人出が30万人とも40万人とも言われた横浜ベイスターズの優勝パレードを二人で見てきた。市営地下鉄の関内駅で下車して、日本大通りを海の方向へ。情報文化センター前まで行ったところで、前に進めなくなった。もう少し先まで行きたかったものの規制がかかり、断念。歩道上で身動きができなくなった。
多くのファンが小さなドジカメとスマホを構えてパレード上の選手を撮影。私も妻も二階建てのバスに乗っている選手は見ることはできたが、オーブンカーに乗った三浦監督などは人垣のために見ることはできなかった。
パレードの終了後も交通規制で、見学場所から脱出するのに30分近く待機。帰りの電車の駅とは反対方向に歩き、山下公園の公孫樹並木を見てきた。昼食を食べようとしたものの、パレード帰りの人でどこも満席・並んでいた。
県民ホール6階の英一番館など6軒ほどを回ったところで、中華街や関内あたりでの食事は諦め、バスにて横浜駅に戻った。たまたま中華街の傍のバス停で来たバスはガラガラ。鉄道を選択してJR・市営地下鉄・MM線ならば混雑は必至だっと思う。
人混みの中での立ちっぱなし、そして昼食のために歩き回り、疲労困憊。ようやく横浜駅の東口のレストランで昼食にありつけた。
それにしてもものすごい人混みであった。高齢者もかなり見物に来ていたけれども、あの人混みは私を含む高齢者には、少々厳しい。
午後から陽射しの中を歩いて横浜駅まで。
喫茶店に入って本を読もうとしたら、読書用のメガネも、そして読みかけの本もリュックに入っていなかった。そういえば、家でリュックを背負ったとき、軽さに驚いたが、気にしなかったのが敗因。
スマホでニュースなどを見ながら過ごしていた。読書ができないならば、もう少し美味しいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店に移っても良かったのだが、すでにコーヒーを一口飲んでいた。また財布が軽すぎて電子マネーが使えない店には入れないこともあり断念。
喫茶店を出たのち、書店で新潮文庫のコーナーに倉橋由美子の名を見つけた。「大人のための残酷童話」。昭和という年号の最後の年のころに単行本で立ち読みした記憶があるのだが、確かな記憶ではない。数ページないし1編ほどと思うのだが・・・。
著者のあとがきには「昭和59年」とあり、文庫の初版は「平成10年」となっている。悪い癖で思わず購入。近頃の文庫では珍しく安価で本体460円を支払った。
著者はあとがきに「古いお伽噺に倣って、論理的で残酷な超現実の世界を必要にして十分な骨と筋肉だけの文章で書いてみよう、という気になった・・・」と記している。さて26の掌編にどんな毒がちりばめられているのだろうか。
倉橋由美子の作品を購入して読んだのはデビュー作の「パルタイ」のみ。それも内容はもう忘れてしまっている。
休肝日とは何の関係もないのだが、童話に込めた「毒」を嘗めてみたい衝動にかられた。衝動買いは、最後まで読んだものはほんどない。この本はどうだろう。
本日の退職者会のイベントは、午前10時に金沢シーサイドラインの八景島駅に集合ということで、8時半に家を出た。この時間はいつもの起床時間である。7時半に起床して、急いでいつもの朝のルーティンを済ませた。何とか集合時間の15分前に辿り着いた。総勢46名で、私どもの退職者会からは12名が集まった。
八景島からすぐ近くの「アメリカン・アンカレッジ(碇泊地)」を一望できる記念碑前で集合写真。記念碑にはペリー来日時の海岸線と現在の海岸線、ペリー艦隊が碇泊したと記録されている海域を示す地図が描かれている。
八景島シーパラダイスを抜け、護岸上に釣り人が並ぶ海岸線の沿って北上、金沢の工業団地に沿って港湾局管理の金沢海辺の散歩道・金沢水際線緑地を歩いた。途中で消防局のヘリポートで、ヘリコプターの離発着訓練を間近に見ることが出来た。西の空に富士山がくっきりと姿を現わし、東は房総半島もよく見えた。
正午前に解散地点に着き、ここでも集合写真。歩いた歩数はわずか9千歩ほど。
この後、私どもの退職者会は再度シーサイドラインの福浦駅から出発点の八景島駅にもどり、12名全員が「かき小屋」で牡蠣をはじめ海鮮のバーベキューとワインなどのお酒を楽しんだ。
