本日から「定家明月記私抄」(堀田善衛、ちくま学芸文庫)を読み始めた。まずは「序の記」を読み終わる。
ここでも堀田善衛は「方丈記私記」で記した「明月記に“世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾がことに非ず”という一文があることを知り‥自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されるかもしれぬ時に、戦争などおれのしったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張り裂けるような思いを経験させたものである。」と少しずつ文言を変えて繰り返している。
「この(紅旗征戎‥)一言が、わずかに十九歳の青年の言辞として記されていたことは、衝撃を倍加したものでった。‥その当時として天下第一の職業歌人俊成の家に生まれていて、自分もまた‥家業を継ぐべき位置にあったとしても、‥その時世時代の動きと、その間に在っての自己自身の在り様とを一挙に掴みとり、かつ昂然と言い抜いていることは、逆に当方をして絶望せしめるほどのものであった。」
「「方丈記」について書いたときも疎であったが、‥いつも同一の歌について、自分のなかに二つの傾斜部分が生じることに悩まされつづけて来‥。“雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる”‥薄墨の朦朧たる背景に音階、あるいは音程を半音程度にしか違わぬ白の色を組み合わせて配し、音の無い、しかもなお一つのはじめも終わりもない音楽を構えてだしていること、‥それは高度極まりない一つの文化である。十二世紀から十三世紀にかれてかくまでの高踏に達しえたぶんというものが人間世界にあって他のどこにも見ることがないというにしたっては‥。‥けれどもさていったい、だからどうだと言うのであろうという不可避な念を更に押すとなれば、この音楽はその瞬間にはたと消えてしまってあとには虚無が残るばかりなのである。そこに意味も思想も、そんなものは皆無なのである。‥自分のなかにこういう二つの傾斜をもったままでこの詩人、あるいは彼の生きた実に長々しい生涯とその時代に付き合ってどこまで行けるのか‥。」
「“行蛍なれもやみにはもえまさる子を思ふ涙あはれむしるやは”誇張などとは私はまったく思わない。雨が降ろうが風が吹こうが、後鳥羽院のあとを追って文字通り駆けまわらなければならないのである。二流貴族、職業歌人のかなしみもここにきわまれりともいうべきであろうか。」
いつものように覚書として。各章の要約でも無く、キーセンテンスでも無い。同意・不同意は別にして、私の気を引いたところ、気になったところである。