昨日は、友人より高崎市タワー美術館で開催されている生誕100年を記念の『土門拳の昭和』展の絵葉書と水彩画のしおり3枚、室生寺弥勒堂の釈迦如来坐像左半面相のA4ファイルをいただいた。
土門拳の写真は東京都写真美術館に行ったり、大きな書店に行ったりした時には、その写真集をめくることが多い。いつ見てもどれを見ても、心惹かれる。
筑豊、こども、肖像、風景、古寺、仏像、報道写真どれも好きだが、特に好きなのは古寺巡礼のシリーズ、寺や仏像、そして風景を題材とした写真だ。
以前酒田市を訪れたとき、土門拳記念館に寄らなかったのが悔やまれている。是非訪れたい場所のひとつだ。
送ってもらった絵葉書の中で、西芳寺の孟宗竹の写真がすばらしい思った。一見誰でも撮れそうでいて、決して真似など出来ない作品ばかりで、この1枚などもごくありふれた構図であり、視点である。
1本の若竹の鮮やかな色が他の2年目以上の竹の見せる緑のグラデーションの中で不思議に光っているさまは、これを真似しようとして真似のできるものではない。そしてこの写真では落ち葉が敷き詰められた地面全体が背景としても美しいだけでなく、葉ひとつひとつに焦点が合いそれぞれが美しいフォルムを見せている。構図では左右を古い竹できっちりと区切り隙がない。それに反して上下は区切りが無く上下に開放されている。竹の高さや竹林の広がりを明確に暗示している。日が差し込んでいないにもかかわらず、左右を区切ることで逆に開放感が生じている。
石地蔵の写真は初めて目にするが、私の好みだ。松の枝から滴が落ちる早春の雪原に顔を出した石地蔵。松の樹と滑らかな雪の表面、石地蔵の三つの質感の違いと肌合いの違い、そして松と雪原と地蔵のそれぞれの曲線、そして同じ三つの素材が作る影。これがこの写真のいのちだ。
樹と雪と地蔵の三つの素材がつくる肌合い・曲線・影の三つの要素の響き合いが美しい。単純だが見ていて飽きることがない。誰でもがそこに居合わせたらものにできると思ってしまう写真だ。だが発見する力ばかりではなく、松の樹を大胆にカットする構図、一方地蔵のある右手は雪の空間を残し、左右共に広がりを確保している。これも真似はできないと感心する。手前の大きな滴跡もカットしてないところがいい。
インターネットでいくつかの解説を読んだら、土門拳の水彩画も文章も、また書も見るべきものがあるとのこと。送ってもらった栞3枚には、それぞれ花瓶にさした一輪の花、ひとつの筍、1本の向日葵が描かれている。脳出血後のリハビリで左手で描いた物。どれも派手な色合いだが落ち着いた感じのいい絵だと思う。
文章も是非今度は読んでみたいものだ。
久しぶりに土門拳の写真を見、初めて絵を見る機会を得て、送ってくれた友人に心より感謝したい。