Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「ピアノ四重奏曲全3曲」

2016年02月29日 22時03分01秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   
   

 ブラームスのピアノ四重奏曲は全部で3曲ある。CDの解説では、3曲とも1854~55年に構想されたとしている。1854年はシューマンが投身自殺をしてブラームスもジュッセルドルフに駆けつけ、そののちクララ・シューマンとの関係が深まるきっかけとなっている。ブラームス21歳と若い時である。先日取り上げたピアノの「バラード集」(作品10)はこの年に出来上がっている。しかしピアノ四重奏曲はすぐには完成していない。
 第1番(作品25)と第2番(作品26)は1857~59年に草稿ができたと記してある。完成は1861年でクララ・シューマンのピアノで初演されたようだ。翌年にブラームスのピアノで初演され、ピアニスト・作曲家としてデビューしている。ブラームス28歳の歳である。
 第3番(作品60)が完成するのは1875年と構想から20年後で、ブラームスは42歳となっている。暗く悲愴な曲想といわれ、解説には作曲者自身が「楽譜の扉にはピストルを頭に当てている男の姿を書くと良い」と記していると記載してある。20年前のシューマンの自殺未遂の衝撃を引きずっていたのであろう。

 第1番と第2番は対照的な印象を受ける。第1番はどちらかというと暗い感じであるが、第2番はどちらかというと明るく快活な印象を受ける。どちらも若いブラームスの心の中の一面を表しているのだろうか。メロディーは私には第1番の方が親しみやすい。特に第3楽章のヴァイオリンとヴィオラによって奏されるのびやかなメロディーは忘れられない。
 また、第3番の第3楽章のチェロに始まるメロディーもまた忘れられない。
 シェーンベルクはこの第1番をことに評価をして管弦楽用に編曲をしている。無調性・十二音階技法で現代音楽の旗手のようなシェーンベルクと、古典的なブラームスの接点として有名である。私はまだこのシェーンベルクの管弦楽編曲版を聴いていない。是非聞きたいと思っているがまだ機会がない。

気象庁の予報どおり横浜では雨が降った

2016年02月29日 19時12分08秒 | 天気と自然災害
 買い物に付き合ってちょうど家に着いた時間に、強い雨が一時降った。危なく雨で濡れてしまう所であった。風邪がどうやらおさまりかけているのに、体が雨に濡れてはまずい。助かったと思った。さらにその後気温がぐっと下がっている。昨夜の天気予報は気象庁の予報に軍配が上がったようである。朝に「気象庁の方に分が悪い」と記載してしまったが、これは申し訳ないことをした。
 次第に雲が少なくなっているのは嬉しいが、風が強くなっている。今はうなりを上げて吹き始めた。明日は県立図書館のある紅葉坂まで行きたい。天気が回復して、気温も上がってほしいが、先ほどの天気予報では風が強く気温は低いとのこと。

 ようやく朝に予定をしたブラームスのピアノ四重奏曲を聴き始めた。聴きながら恩地孝四郎展の感想の「その7」を仕上げた。明日「その8」で一段落としたい。

「恩地孝四郎展」(その7)

2016年02月29日 17時51分57秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 今回まず取り上げるのは1939年の「円波」。図録の解説によると陸軍の嘱託で中国大陸に「戦いの匂ひに触れたくていつた」ものの取材できたのは名所旧跡や庶民の生活などであったという。
 この版画作品は甘棠湖での写真原板が残っている。絵画作品・版画作品の秘密をそっと覗くことのできる作品である。写真と見比べてすぐに気づくことは、波の強調である。そうして着目した対象をクローズアップし、余分なものを省き、手前の岸のゴミと思われるものを紋様として昇華している。当たり前と云えば当たり前なのだが、そのことで洗濯をする人物の孤影が、俄然雄弁に物語り性を帯びてくる。
 戦争に背を向けひたすら日常に埋没しようとする庶民の生活を見る見方もできる。貧しさを見ることもできる。静かな抒情を発見することもできる。見る者にさまざまな想像力を駆り立ててくれる。写真よりも雄弁な作品に仕上げているように感じる。

      

