★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

錯誤と懐疑

2023-12-03 23:52:31 | 思想


六三。无妄之災。或繁之牛。行人之得、邑人之災。


予期せぬ災難だ。ある人が牛を繋いでいてそれを行きずりの人が盗み、その他の村人がなぜか尋問されて災難に遭うような。

もっとも、当然村人は嫌疑をかけられるであろう。なぜかといえば、行きずりの人が牛を盗むような状態は、村人も何かを盗むような状態だからである。我々はすぐに自分が何をやったか忘れる。例えば、さすがに俺くらいになると先日亡くなった山田太一の本は持ってないわなと思って書庫を探ったら普通に「異人たちとの夏」を持ってて付箋までつけてあった。こういう錯誤が、殺人強盗の実行に関しても起こらないという保証はない。

そういう決定的な錯誤への意識なしに自己像を作り始めると人は果てしなく思い上がるものである。すなわち、自分のなかのレベルが低いが故の語りたがり、懐疑したがる精神の増長である。これに対しては、自分や他人による「説得」ではなく、「弾圧」する必要がある。むろん、他人に対してもその方向は維持する必要があると思う。わたしが、話し合いとかグループワークとかを嫌うのはそのせいである。こういうのは、いじめや仲間はずれの温床であるが、それは自己像の作成が急速に行われることによる。実際、グループワーク風の授業のもたらしたものは、思考の中断であり、追求を中断してだらける癖である。意見の相違が見えてきたところで時間切れとなりそれ以上は考えることが許されずに休み時間だ。こういう事態は教師の側にも影響を与えている。本来伝えるべき認識すら時間切れで言うことが出来ない。で、これが言う必要がないという風にいつのまにかすり替わってしまう。

こんなのは、はじめからわかりきっていたことだ。その提案や政策が、最悪の場合どうなるかを考えない学者や官僚は例外なくガキだと思う。現実を考えるというのはそういう危機を推測する思考のことで、現場?を見学にゆくことではない。現場?を見学行ったら余計壮大な夢想に浸りはじめるひとは、どこにいてもそうなるのである。ちなみに、批評を「危機の思考」と読み替えて興奮していた人種は、危機を推測するのではなく、危機になってから犯人探しをしがちであることが判明している。

教師不足はどうみても多くのひとの免許を失効させたあれが原因だ。わが國文学会でベテランの教育専門家が言っていたが、こういうことは、決してグループワークではでてこない結論なのである。最近は、グループワーク以前に研究して認識を練り上げていったとしてもなぜかそういうことは避けられる。少人数で見えなかった見解にたどり着く習慣自体が消滅しているのは、それはそうだ、その少人数のおしゃべりが教師の指示によってスタートするのだから。指示した人間のようなものに対する批判は避けられるのである。で、指示した人間は権力者ですらないことに表向きはなっているから、権力とみなされた場合は排除しようとするし、そうではないときにはなれなれしくなるほかはない。

大学の教師もそうだが、教師も他の職業と同じく、最初の10年ぐらいはまともな職業人ではない。で、その指導はトップによるコンプラ舟舟みたいなやり方では無理で、ちっちぇグループ内でしっかりゆっくりと試行錯誤するしかない。だいたい小学校で1クラス30人でも教育はムリだと言われているのに、公務員や教師の世界で起こったのは、一人の指導者が100人を管理せよみたいなことである。学級崩壊するに決まってる。

100人に対しては支援や指導ではなく命令や指示しかありえない。我々は信じがたいほど馬鹿なので、遠い命令ならハラスメントにならないからである。で、その命令と指示の実現のための、近い人間同士のハラスメントが発生するみたいなことを懼れている内に、ただ仕事を基本的にこなすための指導まで不能になってしまった。その場の人前で怒らずあとでじっくり指導するみたいなことはわからないではないし有効な場合もあるだろうが、教師は忙しいし内実を忘れてしまうこともあり、最悪の場合、いろいろ指導すべき事が放置されてしまう。結局現実に起こっているのはそういうことで、指導そのものが丁寧で手厚くなっているという教師や子供の「自意識」の一方で、実際は手数が減っている。学級崩壊である。

こういう社会では、言葉の正しさは防御の手段として利用されることになる。学者の業績や正義はそうやって有効活用されている。人間の評価はその正しさでしか評価されない。評価する側が遠くにいるからだ。遠くの読者だけに言葉がとどく、みたいな古風な夢はいまや人間の本性を覆い隠す機能を持ってしまった。――言葉の上では正しいのだが、生き方が卑怯でめんどうなことから逃げている人間の悪影響というのはすさまじい。で、本人はコミュ力だけみたいな人間が自分を疎外しているとか考えているのだから無惨である。

グループワークやおしゃべりで中断させられる思考は、決して教養や追求に赴かない。せいぜい、物の対照性の指摘に自足するだけである。かくして成立する教師が無教養だとどういうことがおこるかというと、――場合によっては教科書を無視しても先に進む示唆を与えられずに、ただの教科書の文字面の強制、それを文字通り受容しない子供にいちゃもんをつけるだけになるのだ。ハラスメントは立場の利用によってもおこるんだろうが、たいがいは頭の問題である。教師になる人間に大学の演習みたいな訓練がなぜ必要かというと、他人のことをくさした結果、かえって頭が悪いと思われるような経験をすべきだからなのである。ネットで人を論破している人間に見込みがないのはそういう理由による。