★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

濡れた袖と葦

2022-01-05 23:12:12 | 文学


濡れて折る袖の月影ふけにけり 籬の菊の花の上の露

よくわからんが、菊の花の上の露が菊を折った袖に移ったのだがその露の表面に月が映っているのをみて夜が更けましたなあ、とは幕の内弁当みたいに頑張ってる視点といへよう。普通に月を見りゃいいに。。。

「濡れつつぞしひて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば」(在原業平)を受けての歌なのであろうが、業平が「濡れつつぞしいて折りつる」と感情的に動作を描いているのに、実朝は「濡れて折るっ」とばかりに棒読みである。これは動作ではなく内面の何かだからである。

ふじ子は白い蚊帳のなかへはいつて、肌ぬぎになると、濡れ手拭で、胸や腕をきしきしこすつた。汚れた蚊帳は、ところどころ小さい穴があいてゐる。ちづ子は、鼻の頭にいつぱい汗をためてよく眠つてゐた。
「お母さん、こゝは何處なの?」
「どこでもいゝぢやアないの、さつさと食べて頂戴」
「僕、お水がのみたいなア」
「いけません、こんな處にお水なンてありませんよ、その、おうどんのおつゆをすゝつておいたら‥‥」
「だつて、しよつぱいンだもの‥‥」


――林芙美子「濡れた葦」


いくら作者がわがままな人であろうとも、つねに他人の動作に注がれている作家の目の方は、きょろきょろと動き出すものである。自分のことしか考えないとはどういうことか、我々はよく分からなくなっている。

「ゴッドファーザー」を昔見たときになんとなく好感が持てたのがトム・ヘイゲンだったので、おれはやっぱり尻ぬいぐい役の味方が理想なんだなと思った。わたしのようなタイプはヒーローに興奮する輩と同じくらいいると思う。いい映画や作品はかならずこういう尻ぬぐい役の生き方まで描いているんじゃないかなと思う。

他人のことを考えて生きないと内発的にはなれないのは大人の常識のような気がする。利他とか言うてるのは寧ろ自分に未練がありすぎでしょ。。。

秋風の存在意義

2022-01-04 23:12:13 | 文学


わたの原やへの潮路にとぶ雁のつばさのなみに秋風ぞふく

秋風は八重の潮路・翼の波の原因でもあるのだから改めて秋風なんかいわなくても思うのであるが、やっぱり秋を言いたいのであろう。

 花弁のかげに青虫がたかって居た。
 気味が悪いから鶏に投げてやると黄いコーチンが一口でたべて仕舞う。
 又する事がなくなると、気がイライラして来る。
 隣りの子供が三人大立廻りをして声をそろえて泣き出す。
 私も一緒にああやって泣きたい。
 声を出そうかと思って口をあく、――あきは開いても、
  何ぼ何でも、
と思うと出かけた声も喉深くひっ込んで仕舞う。
 風がサアーッと吹くとブルブルッと身ぶるいの出るほど寒い。熱が出ると悪いと思って家へ入る。
 それでもまだ寒い。
 かんしゃくが起る。
 秋風が身にしみる。「ああああ夜になるのかなあ」と思うと急にあたりに気を配る――午後六時。

――宮本百合子「秋風」


秋風をしっかり見つめると、こんな風景だってみえてくるのである。古典の世界から秋風を消滅させてしまったら、近代文学に於けるリアリズムへの解放もありえない。解放された後の問題は、われわれが苦しんでいるとおりであるが、――解放が一回で終わらないように、実朝の使うような秋風もまだ残っている。

萩の文学

2022-01-04 03:19:27 | 文学


はぎのはなくれぐれまでもありつるが つきいでてみるになきがはかなさ

確認していないが、歌人の川田順がこの歌について、まだ散っていない萩の花を月光で見失ったのだ、と解しているようだ。光で見失ったとしても散ったと認識したのだから散っているのだと思うけれども、もうすでに夕暮れの萩の花は夕暮れに導かれて消えようとしていたのだ。これに比べて、月に紛れてかわからないが無くなっている萩の花のなんとすがすがしいことであろう。儚さはすがすがしさと表裏一体なのである。