 その他戦後の展開の中で、私なりに気に入った作品をいくつか掲げてみたい。
 1950年代に一気に開花したように抽象的な表現でさまざまな試み、実験を繰り返しながら作品世界を広げて行ったことが展示を見てわかったような気がする。
 カンティンスキーの影響について述べたが、むろんジョアン・ミロやひょっとしたらパウル・クレーなどの影響もあるかもしれない。その影響以上に恩田孝四郎らしい作品世界が私などにはとても心地よい。
 死の前年1954年11月まで作品を作っている。
 ここでは「リリック#32」「同#36かなしき諧謔」「コンポジション#19」「オブジェ#4」1954年の作品を4点掲げる。
 このほかにも、「ポエム#13」(1950)、「ポエム20#1葉の中の童話」(1952)、「フォルム#16」(1952)、「同#18」(1953)、「ポエム#15過去」(1950)、「同#23」(1954)、「リリック#31悲しき興奮」(1954)などなど多数あった。


ブラームスをたっぷり聴く予定が‥

2016年02月29日 11時21分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は横浜市の図書館の登録を行った。本日神奈川県立図書館で手続きを思い立って先ほど調べたところ、月曜日は休館日なので断念。しかし神奈川県立図書館は、県の財政難を理由として、憶測を含めてさまざまな情報があるようだ。まずは明日以降直接聞いてみないことには判断できないが、どうなることやら。



 ということで、本日はブラームスのピアノ四重奏曲を取りだしてきた。しかし、先ほど聴こうとしたら、買い物のお付き合いの指令が出た。
 ブラームスの若い頃の香り満載の曲である。楽しみにしていたが残念ながら夕方からに変更。

 さて、昨日出された本日の天気予報は気象庁が雨、他の気象予報会社の予報は多くが9時過ぎから晴れるというものであった。11時近い現在は空一面が薄曇りで太陽がうっすらと顔を出し陽射しがある。どちらかというと気象庁の方に分が悪そうな気配である。
 気温は15℃-17℃位と開きがあるがそれでも暖かくはなりそうである。
 現在出されている予報ではいづれも正午過ぎからは太陽が顔を出すようになっている。

明日は17℃と暖かい予想

2016年02月28日 23時29分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 21時30分位から弱い雨が降ってきた。予報どおりである。「レインアイよこはま」で見ると5ミリ未満の雨である。そして間もなく、日付が変わる前には止みそうである。
明日は9時ころには雲もなくなり、気温も17℃と高くなる予想となっている。
 鼻水と啖の症状はかなりおさまっている。後1日か2日で完治するように思っている。しかし近年稀に見るしつこさ、しぶとさである。横浜駅にある有隣堂で立ち読みをしているときも、ゴホンゴホンと咳が止まらない客が少なくとも3人はいて苦しそうであった。図書館でもゴミ箱にチリ紙がたくさん捨てられていた。
 このしつこい風邪、インフルエンザではないといわれているが、予防接種を受けた4種以外のインフルエンザが流行っているのではないかと、疑う人もいる。私の友人も盛んにそんなことを云っている。素人の我々が嘘の発信元になってはまずいのだが、何となくそんな意見に組みしたくなる気持ちもわからないではない。
 妻も咳と鼻水と痰が苦しそうである。しかし内科医から薬を処方してもらったこともあり、私よりは早く回復しそうな気配でもある。私よりも先に完治してしまうかもしれない。複雑な気持ちである。


横浜の市立図書館

2016年02月28日 22時07分55秒 | 読書
 本代が嵩むので出来るだけ図書館利用をすることにした。神奈川大学の図書館は、エクステンション講座の受講生は閲覧のみで貸し出しはしていない。しかし揃えてある図書の充実度、本の状態の良さにはびっくり。また閲覧室も大きな机とゆったりとした椅子が供えられ、静かで落ち着く。入館には毎回受講講座などを記入しなくてはいけないのが面倒ではあるが、そんなことよりも読書環境が確保できることの方がうれしい。しかも家から極めて近い。
 なんとか貸し出しができるようになってもらいたいが、これは高望みのしすぎだろう。



 本日は横浜市立図書館におもむき、図書カードを作成してもらった。さっそく貸し出しを受けようとしたら、その図書がこの図書館に無く、他の区の図書館からの取り寄せとなった。他の2冊は貸出禁止図書で中央図書館まで閲覧に行く必要があるとのこと。
 各区にある横浜市立図書館は閲覧コーナーがほとんどない。基本的に貸し出しが中心で読書を楽しむ場所ではない。しかも本日は日曜だったこともあり家族連れが多く、2~3歳の子どもの運動場と化していた。とてもではないが読書などしていられない。