窓越しの太陽に当たりながらのお酒はよく効いた。
バーベキュー終了後、参加者は京急にて帰宅。私は京急の駅の傍のパン工房の喫茶店でコーヒータイム。酔い覚ましをしてから京急で横浜へ。横浜駅で書店に寄ってから帰宅。
二つ手前のバス停から歩いて帰宅。帰宅後夕食も食べずにすぐに気持ちよく就寝。
歩数計は1万6千歩。ハイキングの割には歩数は少ない。23時からの入浴前に夜のウォーキングを3千歩ほど。
雨は明け方までには上がり、午前中は日が照り好天気。二人とも気分良く目覚めた。
朝の血圧が少々高めであったが、新型コロナワクチンの影響とは思えなかった。昼前に二人で近くのスーパーへ買い物に出かけた。我が家の食材と親に頼まれた食材。いつものとおりに無料の配送を依頼。
陽射しが強く、ジャンバーの下に薄いサマーセーターを着て出たものの歩いているうちに汗ばんできた。途中でセーターはリュックの中へ。
軽く昼食を食べたのち、私は歩いて横浜駅まで。妻はさらに別のスーパーへ。
書店で立ち読みののち、安い喫茶店で読書とひと息。「鬼の研究」(馬場あき子、ちくま文庫)を短時間読み、第1章「鬼の誕生」を読み終わった。
明日は朝から退職者会のハイキング。シーサイドラインの八景島駅集合。読書は先延ばし。
昨晩は、久しぶりに21時過ぎに入浴。強い雨の音を聞きながら優雅に体を温めた。いつもは23時過ぎに入浴タイム。追い炊きは音がするので遠慮。体を洗うのもできるだけ音を立てないようにして入る。一週間に一度くらいは22時過ぎに追い炊きをして入るくらい。
昨晩は浴槽に2度浸かり、贅沢にも2回も追い炊きをしてみた。一日あまり体を動かさなかったので、少しは血の巡りを活発にしてみたかった。
久しぶりに復旧したレインアイよこはまの画面を見ると、小さい面積ながら時間雨量で最大80ミリの雨の区域が複数回横浜市域を通過していった。ちょうど一番雨の強い区域が通過しているときに浴槽の中にいたようだ。
雨の音を聞きながらの入浴は実に気持ちがいい。山の中で樹木の葉にあたる音、岩に当たる音にはほど遠いが、それでも自然の音に近い。雨の音に紛れるだけでなく、雨粒が音を吸収する効果もあるようで、街の中の人工の音が弱く聞こえる。
むろん災害の起きない範囲で、という前提である。雨の降る音が、人間の耳に恐怖をもたらす場合は、災害の危険が迫っている証左でもある、と以前、山行の先輩に教えてもらったことがある。もっとも山のなかと都会と、川の状況などを考えれば一概には言えないとは思うが、貴重な意見ではある。危険を察知する能力は大切にしたいものである。
日付が変わった2時ころ、大きな雷の音で目が覚めた。スマホの情報を見ると1時ころには、大雨(浸水害)警報、洪水・強風・雷注意報が出ていた。竜巻注意情報も出ていた。洗面所の窓から覗くと、猛烈な雨とその音に驚いた。空から押しつぶされそうな圧力を感じた。入浴中はこのようなひどい雨ではなかった。
まだ雨の上がらないうちに就寝しようとしたら、能登半島の輪島市、志賀町にて、震度5弱の地震の情報。深夜なので避難も厳しい。雨も降っている。羽咋市では震度5弱以上の可能性ということもNHKで報道していた。
マグニチュードは6.4と大きいが、津波の心配はないとのこと。志賀原発も心配である。深さは10キロと浅い。
心配ではあるが、体調を考慮してはまずは就寝することにした。
朝のテレビのニュースでは、特に能登半島の地震についての報道がなく、特に被害は出ていないのかもしれない。
倦怠感は前回・前々回よりは軽かったものの、節々の痛みと、頭の中がモヤッと霞んだような不思議な気分を理由にほとんどなにもしない一日が過ぎた。
体を動かし、頭が働いたのは、往復2千歩で近くのスーパーへ夕飯の食材の買いもの、そして「日経サイエンス」1月号の「狩りをする女たち 最新科学が覆す「男は狩猟、女は採集」」の記事を読んだだけである。
妻が里芋入りの豚汁をつくるというので購入しようとしたが、スーパーの生鮮食料の棚には里芋の値札はあるのに、肝心の里芋がなかった。店員に聞くと品切れとのこと。店内を探し回って、ようやく冷凍食品の冷凍庫のなかに里芋を見つけた。皮が剥かれ、下茹済と表示がある。そのかわり100円以上高価であった。
