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内裏焼けて度々造らせ給ふに、円融院の御時のことなり、工ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋かきてまかり出でつつ、またの朝に参りて見るに、昨日の裏板に物のすすけて見ゆる所のありければ、梯に上りて見るに、夜のうちに、虫の食めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座しまして、延喜三年癸亥二月二十五日に失せ給ひしぞかし。御年五十九にて。
有名な道真の怨霊帰郷の場面である。血が浮き出たとか夢に出たなんかではなく、虫が食った後が和歌だというのがいい。この怨霊が、精霊のように我々のいる空間に満ちている感じがすごい。我々の世界は恨みではち切れんばかりだ。ネットなんかがなくても、昔の人だって気付くのだ。
細部を聞き取る能力は長い文脈をとらえる能力と大概裏腹だ。他人の話をきけなくなった人間に、短く分かりやすく話しても大体だめである。もう短い伝達事項も正確に伝わらない。我々が、言葉を聞くというのは、精霊が満ちた空間を聞くことに他ならない。
ところで、独歩の「初恋」に出てくる在野の漢学者みたいな人たちはいまや文化的基盤があった証拠みたいに捉えられることもあると思うけど、むろんある種のナショナリズムのエンジンにもなっていたような気がする。それを含んで評価されるべきだと思うんだが、それは漢学者たちに菅原道真の怨霊がとりついていたためでもある。そして、もともと道真も漢学と和歌が魂の中で割れているところからでてきた怨霊の化身なのであろう。
教職志望の学生がよく、苦手だった教科をわかりやすく教えてくれた先生の存在を志望動機にしている。嘘かも知れないが、本当だとすると、その人はまだその教科が苦手である可能性があり、もしかするとその分かりやすく教えたという先生も苦手である可能性があるとおもう。そういう教育だか支援だかもそれで意味がある場合もあるに決まっているが、――わかりやすさというのはどこかしら嘘を含んでいるのみならず、そもそも学問の面白さとかいうけれども、学問は「面白い」とは限らない。面白いな、という言葉はあまりに表現として社交辞令過ぎる。実際、文系の学問なんか、先人の恨みを木に彫りつける虫の役目を果たしているのであって、それ自体は別に面白くも何ともない。他人の頑張りなんかを気にして生きること自体が不健康であり、ときどき憑依されて恨むことそれ自体が趣味になっているひともいるが、職業的に慣れただけだ。
もしかしたら、20代のときのように、酒臭い大衆食堂でカレーを食べながら、論文を読んだり漫画を読んだりソ連が崩壊したぞわーいとか隣のお爺さんと談笑なんかすれば、20代に戻れるかも知れない。わたしだけが老いるわけがない。環境にあわせて若返るはずだ。――むろん、そうはならないから文学も存在するのである。道真は「大鏡」のために存在したのである。