Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

俳句誌投稿句

2012年02月21日 19時19分43秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 俳句誌5月号投句
★くしゃみひとつ仏顔なるわが恩師
★裸木の夕日むらさきなお優り
★枯蓮の衒いもなくて水に立つ
★立春や茶を炒る香り路地裏に
★春立ちて太き鴉が影つつく
★葱煮えて湯気に膨らむカレンダー
★鐘の音や冷たき雨は音もなく
★春待つや乾ききったる畝長し
★一枚の畠は赤く日脚伸ぶ
★聴診器静かに触れて日脚伸ぶ

不思議な退行意識

2012年02月20日 18時56分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 土曜日の夜から意欲が無くて調子が今ひとつだった。夕べのブログも自分ではあまり気乗りのしないまま掲載してしまった。結局日曜日一日と本日夕方まで、立ち上がる意欲もないまま過ごした。本日一日休暇を取らざるを得なかった。
 夕方病院までゆっくり歩いていき、途中缶コーヒーを飲みながらまたゆっくりと歩いて帰宅した。傍目からは人は単なるさぼりというかもしれないが、何しろ体が重いのだ。体と意欲ともにどんどん後ろに後退していく感じ、布団に体が沈んでいく感じだ。
 ようやく夕方以降、普通の状態に戻ったような気がする。何なのだろう。

食についての記述の逡巡

2012年02月19日 19時18分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日友人はイカが好みだといって小さなスルメを持ってきてくれた。私はスルメを食べるのが久しぶりで嬉しかった。私は足の部分がコリコリして好きだと言ったら、「好みの部分が違っててちょうどいい」ということで、身とゲソの部分をそれぞれが分けて食べた。

 さてイカ、私は煮込んでも、炒めても、フライも好きだ。刺身をワサビでつついても、おろし生姜でかきこんでもいい。ゲソのから揚げも好きだ。塩辛もうまい。一夜干しを焼いてもいい。ただしイカ墨は遠慮したい。塩辛の黒づくりもイカ墨のイタリアンもだめだ。
 こうしてみるとイカ墨以外は、すべてパクパクと食べてしまうことになる。あえて言えばゲソが好きだという程度だが。
 手が込んだ料理だろうが、そうでなかろうが私は、食べるということについては等価に扱ってしまう。喉で味わうといっていいのか。味もへったくれもなくただ喉に通しているわけではなく、それなりに味は賞味しているつもりなのだが…。

 今はたまたまイカを材料に考え始めたが、他の食材でも同じだ。手が込んで付加価値がついていようがいまいが、どんなものでも他のことは考えず、一心不乱に食べることにしている。
 それがガサツな食べ方に見えようが、集中して食しているように見えようが、私のかまったことではないのだ。妻が「作り甲斐がない」というのはこのような状態で食べることに対する批判であろう。批判はあたっている。それでも食べ方を変えることは結婚して以来変えていない。食べる速度がかなり遅くなったこと以外は。
 そんな私に、食に関する記述ができるだろうか、昨日から考え続けているが、明るい見通しはやはりない。こんなに構えて考えること自体が書けない理由のような気もしてきた。
 だんだん袋小路に入り込んでしまっている。攻め口を変えてみることにしよう。しばらくは「食に関する記述」について考えることは遠慮してみることにしよう。

友とはいいものだ

2012年02月18日 22時05分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は非常に寒い中、久しぶりにあった友人と三渓園で2時間ほど酒盛りをした。枯れ蓮の池、盆栽の梅を観賞した後、池の端の日当たりのいいベンチに座り、水鳥を見ながら、友人が用意してくれたカイロをお腹に貼付け、私は芋焼酎、友人は日本酒、つまみはスルメイカ。
 友人といっても先に退職された先輩だ。退職後の生活のことやら、共通の友人のこと、このブログのことなど、楽しくお酒を飲むことが出来た。持つべきものは友だちだという印象をあらためて強くした。
 園内にはカメラを抱えた一団や、水鳥・鯉に麩をやる子供連れやカップル、観梅の人々などそれなりに人は多かった。
 はたからみたら、いい歳の男が二人、ベンチで酒盛りだから決していい目では見てくれていなかったかもしれない。しかし楽しい時間を過ごしたのだから、そんなことはまったく気にならなかった。
 さて、お酒を飲んでいる間は寒さは特に感じなかったが、用意してくれた弁当を食べ始めたら二人とも寒くて、箸を持つ手が震えた。お酒が切れると寒さが途端に押し寄せてきた感じであった。
 お酒のピッチが私には少し早かったのか、横浜駅にもどっての居酒屋での二次会は私が眠くなってきて、ビアジョッキ1杯でお開きにしてもらった。折角の楽しい時間がもったいなかった上に、話は尽きなかったが、お酒の量としては私には限界であった。大変申し訳なかったが、ここでお別れをして二人とも帰宅することにした。
 しかし私としては十分に幸せな時間であった。

