★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

学問の神様と二項対立的体力衰弱問題

2023-12-22 17:19:24 | 文学


このおとど、子どもあまたおはせしに、女君達はむこどり、男君達はみな、ほどほどにつけて位どもおはせしを、それもみなかたがたに流され給ひて悲しきに、おさなくおはしける男君、女君達したひ泣きておはしければ、「ちひさきはあへなん」と、おほやけも許させ給ひしぞかし。帝の御おきてきはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを同じ方につかはさざりけり。方々に、いと悲しくおぼしめして、御前の梅花を御覧じて、
 こちふかばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
また、亭子の帝に聞こえさせ給ふ、
 流れゆくわれは水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ


道真にはたくさん子供がいた。バッハも子供が多かった。学者が痩せてて咳しているイメージはどこから来たものであろう。大学に住んでいても、学者達はどちらかというと欲望が溢れる屈強なタイプが多い。そうでないと体力を使う作業をやりきれない。かつて希代の天才としての浅田彰が出てきたときに、彼はやせぎすなメガネ君にみえるが、すごく欲望の強く出ている顔をしていると誰か言っていた気がする。そりゃそうである。「逃走論」の最後あたりで、逃走(闘争)する人間は異種交配も辞さずとか出てくる。

『構造の力』がどうしても本棚からみつからないので、最近出た文庫をつい買ってしまったわけだが、結局、届いた日に本棚の奧から出現するという、以前蓮實重彦の何かの本と同様の現象が生起したので、文庫の方は大学の研究室に飾っておこうそうしよう。

浅田彰の本の影響というものが、どれだけあるのかわからんが、氏のしゃべり方とか文体を似せた奴は確かに存在していた。で、とにかく、「軽やかになんちゃらした」みたいなこと言っているやつは当時も今も軽やかに大嫌いである。

少し大きい活字で文庫になった『構造の力』は、少し安っぽくなった。この活字の大きさについては、ネット上でたくさんの人が報告していた。決してわたくしの老眼鏡のせいではなかったのだ。で、活字に比して相変わらずの大きさで余白に押し込められたクラインの壺の絵をみてて思ったが、――浅田彰の本は受験参考書というより活動家の演説に近い。演説は、二つの袋を持ってきて、こちらはこっち、こっちはこちらという感じで文脈をつくるものだ。世界情勢の代わりに世界思想情勢を文脈化する、世界を小説を読むように扱うカリスマがやる仕事だ。本当にそうなっているかは知らない。クラインの壺が袋に似てたので、そう思っただけである。

むろん、浅田の脳裏には、逃げずに自滅した連合赤軍の姿があったに違いなく、多くの人が抱いた革命軍に対する感情に依拠していたところがある。しかし実際に、どうすれば逃げることが出来るのか。浅田氏がこの問に答えることがないのは、氏も周囲も理解していたように思われる。柄谷行人なんかも、彼の書き方は「ものすごくレベルの低い人に向か」うものだと言っていた。つまり、二項対立に依拠するスローガンを行為と錯覚してしまう人たちに対する書き方といったところであろうか。結局、浅田の読者達は、せいぜい面従腹背を行うアカデミシャンたらざるをえない。浅田の本心(というより動機)はそういう者への反抗にあったに違いないが、にもかかわらず。『構造と力』の冒頭は、「《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み――千の否のあと大学の可能性を問う」という序であって、それははじめから「大学の可能性」に着地する準備を読者に与えていた。しらけつつのり、のりながらしらける、のは、結局はしらけたふりをしながら大学に乗ることを合理化する理屈に墜落したのかもしれなかった。実際、そういう人間をわれわれは多く目撃してきたではないか。

かくして、――戦争責任論にあった、そもそも文学者や学者に面従腹背なんか本質的に可能なのか、という観点が忘却され、賢しらに戦略だとか言っていたひとが結局どうなったか。

時間を減らしても労働のしんどさが本質的に軽減されるとは限らないことなんか小学生でも知っている。1時間目からどんだけの児童の目が死んでるとおもってるのだ。教育を支援に言い換えても本質的な不自由さが変わらないので関係ない。教師から児童に主体を移動させても不自由なのは変わらないのは当然である。問題は、教育がなにかの奴隷になったことだ。それに堪えうるような人材を中心にしか集まらなくなるんだから当たり前である。しかし、子供はむかしと同じく全員である。もう現状はかなり異常で、教育界に元々あった権威主義が国家や何やらへの依存体質にまで変容してしまった気がする。教員の個性の消失は、大学にも及んでいる。国家の放つスローガンに是々非々みたいな判断をしようとか考える貧弱な知的感覚を身につけている教育界に、面従腹背なんか実際は無理だ。

軽やかな知的横滑り(これは、結局二項対立の時間的連続となる)ではなく、古典的な訓練による知的愉悦が必要だ。教員は授業がおもしろい、というか知的な勉強そのものが好きではないとその唯一自由がきく楽しい時間がコミュニケーションの苦行になり、活動全部が地獄になる。勉強よりもコミュニケーション力が大事とか言っているから全部がコミュニケーションの地獄になったのだ。単なる労働環境の問題ではない。教職志望者のよくある大きな勘違いのひとつに、小学生相手ならこちらの方が学力も上なので大丈夫というのがある。上にもいろいろあるし、実際「上」なのかあやしい学生はかなり多い。人間性が問題というなら尚更だ。もっと上であるのは難しくなるわけだ。――すなわち、実際は、大学における落ちこぼれ問題みたいなものをもっとクローズアップする必要があるのである。これをきちんとやっておかないから、大学卒が大学の教育云々を言いたがるし、学生の知的体力(上で述べたように、ほぼ普通の意味での「体力」のことである)がおちてしまうのである。