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たとへば一乗の法のごとし。御有様のかへすかへすもめでたきなり。世の中の太政大臣・摂政・関白と申せど、始終めでたきことは、えおはしまさぬことなり。法文・聖教の中にもたとへるなるは、「魚子多かれど、まことの魚となることかたし。菴羅といふ植木あれど、木の実を結ぶことかたし」とこそは説きたまへなれ。天下の大臣・公卿の御中に、この宝の君のみこそ、世にめづらかにおはすめれ。今ゆく末も、たれの人かかばかりはおはせむ。いとありがたくこそはべれや。たれも心をとなへて聞こし召せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞き残しはべらむ。この世継が申すことどもはしも、知りたまはぬ人々多くおはすらむとなむ思ひはべる』と言ふめれば、人々『すべてすべて申すべきにもはべらず』とて聞きあへり。
むかしからもはや法華経とか魚とかマンゴーにまで喩えないとその悪事を示唆できないようなうんこボスはおり、たぶん藤原道長もその人である。反映論や関係論が流行っても、やっぱりすべては個人の問題だ。組織の風土の問題とか、古い体質が残っているとか言うのは大概いいわけである。ある個人が性悪なのを、ある個人が見過ごしているだけでなく、幇間になってあやしているにすぎない。その延長として、その性悪個人を免罪するために組織とか体質とか言ってしまうだけだ。そういう勇気のない個人がなぜか責任者面して威張っている組織はそれこそまずいので、その威張っているトップが、部下の性悪とともに去るのがよいと思う。コンプラなんとかの管理者責任とやらを全うするていでそいつが生き残ると、意味がない。
やっぱり、ジャイアンは単に粗暴なデカブツにしておくべきなのである。ジャイアンに寄り添って彼にも心があるとか、あたりめえじゃねえか、だから何?まあ心のあり方とすれば、日本人は、スネオやのびたよりもジャイアンみたいな奴が9割ぐらいなのである。そいつらがのび太のふりをするようになったので、三島由紀夫は激怒して腹を切ってしまった。ほかの文学者は三島ほど思い上がってはいなかったから、酒を呑んだり心中したり、小説を死ぬまで書いたりして、自殺していった。
研究者や小説家の人生とはいったい何の意味があるのであろう。人生が短いのか長いのかはよくわからないが、問題になってしまったことは我々が意識するより長く続いている。戦争責任も学生運動のそれもそれが問題にされた時期を超えて長く続く。「研究」がその長さに影響することはあるが、それほどでもない。道長みたいなカスもカスであるが故に、一度赫かして堕とすみたいな書かれ方でようやくその真実を示唆されるが、ばかな生徒や学生によって、栄華の人としていまも認識されている。命を賭けた物書き達は名前も分かっていない。
研究者は、案外修業時代は、自意識のなかでは道長のつもりでいたりする。病気だからである。で、就職すると急に書くものがかわったり今までの迫力が無くなったりする人がいるけれども、単にだらけているのではなく、院生時代での病気が治ったみたいなのも考えられると思う。だから、なんというか、環境がかわっても全く変わっていない書き手はよほどすごいのか、職場でもあいかわらずだれかに尻ぬぐいをさせているのか、まあいろいろと考えられるわけだ。
言うまでもなく、病気が治るのはそれほど悪くはない。わたしもそうならないように気をつけたいとおもうが、――歳とってから「細がささえてくれた。ありがとう」とか公で言う人にはなりたくない。パートナーにしてみりゃ「何もしなかったくせに今更遅いわ、キモチワルッ」であろう。書物のあとにもそういうことは書きたくない。――と、細に言ったら、「感謝くらい書けよ」と言われた。