 このブログに関して、この友人から「食に関することが記載されていないね」といわれた。いわれてみるとまさにそのとおり。
 私は食べ物については特に好き嫌いがなく、ほとんど何でもパクパクおいしく食べてしまう。妻から「これはおいしい、の一言もないのは張り合いがない」と昔いわれたことがある。何でもおいしく食べているのだから、私は十分幸せなのだが、「そんなものかな」とたいして気にも留めなかった。
 しかし今日の指摘といい、昔の妻の一言といい、食について少し考えてみるのもいいかな、と感じた。とはいいつつも、どんなことを、どのように書けばいいかさっぱり浮かんで来ない。でも、このことは気にかけておこう。何かの拍子にふとそのような感慨が浮かんできたら、文章にしてみようと思う。

あららららっ

2012年02月16日 20時22分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日久しぶりにブルースクリーンが再現した。エラー報告を行ったところ、
「この問題の原因はハードウェアコンポーネントであることがわかっていますが、エラーレポートには、具体的なコンポーネントを特定するための十分な情報が記載されていません。この問題の原因は、次のいずれかのコンピューターコンポーネントである可能性があります。
・ランダム アクセス メモリ (RAM)
・システム ボード
・中央処理装置 (CPU)
・電源」
の表示が示された。
電源に異状はないと見られるので、この表示を見る限りこのパソコンのハード面での障害と見られる。
 大納言様は何というかわからないが、故障を直すのに数万円かかるようならば、これまでの維持管理費・故障修繕費の総額を勘案すると、買い替えの時期かなとの判断も出来る。せめてあと3ヶ月はもってほしいのだが…。


「気まぐれ」美術館シリーズ全巻揃い

2012年02月15日 19時54分47秒 | 読書
 本日までに洲之内徹の「気まぐれ美術館」のシリーズのうち、「帰りたい風景」と「人魚を見た人」の2冊が届いた。いづれも古本だがきれいだ。「帰りたい風景」は文庫本とは知らず、ハードカバーと思い込んでいた。しかし金額は送料込みで下記のようになっている。「帰りたい風景」が、それも文庫が割高と思うのは私だけだろうか。ちょっと不思議な感覚になった。
・帰りたい風景 新潮文庫    定価税込み 660円→1210円
・人魚を見た人 ハードカバー  定価税込み2700円→2050円

 しかし絶版になっている本だからやむを得ないのだろうと納得することにした。

 「気まぐれ美術館」はシリーズの最初の単行本を偶然書店で見て購入して目を通していた。しかしこの本は、部屋から本があふれてしまった10数年前にまとめて古本屋に二束三文で売り払ってしまっていた。他のシリーズがあるのは知らなかったが、上記の二冊を除き4冊を譲り受けていた。すべてに目を通したわけではないが、つまみ食いのように目を通していた。
 決して名文とはいえない洲之内徹のとっつきにくいが、味のある文章に惹かれるものがある。何より絵の入門書として、そして画家が好きでたまらない画商の文章として読み応えがある。

 到着した2冊、早速目を通したいが、本日は疲れのため、読書は取りやめ。早々と寝ることにする。


 本日の読了  夏目漱石「道草」(再読)

聴診器

2012年02月14日 20時24分22秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★春待つや乾ききったる畝長く
★一枚の畠は赤く日脚伸ぶ
★聴診器静かに触れて日脚伸ぶ

 本日は小雨となったが、昨日までは乾ききった畠が何か痛々しくも感じた。それでも日脚は確実に伸びている。病院であてられる聴診器も心なしか温みを感じるこの頃である。


パソコン奇々怪々

2012年02月12日 19時17分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜パソコンを立ち上げてしばらくしたら9日ぶりにブルースクリーンが現れた。自動的に再起動されてそのまま支障なく使った。今日はブルースクリーンは現れることなく、支障なく使えている。いったいどうなっているのかさっぱりわからない。専門家にでも聞けばいいのだろうが、それもお金はかかるし、しかも来てもらったときにブルースクリーンが現れるとは限らないから困ったものである。

