そこには失われた人間の意識が求められているのであろう。そこんとこを考えないとケアだハラスメントだと言ってても、教師によりロボットになって下さいと言ってるようなものである。

揚棄としての歳暮

2022-01-11 23:09:35 | 文学


はかなくて今宵あけなば行く年の思ひ出でもなき春にやあはなむ

いろいろあったに決まっているにもかかわらず、なんだか歳暮は儚い思いもするもので、だからこそテレビなんかでは合戦とか肉弾戦とかで馬鹿騒ぎしているのであろう。その調子で行くと、新年もなんの思い出も無さそうな儚い感じなんだろな、と思いながら除夜の鐘を聴きつつ、蕎麦の食べ過ぎであまり眠れない。こんなところである。

思うに、儚さはある種の揚棄の作用であって、別になかったことを忘れているわけでもないが、区切りというものはそういう揚棄の作用を起こすものなのである。結婚式とか葬式とかもそうだ。新たな気持ちになるのではない、ゴタゴタの記憶を揚棄して仕切り直すだけだ。

今日は、新年最初の授業で、吉本隆明と戦後の大衆化の本質的な繋がりについてベタベタな講義をしてしまったので、やや揚棄ではなく、止揚的な感じがしたことだ。

嬰児とともに泣く

2022-01-10 23:49:21 | 文学


乳房吸ふまだいとけなき嬰児とともに 泣きぬる年の暮かな

年の暮と嬰児の組み合わせがおもしろいが、なんでこの人は泣いておるのか。実朝はまだ老人とは言えない年であったらしいのだが、老人になったつもりで詠んだのだという説がある。

もっとも、よくわからんが、嬰児の泣き声にもらい泣きをしてしまうことだって、人生永い間ならありそうだ。子どもの泣き声が親の動揺だけを導くとは限らない。嬰児ももう悲しいのか、と思う人だっているはずである。あるいは乳房を吸いながら泣くという高等テクニックを弄しているところに何か感動を思えたのかもしれない。これはいわば、涙とともにパンを食べたことのないひとは信用できない、といった格言みたいなものかもしれない。

実朝は子どもがいなかったと思うのであるが、――たしかに私もいないので、あれこれ状況を想像して意味を考えたりできる。実朝もあるいはそうだったのかもしれない。たぶん実際泣いている子どもを目の前にしては人生を達観している場合ではないであろう。

「では、どうだから殺したのかね?」
「それは、だれも悪くないと思います。いまの社会がそうできているからだと思いますわ。父が失職しなかったら……父が失職しなかったら……」
 鶴代はそう言って、また泣きだした。そして、彼女は咽びながら、父の吾平がいかにして失職したかを話した。
「……ですからわたし、今度こそは自分のために自分の身体を売らなければいけなくなったのですわ。それには、子供がいては働けませんし、子供は生きていたってかえって惨めですから……」
「つまり、子供を殺したのはだれのためでもなくって、おまえの父親をそういう風に失職させた社会が悪いというんだね?」
「でも、いまの社会はそういう社会なんでしょうから……だれが悪いのか、わたしには分かりませんわ。わたしを、生きていくのに苦労のないように、監獄へ入れて……監獄へ入れて……」
 鶴代はそう叫ぶように言いながら、そこの地面へくずおれてまたひどく泣きだした。


――佐佐木敏郎「或る嬰児殺しの動機」


まさかと思うが、こういう状況だって考えられなくはないのだ。嬰児を殺すのはあまりなかったかもしれないが、――実朝自身が殺されるところからも分かるように、人の子を殺すなんて平気の世の中であった。

