あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御末はおはせぬなり。さるは、大和魂などは、いみじくおはしましたるものを。延喜の、世間の作法したためさせ給ひしかど、過差をばえしづめさせ給はざりしに、この殿、制を破りたる御装束の、ことのほかにめでたきをして、内裏に参り給ひて、殿上に候はせ給ふを、帝、小蔀より御覧じて、御けしきいとあしくならせ給ひて、職事を召して、
「世間の過差の制きびしきころ、左大臣の、一の人といひながら、美麗ことのほかにて参れる、便なきことなり。はやくまかり出づべきよし仰せよ。」
と仰せられければ、承る職事は、いかなることにかと恐れ思ひけれど、参りて、わななくわななく、しかしかと申しければ、いみじく驚き、かしこまり承りて、御随身の御先駆参るも制し給ひて、急ぎまかり出で給へば、御前どもあやしと思ひけり。
さて、本院の御門一月ばかり鎖させて、御簾の外にも出で給はず、人などの参るにも、
「勘当の重ければ。」
とて、会はせ給はざりしにこそ、世の過差は平らぎたりしか。
うちうちによく承りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝と御心合はせさせ給へりけるとぞ。
年末ということで雑なこというと、――芸術は感情の表出じゃなくて感情の発見である。ただし作者としてはそういうつもりではないことも多く、批評家や学者が間違えるのはそういうところである。しかしこれは作者の意図より複雑なものを実現してしまうということを意味しているのではない。その意味で言うと、わたしが素人だから分からないのかも知れないが、――上の大鏡の場面なんか、帝と時平が示し合わせて、華美な衣装などを下々に戒めるように一芝居打ったみたいな面白さのほかに、感情の発見があるかというとそうでもないように思う。悪事(道真追放)の一方でこんな事も出来ましたみたいな、人間の行為をプラス面とマイナス面で秤にかけるような幼稚な忖度的な心情があるだけではないか。この話者は天下を取っている権力者に対決しておらず、たぶん自らの無力さを権力者への評価で埋め合わせている。そんなからくりを含んだ感情が「大和魂」と呼ばれていることが面白いと言えばそうではある。