 昨日は昨年入会した俳句誌の横浜での句会に出席、句会後の懇親会にもいつものとおり出席した。第2と第4土曜の午後が句会である。これで定年後は月に2日は埋まったことになる。これが重荷とならず楽しみとして長く続くよう祈りたい。

 本日は布団に入ったまま洲之内徹の「気まぐれ美術館」と「さらば気まぐれ美術館」を読むともなく目を通し、1日中うつらうつらしていたような気がする。「さらば気まぐれ美術館」から版画家藤巻義男の部分2編と「気まぐれ美術館」から「山荘記」ほか8編ほどを拾い読みした。再読もあれば初見もある。
 さて、今持参(頂戴した)の「気まぐれ美術館」のシリーズものは4冊なのだが、巻末の出版案内を見たら「帰りたい風景」と「人魚を見た人」はもっていないことに気づいた。
「帰りたい風景」はネットの古書店で検索できたので早速注文、「人魚を見た人」は新刊本があるようなので注文してみることにした。

1400年の文書主義

2012年02月09日 21時53分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日退職にともなう書類一式が送付されてきた。随分とたくさんある。同じく定年を迎える同僚が「こんなに面倒なくらい書類を書かなくてはいけないなら退職しなくてもいいや」と冗談を云っていたが、確かにそのとおりだ。何回も銀行口座を書かされ、住所氏名を記入し、はんこを幾つも押さなくてはならない。
 ひるがえってみるに、37年前採用されたときも研修を受けながら、やはり何枚もの書類を同じように書かされた。そのときはその場で説明を受けながらみんなで同じように記入していったからそれほど迷うことは無かったが、今回は説明文や記入要領を見ながらである。面倒で途中で投げ出したくなった。
 ようやく記入し終わったが、戸籍謄本やら住民票やら課税証明書などを別途手配しなくてはならない。本日1日では終わらないのである。日本は律令の昔からの文書主義、1400年後の我々までその影響を受けているといえば大げさなものいいになるのだろうか。だいたい普段の仕事では印鑑なぞまず使わないのに。
 とぼやきつつ、頂戴した高価な焼酎を一杯飲んで、本日の一仕事は終わった。

パソコン依存症

2012年02月07日 20時27分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 この3日続けて、どこをいじったわけでもないのにパソコンの調子がいい。立ち上がったあと3分くらいして突然ブルースクリーンが現れていたのに、そのような事態にならない。このままの状態が続いてくれるとありがたいのだが‥
 不思議なもので、普段から使い慣れているものの具合が悪くなると、日常のスムーズな流れが滞ったように感ずる。パソコン自体もそうだが、たとえばマウスのような付属品、あるいはパソコンに限らずいつも使う携帯電話も。更には小さな穴のあいた下着を着たり、財布に小さな綻びができただけで何か日常の動作に不思議な力が働いたようになる。いつもと勝手がちがうように手足の動きや体全体の動作がぎこちなくなる。何といっていいか不思議な感覚に襲われる。
 まして思考と記述の大半をパソコンのワープロ機能に頼っている状態でパソコンに異状をきたすと、思考そのものが頼りなくなる。情けないとは思いつつも、パソコン依存症であることを証明しているようなものである。
 現代人の何パーセントがパソコン依存症でないと云い切れるだろうか。歩きながら携帯電話の画面を操作しつつ人にぶつかりそうな若者を笑える大人がどのくらいの割合でいるであろうか。好き嫌いは別として職場でパソコン漬けになっていれば、大部分の人間はパソコン依存症であろう。そういう私もまったく例外ではない。
 私の場合、キーボードを叩く操作と思考のテンポがほぼ一致してしまっているように感じている。キーボードを打ち間違えれば訂正している間思考は止まっている。キーボードを叩きながら思考している。そしてA4で1枚分くらいを叩くと思考は止まる。指も止まる。おおよそA4で1枚分というスタイルまでもが私の思考を規程している。これも仕事の延長のような気がする。
 この文章もここでちょうどA4で1枚分の量に達した。自然に指がとまり、思考が一息つくから不思議なものである、怖い気もする。