一日中部屋にいると、室内が20℃を超えても寒く感じる。体が燃焼していない。
雨が降ってきた。軽く夜のウォーキングをしてみようかと思った矢先であった。
こういう時はテレビのミステリー番組でも見て、そのあとはゆっくり入浴してから寝るに限る。
昨日の午前中に新型コロナワクチンを接種。
深夜になってから、妻はかなりの高熱と節々の痛みが出た。すぐに解熱剤を服用させたが、明け方まで高熱が続いた。妻は接種のたびに高熱を出す。朝食の段階でかなり下がってきたが、まだ平熱ではない。
私も寝付いた頃に寒気が始まり、37℃台半ばまで。平熱が他のかたに比べて0.5程度低い私にしてみれば、38℃程度の発熱に等しい。私も深夜に解熱剤を服用。私は朝には平熱に戻ったが、ワクチンを接種した左腕だけでなく全身の節々が痛む。
高齢の親は節々が痛む程度で、発熱は今回もないとのこと。体質によるのであろうが、こんなにも差があるのは不思議である。
接種した量はわずか一人当たり0.3ミリリットルと表記されている。これだけで全身に反応が出るものなのだろうか。不思議と言えば不思議である。
過去数回は私は強い倦怠感に見舞われた。今回は今のところ倦怠感はない。午後には近くの店までは食材などの買い物に出かけてみたい。
本日は天気は良かった。最高気温は予報どおり14.2℃。
本日の午前中は親と妻と一緒に新型コロナワクチンの8回目の接種日。親のかかりつけ医は予約なしで接種してもらえる、ということで本日にした。一応朝起きてから病院へ確認の電話をして、OKの確認。親は無料、私どもは3000円の自己負担。
接種終了後に、やはり親の付き添いで別の病院までタクシーを利用。同じ医療ピルにある病院二つをハシゴ。昼食は久しぶりに3人で外食だったが、予定した店は定休日。入店したことのない中華料理店で昼食後、私は組合の会館へ所用を済ませに出向いた。若干の作業。親と妻はタクシーで帰宅予定。
妻は30日のベイスターズの優勝パレードを見に行きたいとのこと。私は混雑は好きではないが、妻に一人で行かせるわけにもいかない。また次が生きているうちにあるのであろうか。何しろ前回は26年前とのこと。もしもその周期ならば、生きてはいない二人である。友人も複数が見に行くとのことである。
ということで、30日は二人で見に行ってみることにした。パレードのコースを一緒に歩く気はもともとないので、一ヵ所に留まっての見学としたい。果たして選手の顔を見ることができる位置を確保できるであろうか。
谷川俊太郎の1971年の詩に「平和」という詩があるのを知ったのはそれほど昔ではない。
政治や運動に携わる人びとの思考回路ではない地平で、丁寧に言葉を紡ぐことを谷川俊太郎は自覚的である。それが人びとに広く受け入れられる根拠であろう。
平和 谷川俊太郎
平和/それは空気のように/あたりまえなものだ
それを願う必要はない/ただそれを呼吸していればいい
平和/それは今日のように/退屈なものだ
それを歌う必要はない/ただそれに耐えればいい
平和/それは散文のように/素っ気ないものだ
それを祈ることはできない/祈るべき神がいないから
平和/それは花ではなく/花を育てる土
平和/それは歌ではなく/生きた唇
平和/それは旗ではなく/汚れた下着
平和/それは絵ではなく/古い額縁
平和を踏んずけ/平和を使いこなし
手に入れねばならない希望がある
平和と戦い/平和にうち勝って
手に入れねばならぬ喜びがある
政治の場や、運動に携わっている人間には「反語」的な言葉や文章というのはなかなかなじまないし、それは避けたほうがいい。相手と味方に伝わるのに曲解や誤解を生むからだ。誰もが自分と同じ思考方法を取っているという前提は避けるべきものである、という前提があるからだ。それ自体はとても悲しいことであり、止揚したい気分があるが、現下の状況では宜わないといけない。
身の回りの人びとと政治や運動に携わる人びととの垣根は、状況により一瞬崩壊し、消失することもあるが、それに甘えてはいけない。これは自戒でもある。
この詩、戸惑いを受ける方は「平和」を「手の届かない所」「聖なる所」に置いてしまっている自分をもう一度振り返る必要があるかもしれない。