 郷土史関係の図書等は充実しているが、他の分野の蔵書の傷み具合はかなり進行している。蔵書の傷み具合がそれなりに進行しているということは、公立図書館の宿命でもある。貸し出しが少ない図書館ならば存立が危うくなる。

 ネットに登録すると、予約した本の状況をメールで知らせてもらえるようなので、登録してみた。
 貸出については、図書カードの登録番号で管理しており、利用状況などがすべて記録されているというのはあまりいい気分ではないが、背に腹は代えられない。


「称名寺貝塚」展(横浜市歴史博物館)

2016年02月28日 19時07分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 横浜市歴史博物館の「称名寺貝塚-土器とイルカと縄文人」を見てきた。
 「称名寺貝塚」、縄文時代後期初頭の「称名寺式土器」というのは聴いたことはあるが、実際にその展示と解説を見たのは初めてである。この形式は西日本からもたらされたらしい。一方でイルカ漁の技法は北からの影響ないし、関東地方での独自の技法らしいとのこと。
 称名寺貝塚の大きな特徴はイルカの骨が大量に出土していること、とのことである。これは縄文中期以降遺跡が小規模になり人口減少が著しい時期に、この遺跡ではイルカ漁により大規模な集落が維持できたことが特徴ということをギャラリートークで解説を受けた。納得できる話でもあるが、一方で、称名寺以外の入り江ではなぜイルカ漁がおこなわれて食料の確保が行われなかったのか、という疑問が湧いてくる。まだまだ納得できる理由・説明はないような気がする。
 女性をかたどった土偶は「一般的に女性と云われるが、食物をもたらす女神ではないか。古事記のオオゲツヒメ神話などと関連付けられるのではないか」との指摘は面白かった。殺害された者の屍体の各部から栽培植物が生じるという説話は、東南アジアから大洋州・中南米・アフリカに広く分布しているとのことある。
 一方で男根をかたどる石棒の出土に基づく祭祀や、住居跡の様子などの展示・説明もあり、勉強になったギャラリートークであったと思う。
 土器の形も紋様も初めて目にするようなものもあり、興味深かい。

   

「幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」(横浜開港資料館)

2016年02月28日 09時30分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日の2か所目は横浜開港資料館で開催していた「日独修好150年の歴史「幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」」展。
 2011年が日本とプロイセンが通商条約を結んで150年ということであったとのことである。1860年当時、プロイセンが北部ドイツの32か国を代表して日本と交渉したが、結局幕府はプロイセンとだけアメリカ以降7番目の通商条約を結んだとのこと。この条約から11年後の1871年にプロイセンはヴィルヘルム一世とメッテルニッヒのもとドイツを統一しドイツ帝国が成立している。
 プロイセン人の見た長崎・江戸・横浜の風景はもとより、シーボルトの残した足跡や、日本からヨーロッパに渡った最初の源氏物語全巻などの資料が魅力的であった。
 いつも開港資料館の企画展の場合、展示を見てから資料を読み取って当時の勉強をすることにしている。展示目録や資料などはユーラシア文化館などよりは丁寧に作成されていて、展示を思い出しながら資料を読むというのは理解が多少は容易である。
 一昨年9月にはスイスとの修好150年ということで、スイス人の見た幕末のスケッチなど興味深く見ることができた。スイスが6番目の修好でドイツの前身プロイセンが7番目ということはようやく覚えた。今回も使節団の描いたスケッチや写真など興味深かかった。江戸城や亀戸天神、洗足池、池上本門寺のスケッチは茶屋などが克明に描かれていた。将軍家茂のプロイセン国王宛の信任状や幕府の外国奉行の公文書などこれまでにないスケッチ・写真・文書であり、スイスの時に続いて興味深かった。

   
   
  