路地裏

2012年02月06日 19時47分40秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★路地裏に珈琲を炒る春立つ日
★春立ちて太き鴉が影つつく
★葱煮えて湯気の膨らむカレンダー
★底冷えの夕闇せまる鐘の音
★鐘の音や冷たき雨は音もなく

 一昨日のウォーキングの途中、商店街の横道に入った奥の喫茶店から珈琲のいい香りがした。豆でも炒っているように豊かな香りであった。そして商店街の本通りではまるまると太った鴉が珈琲の香りをかいでいる私の長い影の先端の方で、物怖じもせず何かをつつく仕草をしていた。
 打って変わって本日は寒い雨が降る1日となった。予報では明日は本日より10度以上気温が高くなる由。体がびっくりしそうである。

ご機嫌な1日

2012年02月04日 21時01分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日パソコンは立ち上がった後にブルースクリーンなることもなく、そのままご機嫌が良い。どうしたはずみだろうか。

 さて本日は風もなくおだやかな1日。暖かい陽射しをうけながら横浜駅から菊名駅までを往復、約2万4千歩を歩いた。途中蕎麦屋で日本酒を1合とざる蕎麦1枚。そして銭湯でサウナにも入り、実に充実した1日を過ごした。そして酒の安売り店にて1280円也で4合瓶の焼酎を1本購入してさらにご機嫌と相成った。これで俳句の数句もできれば云うことなしなのだが…。
 

山崎聰句集「北斗」から

2012年02月03日 19時31分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連
藁屋根へ月光とどき鹿がくる
ぶどう掌に余り一雷後の青空
くらがりを金の鹿くる春怒濤
みひらける誰のまなこか曼珠沙華
桜吹雪虚空を顔が過ぎてゆき
まなこふたつ牛が近づきくる寒さ
木の毛虫憎めば止まりまたうごく
陽へ伸びてこころのきまる松の芯
一月の思いみなぎり遠き帆よ
地吹雪す陽は谷を越えかるがると
雲の上は常に快晴ピラカンサス
山に雪降りいちにち飴のように寝る
尾がたえず牛を打ち人炎天に
猿の檻うしろに寒きにんげんも
紅梅の仔細にみればちらちらと
あまた光るなかの一粒山ぶどう
ひとつ蹴りひとつは拾い雪の玉
思惑はいろいろ雪の野に仏
震えいる蝿一匹の後始末
出る杭のひとつにとまり夕蜉蝣
土曜日や髭を剃り萩の赤を賞め
柿に没陽谷乱心し紅潮し
北風が吹きぬけてゆき檻の軍鶏
人声す霧の中何か始まりて

 作者は現代俳句協会の副会長。「北斗」は1987(昭和62)年に発刊した第3句集に当たる。
 私はこの作者の言葉の感覚は独特だと感じた。個性的な言葉遣い、というよりも何か他を寄せ付けない独特な感性に裏打ちされているということだ。
たとえば二番目の句「ぶどう掌に余り一雷後の青空」、通常の語感からすれば、「雷鳴やぶどうのひかり青空に」あたりになるのであろう。それが8-6-4の語調に「押し込め」られている。そう思うのは私だけだろうか。ぶどう、掌、余り、一雷、青空とおよそ俳句にするには多すぎる素材が文字通り「押し込め」られている。
 初心者が俳句を教わるに当たり、「要素が多すぎる」とよく指摘され、焦点を絞るように云われる。しかしながらこの句集にちりばめられた句はこれとはまったく逆の句ばかりといっていい。
 この句もどこに焦点があたっているのかといわれれば、たじろいでしまう。しかし掌からこぼれるぶどうのひかりの一粒と、一雷後の青空の透き通るような空の美しさとの対比は、何とも美しい。ひとつの対比の妙を見せてくれる。
 他にも同じような対比の妙を示した美しい句がある。最初の「藁屋根へ月光とどき鹿がくる」「くらがりを金の鹿くる春怒濤」「みひらける誰のまなこか曼珠沙華」「陽へ伸びてこころのきまる松の芯」などなど。
 そして、だからこそ、なかなか理解できない句もたくさんある。独特の語感を持つと同時にそこには独特の美意識がはりついている。このことを前もって覚悟してからでないと、なかなか理解できない句が多いのではないだろうか。現代俳句を読むことの難しさもここにある。
 今回は私が理解できたと思った句を中心に掲載してみた。