香ばしいおこげに、よく効いた塩味。このあついお握りを吹きながら食べると、たき立てのご飯の匂いが、むせるように鼻をつく。これが今でも頭の片隅に残っている、五十年前のお握りの思い出である。
その後大人になって、いろいろおいしいものも食べてみたが、幼い頃のこのおこげのお握りのような、温かく健やかな味のものには、二度と出会ったことがないような気がする。
都会で育ったうちの子供たちは、恐らくこういう味を知らずに過ごしてきたにちがいない。一ぺん教えてやりたいような気もするが、それはほとんど不可能に近いことであろう。おこげのお握りの味は、学校通いに雨傘をもつというような贅沢を、一度おぼえた子供には、リアライズされない種類の味と思われるからである。
――中谷宇吉郎「おにぎりの味」
おこげのおにぎりの味は、学校通いに雨傘をもったらもう味わうのは不可能という、いつもの?中谷の放言である。しかしまあ、ある種の現代人のふにゃけた感性には正義の鉄槌を下したくなるのは事実である。一昨日だったか、9時のニュースで豪華な具がのっかったおにぎりが特集されていたが、ほんと品がなかった。最後に、どうみてもブルジョアが弱い心に降臨したようなアナウンサーがお袋の握ったおにぎりがよいみたいなコメントをしていたがこれも最悪。
もう我々は、ふつうに戦中期の作家を容易に、実感に基づいて話すことは許されない。昨日は、壺井栄などをネタに戦中の延長としての戦後文学などとう与太を話してしまったのだが、おかげで雨降ってきたようである。
戦後の気分を味わうために、久しぶりに「森の歌」をピアノ伴奏しながら歌ってみた。――「共産主義の夜明けがやってきた!」
ゲルギエフがプーチンに近いから、なんとか劇場のポストにありついたみたいなニュースに影響されたのか、――確かにゲルギエフの名演と言えば、プロコフィエフの革命記念のカンタータとかショスタコビチの第3番とか、が想起された。当たり前だが、我々にはいかに祖国の現状を嫌っていたとしても愛着はあるものであって、プロさんもタコさんもある程度は愛国カンタータで自らの脳を酔わせていたに違いないのだ。
観光客としての哲学者を実践しているらしい東浩紀氏は、チェルノブイリへツアーを組んでいたことが有名だが、――最近、ウクライナに行ってきたらしい。その番組を見た。八時間ぐらいあって長かったが、このぐらいはかかるのは分かる。そもそも中年以降のなげえ話というと嫌われるのであろうが、若者どもの聞いてるそれはせいぜい二十分ぐらいだろう。長い話というのは、八時間レベルのものをいうのであって、九十分ごとき授業なんか、そよ風のような短さだ。そよ風で寝るとはどこまで眠いんだよ。とはいっても、わたくしの授業は寝るには不向きらしく、むしろ寝たのは大学時代のわたくしであって、とにかく喇叭吹くのにつかれて昼間は眠かったのだ。
観光客とは、授業を受ける学生よりも精霊みたいなポジションにいる。しかしだからといって、彼らに感情がない訳がない。一方、当事者の中にだっていろいろな感情があるし、闘いにはそもそも遊びの要素が入っているというのがわたくしの見解である。もちろんやり始めたら飢餓や極限の苦痛などが伴うが、戦争を遂行することそのものに遊びが入っている。坂口安吾も言ってたけど、原爆作りは子どもの遊びだ。同じく戦争も遊びだと思う。そう思えないけど、遊びの一種だ。遊びなら殺人が許されている理由もなんとなくわかる。
ロケット撃って遊ぶのは今すぐやめろ。