明日は横浜市歴史博物館

2016年02月27日 23時13分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日に続き暖かい陽気につられて、啖・鼻水は完全には止まっていないが、午後からまた出かけた。神奈川大学の図書館で30分ほど読書タイムの後、東横線-みなとみらい線で日本大通りにある横浜ユーラシア文化館と横浜開港資料館の2か所を訪れた。両者は5分と離れていないので、特にたくさん歩いたわけではない。約1万歩ほど。
 明日は横浜市歴史博物館の企画展「少名子貝塚-土器とイルカと縄文人」ならびに、私の住んでいる区にある市立図書館による予定でいる。本日は13時から企画展に関する講座が開かれていたが、チラシを見なかったのでわからなかった。しかし明日はフロアレクチャーがあるようなのでそれを期待している。
 本日見に行った開港資料館の展示の報告は明日の朝にアップ予定。

「貿易都市マニラの栄光展」(横浜ユーラシア文化館)

2016年02月27日 21時05分13秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 横浜ユーラシア文化館で「横浜マニラ姉妹都市締結50周年記念事業『貿易都市マニラの栄光-考古学が語る太平洋航路の成立と発展(フィリピン国立博物館収蔵資料)」を見てきた。
 主にスペインの支配を受けて以降のメキシコを経由した太平洋航路によるスペインとマニラ間物資の流れを、沈没船サン・ディエゴ号からの引き上げ遺物の展示を中心に展示してある。
 中国の明、戦国時代の日本の陶磁器・武具・絹製品などと中南米産の銀の交易ルートなどが示されている。

 私が興味を惹かれたのは、当時マニラ近郊で古くから使われていたという土器と土器製の竈。土器を小さな竈の上に載せて煮炊きをしていたらしいのだが、土器の底面には煤の痕跡を見ることができなかった。むろん貯蔵の用途のものも多数あったとは思うが、調理につかったものもあるはずである。沈船からの引き上げ品なので海水に現われたという見方も出来るが、そこらへんは聞いてみたいと思っている。

 展示だけでははやり理解できる範囲は限られてしまうので、講演会やギャラリートークが終わってから「申し込めばよかった」と反省ばかりしている。次回の展示からは事前に申し込みをした方が良さそうである。とりあえず3月中のギャラリートークに参加してみたいものである。
 次の企画展は4月以降のようなので講演会の申込みについては残念ながら覚えている自信がない。
 同時に開催している「横浜マニラ姉妹都市締結50周年」の展示はバス。しかし写真展「フィリピンの教会建築」は興味深く見た。世界遺産登録されたマニラ大聖堂などの写真は是非もう一度じっくりと見に行きたい。イタリアなどの教会建築とは違う感じがする。本日はその感想にとどまった。どこがとう違うのか自分なりにもう一度確認したい。

   

伊藤若冲「出山釈迦図」(彩色画と水墨画)

2016年02月27日 11時55分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 「出山釈迦図」は29歳で出家し、雪山にこもった釈迦が6年間の断食などの苦行後、苦行を否定し山から下りてきたところの図で、古来画題として描かれている。こののち菩提樹の舌で瞑想を繰り返し悟りを得た、ということになっている。
 仏像などではやせ細って骨が浮き出た姿態で表現されているが、この絵では彩色画も水墨画もそれほどやつれては見えない。
 最初は水墨画は下絵なのかと思ったが、解説を見ると落款からは彩色画の方が先に描かれたらしい。ともに同じ寺に伝来し、彩色画は特別な儀式のときに掲げられ、水墨画は日常的にかけられていたという。
 見比べてみると、彩色画の方が表情は柔和である。微笑みが表情の眼目のように見える。確かに大勢の人には「ありがたみ」「柔和」などが伝わるかもしれない。苦行の後を偲ばせるのは柔和な眼の割には鋭い視線かもしれない。着衣が赤く、炎のようでもあり、暖色特有の効果でエネルギッシュな内面が燃え立つように見える。
 それに比べると水墨画の方が顔の彫りが深く見え、やつれてい見える。苦行の山から下りてきた感じが出ている。眼光は鋭いものの気力が失せかけているようにも、懐疑の渦中のような苦悩に苛まれているようにも見える。着衣が赤くない分、ほっそりとした身体には寒さに耐えているようにも見える。そして足先が白く描写されていて、さらに弱々しく思える。
 「出山」という事態の表現としてみると水墨画の方がより人間らしい描写である。私には人間としての悩める釈迦らしく見えるので、水墨画の方が好みである。
 大胆に言えば、彩色画は光背もあるので大勢の人の信仰を得るための宗教画、水墨画は個人の内面を表現しようとした芸術としての絵画に見える。