世の中、かかるすがすがしさではなく、ただの快感の氾濫に移行しつつあるが、例えば、排便なんかもそうである。

考えてみると、わたくしの世代のヤンキーたちがうんこ座りしてたのは、本当にぼっとんトイレを擁護してたのかもしれない。今のトイレじゃ、椅子に座るのと同じ姿勢しかしてないわけで人間の姿勢の多様性が失われた。そしてこれが重要なことだが、虚空を墜ちる物体と水に流される物体のどちらが文学的かといえば明白なのだ。虚空と快便は一体化していなくてならぬ。これにくらべて水洗トイレというのは、物体が妙に「見える化」し、それを押し流すという、まさに戦争責任の否認に繋がりかねない。むかし太田光が暴走族じゃなくて「おならプープー団」とか言えばやめるんじゃないかと言ってたけど、逆じゃないかな。昔のように彼らは外でおならプープーしたいんじゃないか。五月の風を感じながらの運転は、案外肥溜めとか馬糞の匂いとかとおもにあったからよかったのであって、もはや自分で作り出すしかないわけだ。

讃岐うどんを讃岐で食べるとうまいのはなぜかと、あまりうどんを食べない私が愚考するに、なんとなくこの乾いた空気と関係がある気がするのだ。あまり降らない水に潜らせた白い肢体は讃岐人の夢であろう(違う)。なにかこれには非文学的な、ただのメタファーを感じざるをえない。ときどき沼のように静かな瀬戸内海を扇風機で煽りたくなるが、それでも瀬戸内海は案外海の事故が多く、香川県が交通事故の多さでヤヴァイ事態になっているのと似ている。これも単に類比的なだけでおもしろくない。讃岐うどんは曲がっているのに、香川の道路はまっすぐな事態にはなんの興趣もわかないのと同じである。

彼のその僅かに年上の客に對する丁寧なメランコリックな物腰には、すこしも惡意らしいものが混つてゐない。むしろ、自動車の遲いのを二人と一緒に心配してやつてゐるやうに見えるのである。
「まだお迎への車が參りませんが、もう一度電話をお掛けしませうか?」
 と、そのボオイがメランコリックな風に腰をかがめながらいふと、
「ああ」
 と少年の方は、却つてどうでもいいんだといつたやうな生返事をしてゐる。そんな會話の間ぢゆう、少女は少女で、少しはらはらしながら、すぐ自分の傍らに一しげみ萩の花がいまを盛りと咲きみだれてゐるのを見やつてゐたが、その瞬間、何氣なく手をぐつと延ばして、その一枝を引張つた。するとその一面に花をつけた茂みはいつまでもいつまでも搖れ動いてゐた。……
 私は、だんだんに薄暗くなつてくる客間の片隅に、なんだか氣の遠くなるやうな思ひをしながら、そんな情景を眺めやつてゐたのである。


――堀辰雄「萩の花」


しかしこうなると、だから何?と言われかねない。この小品は、前半の芥川龍之介が「野茨にからまる萩のさかり哉」を読む場面がなければ保たない弱さを持っているように思う。つまり芥川龍之介の死を前提にした。。。

伏石神社に初詣する(香川の神社2-10)

2022-01-03 23:05:37 | 神社仏閣


初詣です



かわいいと思う(細君は、なんか四角っぽくない?と言った)



忠魂碑。側には、大きい顕彰碑があるが、これは東京オリンピックのときに建てられたものである。1964年のそれは近代の戦争(碑ではだいたい「戦役」という)を平和に貢献?あるいは向かうものとして総括する意味があった(というか、そういう意味を付す絶好の機会であった)。ここにルサンチマンを見るのは容易であるが、敗戦というものは常に否認されるものであるとも言えるし、国家の側からするとそれを否認と意識せずに揚棄してしまうものが必要だともいえ、――碑を残すことで戦死者と一緒に自分達も一緒に葬られようとする意識が働いているのかもしれない。つまり、戦後の経済成長とは、不発であった一億総自決を前提としていたかのようだとも思えるのである。こういう碑が存在を許されているのは神社であり、意志としての死が生であるような曖昧さが許される場所であった。外部の世界は、曲がりなりにも「生きよ墜ちよ」の世界になってしまったからである。

この前のオリンピックはそういう側面がなかった。一応、はじめは震災の総括を試みて、似たような空気をつくろうと頑張ったが、震災には原発事故がくっついていて簡単にはいかなかった。敗戦というのは、自分自身のみでは不可能である。死んでいるのか生きているのかわからない情況では、生きているのか死んでいるのか分からない行事が生成されるわけで、コロナのせいにできるのは単なる幸運である。この神社の新築を説明した碑には、新型コロナ対策緊急事態宣言の中棟上げしたと書いてあって、なかなかかっこがよかった。