平和は「日常」にあり、それに「安住」していいのであり、しかし惰性で所与のものではないことは自覚したいもの。
<戦後75年>谷川俊太郎さんロングインタビュー
その1【https://www.youtube.com/watch?v=MJc0rKJKA6o】
その2【https://www.youtube.com/watch?v=C-PmcDVsYiI】
その3【https://www.youtube.com/watch?v=im7pWuSMOLo】
このYouTubeの冒頭のコマーシャルはインタビューの内容とは相容れないが、ここは飛ばして見てほしい。
谷川俊太郎の主張には当然いろいろな判断はあるが、受け入れるにしろ、首を捻ることがあるとしても、議論の出発点として無視できないと、歳とともに大切なものと思うようになった。
谷川俊太郎が亡くなったとの報道がされた。谷川俊太郎と聞くととても分かりやすい言葉による詩で親しまれている。
まず私の頭にうかぶのは「死んだ男の残したものは」。
「死んだ男の残したものは」という歌は知っていたが、恥ずかしながら作詞者である谷川俊太郎という名は知らなかった。この曲を初めて聞いたのは1970年にラジオで高石友也の歌ったもの。私が初めて谷川俊太郎という詩人を知ったのは、1980年代になってから。
この歌はベトナム戦争に対する反戦歌として1965年、「ベトナム平和を願う市民の会」のためにつくられた。のちに林光によって混成合唱に編曲されている。
平易な言葉ながら、リフレインの言葉ひとつひとつが微妙に変化し、味わい深い。「残したもの」「残さなかった」「残せなかった」「残っていない」。第4番までと第5番以降の対比も胸に響く。
死んだ男の残したものは
作詞 谷川俊太郎 作曲 武満徹
死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった
死んだ女の残したものは/しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった/着もの一枚残さなかった
死んだ子どもの残したものは/ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった/思い出ひとつ残さなかった
死んだ兵士の残したものは/こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった/平和ひとつ残せなかった
死んだかれらの残したものは/生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない/他には誰も残っていない
死んだ歴史の残したものは/輝く今日とまた来る明日
他には何も残っていない/他には何も残っていない
多くの歌手が歌っている。1960年代末に高石友也も歌っているが、やはり今年の8月に亡くなった。
高石友也【https://www.youtube.com/watch?v=7xh8vkk4iBY】
倍賞千恵子【https://www.youtube.com/watch?v=bcCqmzq0d60】
大竹しのぶ・長谷川きよし【https://www.youtube.com/watch?v=eHZMqFPaJwk】
午前中は団地のボランティア活動で屋外作業。午後からふと思い立って地下鉄の港南中央駅まで出かけた。風が強い中、すぐ近くにある横浜刑務所の周りを一周してから、更に遠回りをして上大岡駅に戻った。
私の現役時代の1990年代だったと記憶しているが、横浜刑務所のある事務官とずいぶん話し合いをしたことがある。とても誠実で誠意ある方であった。
横浜刑務所は1923年の関東大震災までは磯子区の現在の丸山にあったが、大震災で一部倒壊、職員と受刑者に死亡・重傷者が多数出た。そのことを契機として1936年に現在の地に移転した。