講座の選択

2016年02月26日 23時00分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 4月からの神奈川大学のエクステンション講座のカタログが昨日届いた。正式な申込みは3月1日からであるが、取りあえず申込み講座をピックアップした。
 これまでよりはずっと少なく、6講座で23回に絞ってみた。その内2講座2回は無料の講座。むろん金銭的にもずいぶん軽減となった。空いた時間はどうなるのか、朝寝坊が増えるだけかもしれない。

 咳と鼻と痰はまだ完全にはおさまっていないが、昨日よりはずっと楽になった。鼻紙の消費量も半分以下で済んだ。妻から貰った薬を本日も1回分貰って服用。このまま収束してほしいものである。

 暖かい穏やかな陽射しに誘われて14時過ぎに横浜駅まで歩いてみた。昨日に比べると歩数は半分近くであるが、気持ちよく歩けた。

 岩波書店の「図書3月号」到着。今回は三浦佳世氏の「グレコと価値の左右」が面白かった。連載の3回目、いづれも楽しみに読んでいる。今回指摘されて初めて気がついたが、エル・グレコの「受胎告知」は確かに他のルネサンスの画家の受胎告知とは大天使ガブリエルとマリアの位置が左右反対である。ダ・ヴィンチの受胎告知も確かに右にマリア、左に天使であった。
 五世紀までの初期キリスト教ではグレコのように右に天使、左にマリアであったとのこと。「右をよしとするキリスト教文化において、天の御遣いに価値を置くか、聖母に価値を置くか、時代の意識が構図に反映されているのかもしれない」と結語している。これは記憶しておこうと思う。
 この連載はなかなか面白い。

 明日も良い天気のようである。風邪の回復状況にもよるが、横浜歴史博物館の企画展「称名寺貝塚 土器とイルカと縄文人」、横浜開港資料館の「日独修好150年の歴史-幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」、横浜ユーラシア文化館の「貿易都市マニラの栄光―考古学が語る太平洋航路の成立と発展」のいづれかを狙っている。

ブラームス「スケルツォ、バラード、ピアノ小品集」

2016年02月26日 20時44分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 一昨年の9月に取り上げたCD。1年5カ月ぶりである。収録してある曲は、スケルツォ作品4(1851年)、バラード集作品10(1854年)、ピアノ小品集作品76(1878年)。それぞれ19歳、21歳、45歳である。作品4と作品10が最初期の作品ということになる。それ以前の作品は作曲家地震が廃棄してしまっている。作品76は第2番の交響曲の翌年である。ブラームスの後期の内向的な作品群の入口にあたる曲とされている。
 演奏者のコワセヴィッチによって1983年に録音されている。

 作品10のバラード集はなかなかいい。シューマンがこの年にデュッセルドルフで自殺未遂を起こし、ブラームスは駆けつけたその地で書き上げた、と解説に記されている。しかし初演は1860年(第2と第4、演奏クララ・シューマン)と1867年(第1と第4、演奏ブラームス)と分けられている。
 作曲された1854年はブラームスとクララ・シューマンの関係が始まった年とも云われている。私は第4曲がもっとも好みである。前半はシューマンの影響が色濃く出ているらしい。

 作品76は4曲の間奏曲と4曲の奇想曲(カプリツィオ)のそれぞれ3分未満の8曲からなる。初演は1880年にハンス・フォン・ビューローによるという。どちらかと優雅に聴こえる間奏曲と、流動的な奇想曲が交互ではなく、どういうことでこの順番になったかは調べてもわからなかった。
 8曲をひとつの曲としてとらえると、第1曲から第5曲へと少しずつ盛り上がり、第6曲、第7曲がなだらかな丘の頂点にあるようだ。第8曲で軽快に丘を降りて終了ということなのだろうか。

「恩地孝四郎展」(その6)