加速主義的、減速主義的

2022-01-08 23:21:25 | 文学


夕されば 潮風寒し波間より 見ゆる小島に 雪は降りつつ

これを小林秀雄は「無常といふ事」の「実朝」で、この歌の前の歌「箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ」について「調子を速め、小刻みになった歌」と言っている。ベートーベンをかさねているらしいのだが、いざとなると音楽の比喩に訴える小林は巧妙である。音楽を出した限りは、もう叙景を叙景のまま読者は放り出すことが出来ない。かくして「夕されば」の歌については、「叙景の仮面を被った叙情の独特な働き」と言い切れるのである。小林に倣えば、この歌ではむしろ「雪は降りつつ」で、減速しているうたと言えるかも知れない。

我々は風景に対してさえ、我々の味方で加速や減速を感じる。さっきブランキの「天体による永遠」を読み始めたが、永遠という観念が革命家から出てくるのは当然である。階級闘争は加速主義だが、かならず反動がくる。これに耐えるためには永遠という時の停止が必要なのである。

革命家でなくても、時が止まってくると、別の闘争をはじめる。共産党宣言をもじっていえば、人間の歴史は猿との階級闘争の歴史である。義仲や秀吉や猿の研究所は迫害される。彼らが時を止めてしまったから、差別によって時間を進めたのだ。差別は、エゴイズムによって生じるのではなく、人間と猿、人間と昆虫という視点の極大化、永遠からの視点から行われている。だから「この猿」「このウジ虫」などがその刃となる。宮台真司なんか、動物を通り越して人間すべて「クズ」にみえており、まるで「平家物語」の、塵に同じ、の視点である。彼が革命家である所以である。

そのなかで迫害者はどうなるか。――日本人は猿といわれていた事があるが、その猿に猿と言われている木曾の山猿とはむしろ人間ではなかろうか。そしてその木曾の山猿に山猿と言われているほんとの猿はただの猿であろう。――こんな意識になる。自意識である。

時計の針は元には戻らない。だが、自らの手で進めることは出来る。

――「エヴァンゲリオン」


もちろん、これは嘘であって、時計の針は元に戻るぜ。指でぐりっとすれば。そもそも歴史は繰り返すけどはやくは進まないというのは常識であって、加速主義者とやらはいちど植物でも育ててみればいいのだ。主人公の一人が、野菜栽培に目覚めて、エリートたちの人類改造計画に抵抗するように、無論、これがエヴァンゲリオンのたどりついたテーマである。しかしながら、こういうことを、制作者と鑑賞者に、老いと世の中に対する絶望とを経験させてからやっと提出してくるというのもちょっとなんというか、むしろ減速主義だ。それを大衆娯楽で表現しただけすごいのかもしれんけど、こんな悠長なかんじは我々の社会の鈍さでもある。

その点、戦時下の「近代の超克」という、世界史的世直し運動は、当時の思想や歴史の推移から、ある種の歴史の必然をまじめに感じていたところがあって、当時の反省はムリだったのかも知れない。むしろまずいのは、戦争の進み方は単純にはやいということを軽視していたことだと思う。我々の思想の発展は、植物と同じペースでしか動かない。しかし、我々の科学は自然の中に加速主義的な余地があることを発見した。それは、我々とは相容れないものだ。

寒さと文化

2022-01-07 23:41:07 | 文学


風寒み夜のふけゆけば 妹が島形見の浦に千鳥なくなり

ここには感情があるのかわからない。確かに寒さはありそうだ。

ショスタコービチの歌曲に「冬」というのがあって、ここでは恐怖も凍えるだろう、みたいな歌詞があった。むろん、スターリン治世下で凍っているのは恐怖ではなく心の方なのであるが、露西亜の文化には、恐怖が凍えるという抽象だかなんだかわからないものを常に想起するものがあって、日本にはあまりない感覚だと思うのである。砂漠が宗教を生むように、一面の雪原と氷原は音楽と文学を生む。露西亜の音楽は、ドイツ=オーストリアのそれとちがって、音が氷のように立っているのである。小説でも同じように言葉が立っている気がする。