しかし戦前のこととて、道路敷や水路敷、青地などの整理もまともにはせずに刑務所庁舎、そして刑務官などの官舎などをつくってしまった。公図や登記簿上、敷地内に残ったままの横浜市が管理すべき道路敷・水路敷、それに付属した青地、国の法務局が管理すべき単独青地などの整理を始めることになり、道路敷・水路敷とそれに付属する青地の境界確定のためにお互いにずいぶん苦労した。刑務所の敷地内なので、測量のための立入もできず、いろいろと応用力を発揮したものである。
その整理の結果、古くなっていた周囲の塀の建て替えなど敷地の再整備が進んだ。結果として現在の港南区役所の庁舎も、刑務所から敷地の一部を譲渡する形で建設することが出来たと聞いている。
当時のそんな苦労を思い出しながら周囲を一周して、付け替えたり廃止したりした道路・水路敷などのあとを懐かしく歩いた。もうそんなことは多くの方には記憶の外になっていると思うが、当事者としては忘れられない業務であった。当時若かったと思うが、担当された事務官ももう定年を迎えていると思うと感慨ひとしおである。お名前も覚えていない。
そんなことを思い出しながら、1万歩を超えて上大岡に戻った。
10日間ほど迷惑メールに悩まされた。常用しているフリーメールの迷惑メールフォルダに1日20通を超える迷惑メールが入るようになった。さいわいすべて迷惑メールフォルダに入り、普段使っている他のフォルダには入らなかった。半日まとめて迷惑フォルダを空にする迷惑を強いられた。
いづれも使ってもいないクレジット会社、友人からも自分でも注文していない宅配業者、電力会社名、そして口座を持っていない銀行名を騙っていた。私には具体的な被害はないが、こんなに迷惑メールが来ると不安になる。このフリーメールのアドレスを変更するエネルギーを考えると憂鬱になった。実に不愉快で腹立たしかった。
この状況が10日ほど続いた。10日経って急に迷惑フォルダには入らなくなった。現在は2日にほぼ1通に減った。フリーメールで使われているフィルターがそれらのメールを迷惑メールと判断するだけでなく、学習して拒否するようになったのだと思われる。この状況は以前にも何回かあったが、これほどまで大量のものはなかった。
このような迷惑メール、実に困ったものである。不愉快極まりないうえに、人を不安にさせる。引っかかってしまう人もいるのであろう。愉快犯で済ませることはできない。それこそ詐欺罪での立件もしてもらいたいものである。
メインのアドレスは名刺にも公開しているので、どこかで悪意ある第三者に漏れた可能性がある。今更さかのぼって探るのは不可能である。
朝のうちに退職者会の事務作業を終え、メールにて送信。
昨日、友人と話をしたことの一つに年賀状のことがある。大幅にハガキの値があがり、友人も年賀状という高齢者にとって大切な生存確認を今年からやめたいという。
私も半分は同意した。しかし突然こちらから一方的にやめてしまっても相手は面食らってしまう。相手側から年賀状が来ては申し訳ない。
私が言った意見は、次の4点。
① 年賀状をメール配信に変えられる友人にはそれに変える。
② 今回はとりあえず、メール配信者以外には今回でやめる旨を伝える年賀状を出す。
③ 賀状にはメールアドレス・携帯電話番号を知らせてもらえるよう記載する。
④ 次回からはメール・ショートメールを賀状替わりにする。
⑤ 残りはかなり少なくなると思われる。どうしても賀状を出さないといけない人に絞って賀状は継続する。
私はこれを今回実行しようと思う。これまで実行しようとしていたが、なかなかできなかった。いい機会である。将来的に郵便局が年賀状という制度を廃止しても、ハガキという制度がある限り対応が可能になる。
本日は予報よりも雨が上がるのが遅くなった。私が出かけた11時近くでもまだ雨が降って寒かった。つい厚着をして出かけてしまった。12時過ぎにはひとまず上がったものの、14時過ぎに再び降った。16時ころには雲が切れて青空も見えた。
青空が見えると気温もあがり、最高気温は14.3℃になった。着ていたレインコートが暑苦しく感じるた。居酒屋で時間を過ごし、外に出てみると今度は寒いくらいに気温が下がっていた。
明日はもっと気温が上がるという予報。着るものの選択が難しい。
明日に予定されていた親の通勤の付き添いがなくなった。通院が隔週になったためである。とりあえずホッとしている。しかし予定がなくなり、手持無沙汰である。