2016年02月26日 14時25分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 恩地孝四郎展で女性像三点に惹かれた。ひとつは敗戦直後の1946年の作品「あるヴァイオリニストの印象(諏訪根自子像)」である。
 諏訪根自子についてウィキペディアの記事を要約すると「1920(T9)年~2012(H24)年。13歳でデビューした日本の女性ヴァイオリニスト。可憐な容姿であったことから国民的な人気を得て「美貌の天才少女」と一世を風靡したほか、ヨーロッパに渡ってベルリン・フィルなど各地の交響楽団と共演を果たして国際的に活躍した」また「1943年にヒトラーの政権の宣伝相ゲッベルスから贈られたヴァイオリンはストラディヴァリウスと伝えられているが、その真贋やゲッペルスの手に渡った経緯(ユダヤ人からの略奪または正規購入)など、以前の所有者名など、詳細は判明していない」となっている。ファシズムの嵐に翻弄されたヴァイオリニストでもあるようだ。
 恩地孝四郎と諏訪根自子の接点はわからないが、恩地が音楽に多大の関心を示していたことはすでに記した。1990年代まで活動をされていたということだが、残念ながら私はその演奏を聞いたことはない。またその名もこれまで恥ずかしながら聞いたこともない。
 写真で見る限り細面の方である。1946年といえば彼女は26歳、しかし私にはこの作品からは華やかな印象も、若さも感じない。弱々しさと頼りなささえ感じる。顔の表情と弦を持つ弱々しい右手によってもたらされる印象が大きい。世界を駈け回った輝かしい音色はどうしても想像できない。恩地自身がどのような印象を持っていたかも不明である。だがしかし、印象に残る作品である。
 印象に残るのはヴァイオリンのフォルムを何となく想像するような左右の黒い曲線と、弦を持つ弱々しい初心者のような右手、そして俯き目を瞑った顔によると思われる。



 残りのふたつの作品は1948年の「アレゴリー」というシリーズの#1「家族」と#2「廃墟」である。今回の展示では恩地の描く女性像は必ず「母性」と結びつく方向を示している。赤子を抱いたり、身体に胎児を宿していたりしている。1920年代に盛んに作られた裸婦像も私には母性を前提とした女性のイメージだと思う。
 しかし戦後に現われた女性像は具象的な作品ではそのような「母性」は拒否されている。
 アレゴリ-#1の「家族」は倒立した男の下肢と胎児と女性のトルソ、ひょっとしたら倒立した男の足の先に見えるのは女性の切り離された首にも見える。これらが、バラバラに関係を断ち切られて浮遊している。ベルトコンベアーのような動力機械が濃い色で前面に配置されている。とても奇妙で残酷で、色彩は明るいが印象は暗い。
 母性や男女の関係が切り裂かれている時代を表しているのか、恩地の夫婦間の断絶なのか。実生活からは後者ではなさそうであるが、戦争・敗戦という時代を潜り抜けた何かが気になる。
 #2の「廃墟」も株には都市の廃墟のような風景に見える。焼け残った家屋と樹木だろうか。そして男のような首が横たわっている。女性が艶めかし気に裸で横たわり、その上には雲のようなものが漂っているように見える。
 私のこの横たわっている女性が恩地の作品に登場する女性像ではもっとも艶めかしく感じられた。
 廃墟となったのが都市風景だけでなく、あらゆる価値が廃墟となり、男女の関係までもがその破壊によってもたらされた貧困と飢餓の中で破壊された時代をどこかで象徴しているように受け取るのは飛躍しすぎだろうか。際限のないエロティシズムの世界に時代が移行し、その背後には死と隣り合わせの廃墟が横たわっているという暗い印象を持った。

明日から7日間予定なし

2016年02月25日 22時46分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は午後から退職者会の取材で出かけた。どういうわけか家を出るのが予定より15分も遅れ、途中で雪柳の写真を慌ただしく撮影したこともあり、結局15分ほど遅刻をしてしまった。写真撮影という依頼されたことには支障はなかったものの、会場に到着するまではかなり慌てた。
 明日から7日間は予定が入っていない。鼻水と啖がまだすっきりと切れない。まずは風邪を完全に治すために2~3日間は家でおとなしくしていようと思う。ウォーキングや大倉山の梅園などにも行きたいし、美術館にも行きたいのだが‥。
 しかし今年の風邪はどうしてこんなにも長引くのであろうか。他の方にいろいろ聞いても周辺の人はやはり長引いているらしいとのこと。私だけのことではないようだ。人並みということのようなので、少しはホッとしている。

 もっとも新聞の原稿作り、本日の写真の整理‥自宅でこなすべきことはそれなりにある。