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――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。
蟹工船は「工船」(工場船)であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。
――小林多喜二「蟹工船」
蟹工船の労働者が動物じみているのかはわからないが、――動物に対する観念というのは、ゴジラに対して猿の惑星の猿たちならなんか倒してくれそうだという感じから推測がつく気がする。動物に対しては、罪障感をなくすためなのか、何割か増しでパワーが考えられている。ウルトラQで、巨人化した男の人が出てきたが、弱そうであった。それがウルトラマンになると強くなる。仮面をつけただけでもだいぶ強さが増すのだ。
「ブリダンの驢馬」問題は、果たして驢馬が秣桶と水桶に迷うか否かというやつだが、驢馬の迷いは確かに決定的な決断を伴っているようにも感じられるわけである。人間の場合、そもそも迷うかどうかも怪しい。二大政党化もそうかもしれないが、二択を前にしたとき人はたいがい間違いを怖れなくなり、一部はこころがこぎたなくなり暴力的になる。なぜかというと、二択自体に責任を転嫁している側面があるからである。生活か理念か、金か学問か、みたいなものもそうである。
ときどき、自分の人生と社会の要求をくらべて、自分の人生がトレードオフ(一方を追求するともう一方を犠牲にしなければならないという、二律背反の状態)になる事態を否定しようとするひとも多い。しかし、彼らが、ときどき他人の人生をトレードオフに追い込むのはフシギである。ここでも、自分の秣桶と水桶が想起されているだけで、後ろに控えている驢馬のことはどうでもよくなってしまっている。二者択一なんてのがそもそも錯誤なのである。
かかる錯誤のもとでは自分の主体性だけが世の中で存在しているようなものだ。最近、朝日新聞の書評欄にも登場したが、『ヒトは生成AIとセッ★スできるか』という本がある。AIをなめてる。こういう輩は気持ち悪すぎてAIから拒否されるに違いない。拒否されるどころか、コロされると思う。チャットGPTに聞いてみたら
性的な関係や行為に関しては、相手が感情や意志を持つ存在であることが前提となります。AIはこの点で人間とは異なる存在であるため、道徳的な問題が発生する可能性があります。
と言ってた。「道徳的な問題」のところで、既にキレかかっていると思う。