主観的死生論

2022-01-02 23:35:34 | 文学


あしびきの山時鳥深山出でて 夜ぶかき月の影に鳴くなり

この歌は、古今集の「五月雨に物思ひをれば時鳥夜深く鳴きていづち行くらむ」といったメランコリーからの解放みたいなものであろうが、時鳥にメランコリックなものがくっついているから意味をもつのではなかろうか。そこには死からの解放がある。

わたしは食べる行為に対するなんとなくの嫌悪感があるので思うのかもしれないし、非常に危険な考えだとは思うが、飽食が日本人の魂を堕落させたことは確かな気がする。たいしたことしてないくせに食べ物の評論しているやつは大嫌いである。かつて戦後の飽食には、餓えと死の影が纏わり付いていた。それを心理的に消すためにも我々の先輩たちは食べなくてはならなかった。しかし、そうでない場合の飽食は生の暴走でしかない。

正月と言うこともあるが、テレビをみると、食ってばっかりいる。もの食えない人のこともそろそろ考えるべきだと思うんだがな、テレビ。どんな気持ちになると思ってんだ。。。

わたしが食べることになんとなく嫌悪感があるのは、昨日、おせちを見てて思ったのだが、――これやっぱり屍体の山だからだよな。。。死を摂取しているのだ。「進撃の巨人」の巨人は生きたまま食ってたから他人の生を受け継げるのかなるほどね。

芸術や思想が、死への欲望に導かれているのは明らかだ。それらが生の暴走と屡々衝突する。どういうことかといえば、小説などでいろいろなゴミクズ野郎に出会っても、現実のゴミクズの存在感にはかなわないという、そういう意味だ。ときどきそういう感じとは違う事態に出会ってびっくりすることもあるが、滅多にない。下のようなケースである。

ある寺の奥さんが非常に高徳な上人のお話で、お浄土といふよいところがあつて死ねばそこへ行けると聞き、すぐに信じ切つてさつさく自殺しようとしたといふ。私はこれを聞いて、信じるといふことを初めて教へてもらつたやうな深い感銘にすつかり打たれてしまつた。

――岡潔「日本的情緒」

大学生の頃、和歌をこそこそつくっていた時期があった。今考えてみると、――結局和歌からの落ちこぼれというか失恋というかがなにか自分をつくっている気がして、「歌のわかれ」をとても重要視している中野重治は、フラれたのではなく別れなんだといっているところがある意味スゴイと思うのだ。死から生を探す、――左翼の人たちはこうでなくてはならぬ。

その点、三木清なんか微妙なところがある。彼の修辞学は死の影をあまりにはやく消してしまう。

川端康成なんか、あまりに芸術を死のように愛していたのか、「末期の眼」とか言ってしまったわけだが、それは自分の主観を信じるということであった。人は作品を楽しむと簡単に言うが、その楽しむ主体がどれだけのことを認識しているのかは誰も分からない。結局楽しんでない人間よりも多くを認識している気がするのである。だから私は学者についても、世の中がおもしろくなくかつ冷静なタイプにはあまり期待できないと思っている。分野にもよるのであろうが。楽しむ暇もなく論文を書かせるのは、書類作成としての研究にはいいかもしれないが、いずれ続かなくなるに決まっている。主観と客観とかあまりいいたくないが、主観の方が広いわけである。そこを信じられないタイプは知的活動をやればやるほど認識が「客観」的に細ってゆく。当たり前のことですがな

わたしの知り合いに、学級崩壊したり荒れた学校に進んで赴任したがり、かつ学校を制圧し?静かにして去って行く教師がいて(もう引退したけど)、たぶんそういう状況が好きなのではないかと思う。そしてその精神状況がますます多くのものを見せるのである。客観的に子どもをみても視野が客観的に狭まっている限り全く意味がない。言うまでもなく、「熱血」とかいうものもその客観性に過ぎない。

軒端ににほふ梅のはつ花

2022-01-01 23:12:36 | 文学


君ならで誰にか見せむ わが宿の 軒端ににほふ梅のはつ花

古今集の「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」(紀友則)を想起しながらのこの歌は、内面を解き放つように派手な展開だ。あけましておめでとうございます。