「この日の荒れて、日頃ここに経給ふは、おのれがし侍ることなり。よろづの社に額のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思ふに、なべての手して書かせむがわろく侍れば、我に書かせ奉らむと思ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉りたるなり。」とのたまふに、「たれとか申す。」と問ひ申し給へば、「この浦の三島に侍る翁なり。」とのたまふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申すとおぼすに、おどろき給ひて、またさらにも言はず。さて、伊与へ渡り給ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追ひ風吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給ひぬ。湯たびたび浴み、いみじう潔斎して、清まはりて、昼の装束して、やがて神の御前にて書き給ふ。神司ども召し出だして打たせなど、よく法のごとくして帰り給ふに、つゆ怖るることなくて、末々の船に至るまで、平らかに上り給ひにき。わがすることを人間にほめ崇むるだに興あることにてこそあれ、まして神の御心にさまで欲しく思しけむこそ、いかに御心おごりし給ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえは取り給へりし。
明神が人間に敬語を使っている。そうして書の名人佐理に筆をにぎらせるのである。文学史を踏みにじった雑な意見を言わせて頂ければ、大鏡のこういうところは古事記のスサノオがアマテラスの家に押しかけてうんこをひりまくる場面よりも劣っている。結局、こういう小物ぶりが平安朝の平和から生み出されたちょこまかした精神であって、もう象徴天皇制まであと一歩なのである。なんかほんと適当な感想なのであるが、源氏物語みたいな散文精神がこういう事態を生み出している可能性があると思う。
昨日は、若手の短歌集乱読してたら、ひとつまたパーツが埋まった感じがする。なるほど、そういうことだったかという感じだ。我々はスサノオなのである。死ぬのを避けるために歌を詠む。
N響のマーラーの8番を聞いたついでにスコアの第二部を眺めたが、オーケストラも歌詞をうたっているように素晴らしい。しかし、この歌と音の話し合いみたいな緊張は非常に疲れる。マーラーはそれを大合唱と大オーケストラで昇天させる。ベートーベンの終末が揚棄や止揚だとすると、マーラーのそれは疲れはてた末の裏返ったような昇天であって、後者が労働の時代に好まれるのはわかるきがするのである。むかし、誰だったか音楽の先生がベートーベンだって結末に困ってたんだみたいなこと言ってたわ、昇天したくないのでと。第九の最後なんかがそれである。祝典はいつも花火に過ぎない。我々は死を生のような意味で裏返さないと納得しない。マーラーがやったのはそれである。
「涼宮ハルヒの憂鬱」のファンの学生にいまでも度々遭遇するが、なぜこの作品がいいのか説明しないのが特徴である。何かわしが知らないあれがあるのか、と思っていたが、こういう作品も主人公がもう死んでるのか生きてるのか分からないところがいいのであろう。現世が裏返っているのである。
マーラー(ゲーテ)もハルヒも女性に向かって行く。古事記の最重要人物と言えばやぱりスサノオだと思う。わたくしは時々――、やつがアマテラスに会いに行くのではなくちゃんと母親に会いに行くべきだったのではないかと思う。しかしそうはしなかった。光源氏も母親に直接会いに行くべきだった。いつも彼らはそうしない。われわれもそうしない。そのかわりに女性的なるものに現世をひっくりかえして会いに行く。