そういえば小学生の頃、野口英世の伝記を何度か読んだけど、これはなんか猛烈に頑張るとなんかイケルみたいな幻想を抱かせる点でまずいのでは子供心に思ったし、実家が豪雪でつぶれてお母さん大変なことになってるのにアメリカで顕微鏡覗いてるところが下手するとまあそんなもんだよね、みたいに読者に思わせるところがある。――しかし、かろうじて雪の重さを知っている木曽人のわたくしは、息子ではなく母親の恐怖にシンクロできた。ロシアほどではないが、冬は恐怖の時間なのである。

東京人がちょっとの積雪や凍結ですってんころりんしているのを笑う典型的田舎もんであったわたくしであるが、――大概のわたしみたいな輩は、子どもの頃凍結した道で転んだ過去を隠している。慣れとか靴とかでなんとかなることもあるけど、基本非常に危険である。しかし危険だから楽しいこともあって、小学生の思い出の一つは、友人とアイスバーンと化した坂道を橇で滑降し電柱に激突して顔面血だらけで帰ったことである。わたくしにも今考えると英雄志向の時代があったのであった。

英雄伝や偉人伝というものは必要で、小学校低学年の頃エジソンの伝記よんでてなんかおれでも電信機作れそうだったから似たような物体集めてる途中、はっと「ぜんぜん作り方が分からない」と気付いた。思い上がったガキに人生を教えるために必要である。――それにしても、エジソンの伝記からはやはり寒くて凍えそうな時間は感じられなかった。

冬の時代――とはよくいったもので、「君たちはどう生きるか」でもコペル君が友達を裏切る事件は「冬の日の出来事」であった。転向左翼たちは裏切りを冬のように感じたのである。吉野源三郎の盟友であった山本有三の代表作も「心に太陽を持て」であった。もっとも、彼らはまだ太陽と冬を対立物のように捉えている節があった。

女房達『やや中納言殿、軍のさまは如何にや、如何に』と問ひ給へば『只今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ』とて、からからと笑はれければ」などといふところでも、やはり白いお歯をちらと覗かせてお笑ひになり、
アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。
 と誰にともなくひとりごとをおつしやつて居られた事もございました。


――太宰治「右大臣実朝」


このような逆説に捉えられた吉本隆明なんかが「実朝」を書いた。ちょうどわたくしが生まれた頃の作品である。全部読んでいない気がするから今度読んでみよう。

進化の進撃

2022-01-06 23:08:35 | 文学


雁鳴きてさむきあさけの露霜に矢野の神山いろづきにけり


和歌は文学なので――というのは変だけれども、進化に向かって歩んで行く。人間も多分そうなのであろうが、肉体は進化を嫌って保守的である。人間個人の認識の進化に従って体が進化し続けたらどうなるのであろう。人間はとっくに高度な戦争で滅んでいる。適度に肉体が滅んで行くから我々は進化を続けられる。

和歌の進化は情景を情景として洗練させて行く地点までとっくに到達しているようで、ここには人生が見えるようでみえない。

この前「進撃の巨人」という漫画を読み終わって、とてもおもしろかった。――のだが、むしろ世の中の恐ろしさは、主人公エレンに操られた大型巨人の群れによる世界の破滅ではなく、エレンと友達を含めた調査兵団がみんな巨人化して暴れちゃうみたいなところがある。エレンの私怨が何の根拠もなく存在感をなくし、組織のなかの私こそが暴走もし有為な存在でもありうるのが世界であり、だからこそ世界は美しくも醜くも見える。それは私が既に無になっているからであってますます世の中はみえなくなってしまうのが人生ではなかろうか。アニメに限らず、芸術が個人の意識に頼ってリアリズムに近づけばそういうことが忘れられる。

例えば、負担を平等にしようとすると人は差別に走る。面倒なことから逃げる理由が必要だからである。――こういう平凡なことすら人間はしばしば忘れてしまう。

しかし常に我々はフィクションから人生を学ぶことへの警戒感を忘れない習性がある。