Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブログへの訪問、ありがとうございました

2018年12月31日 23時15分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

1年間、このブログにお付き合いいただき感謝いたします。

また来年も訪れてお付き合いくださるようお願いいたします。

良いお正月をお過ごしください。

来年が皆様に取り素敵な年となりますよう、祈念いたします。



「四人組がいた。」(高村薫)

2018年12月31日 20時55分22秒 | 読書
   

 今年最後の読書は、楽しく読める本を、ということで「四人組がいた。」(高村薫、文春文庫)。これで49冊目。
 過疎も過疎、さらに市町村合併後も過疎化の止まらない旧村の元村長・元助役・元郵便局長・キクエ小母さんの4人の奏でる哀愁たっぷりのユーモア。なかなか辛辣な風刺が効いている。

 入院中に詠んだ本で浅田次郎の「月下の恋人」(光文社文庫)を含めてこれで50冊となった。昨年より4冊減。もう少し読みたかったが‥。

大晦日

2018年12月31日 20時21分59秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は大晦日。2月に風邪とインフルエンザで体調を崩し、7月末から変調をきたし9月に門脈血栓という病気が見つかり3週間の入院と自宅療養、投薬が今も続いている。今年は約6カ月間も体調不良だったことになる。来年は回復の年としたいものである。

★父祖の地に闇のしづまる大晦日     飯田蛇笏
★おをあをと年超す北のうしおかな    飯田龍太
★除夜の鐘白鳥のごと湯あみをり     森 澄雄

「星ナビ2月号」

2018年12月31日 12時33分08秒 | 読書


 久しぶりに「星ナビ」に目をとおした。今年の6月号、7月号以来である。来年の2月号、店頭には1月5日に並ぶらしい。定期購読者にはもう送られてきた。
 一応全ページ目をとおしたが、いちばん興味深く読んだのは「星の都の物語19ドイツ・イエナ『プラネタリウムが生まれた街」。

 イエナは、世界で初めてプラネタリウムを作成したカールツァイス社創業の地である。「カールツァイスⅠ型」がここで作られ、ミュンヘンのドイツ博物館に送られ投影が開始されたのが、1923年10月。その一カ月後にヒトラーの「ミュンヘン一揆」が起こされた。
 筆者の中山満仁氏は「ヒトラーは、果たしてミュンヘンでプラネタリウムを観たであったのだろうか?もしもヒトラーが地元のドイツ博物館に「昼間の星空」を観に出かけたていたとしたら--後にフォン・ブラウンに宇宙ロケットではなく報復兵器としてV2の開発を命じた男の目には、プラネタリウムの星空はどのように映っていたのであろうか。」と記している。

 筆者の疑問というか問いは、心惹かれる。だが人は自分と同じように星を見る、と思ってしまう。そうでありたい。だが、答えは多分限りなく0(ゼロ)に近い確率しかない。そしてもしも観たならもっとこの技術を兵器に応用することを思い立った、としか思えない。極めて残念ながら‥。
 カールツァイス社はまた第二次世界大戦後も冷戦下、東西ドイツに分割され、東西ドイツ統一に伴い再統合される。戦争と政治に翻弄された会社である。

 最後に、私が中学・高校の時に幾度も通った五島プラネタリウムは、西ドイツのカールツァイス社製の「カールツァイスⅣ型」であったことを思い出させてくれた。

「白隠禅画をよむ」読了

2018年12月30日 23時36分13秒 | 読書




 「白隠禅画をよむ 面白うてやがて身にしむその深さ」(芳澤勝弘、ウェッジ)読了。とても刺激的で面白かったが、如何せん禅画である。禅の知識だけでなく、当時の習俗、風俗がなかなか文章を読んでも分からない。これは手ごわい。

 「白隠禅画を単なる古美術にしてはなりません。語録・法語などの白隠著作だけでなく、もし、民俗、芸能、美術、政治史などの視点からも、その特徴を解明することが必要です。そして、この禅画に込められたメッセージを再検証せねばなりません。そこには、火の出るような宗教家の情熱、つまり菩提心があり、三百年の時を超えて蘇ってくるはずです。白隠はいつ噴火するかわからない火山のようなものです。その秘められたメッセージを探り当てれば、そこに膨大なエネルギーが解放されます。しかし単に古美術品扱いしているならば、そのエネルギーは現代に蘇ってはきません。白隠の禅は「上求菩薩、下化衆生」という実践的テーマに集約されますが、それはいわば永遠の未完成です。‥」

 白隠の絵画作品にかかれた「賛」を追っても理解が私には難しい。以前、八甲田の温泉地で登山の途中に悪天候とケガで1泊したおり、道元の書を講談社学術文庫で読んだ。むろん現代語訳付でなければ読み進められなかったが、一冊全部なんとか読み終わるとそれなりに何かわかったような気分にはなった。
 しかし白隠の作品と「賛」をこの書の解説を読んでも「わかったような気分」にはなれなかった。解説が分かりにくいのではない。作品と「賛」そのものがわかりにくい。
 だが、絵画作品としてはどこかやはり惹きつけられる。これは見るたびに解説を読んで各棟を続けるしかないようだ。それがわかっただけで取りあえず満足しておこう。

ブラームス「ヴァイオリンソナタ」 続

2018年12月30日 20時36分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 夕食後もブラームスのヴァイオリンソナタを聴いている。ただし演奏はヴァイオリンが徳永二男、ピアノは伊藤恵という組み合わせ。録音が1996年。
 テンポはさらにゆっくり。じっくりと聴きたい人向けである。私はこのCDをよく聴く。
 特に「雨の歌」の名がついている第1番は、このテンポがいいように思っている。「雨の歌」の名は第3楽章の冒頭がブラームスの歌曲「雨の歌」に由来することからつけられているが、第1楽章から「雨」のイメージがついて回る。「夜の雨」だと昔から固く信じている。
 本日はこの曲を聴いたので、寝付きは良くなるだろうか。


ブラームス「ヴァイオリンソナタ」

2018年12月30日 11時04分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ヴァイオリンはローラ・ボベスコ、ピアノはジャック・ジャンティ。1980年の録音。ボベスコ60歳の時の演奏である。私には一つ一つの音の余韻が長く感じられ、それが艶やかな音と云われるのだろうか。タップリきかせる旋律と、細かいパッセージの転換が早いというブラームスの楽曲の特徴をスムーズに聴かせてくれる。
 少し遅めのテンポもまた私の好みである。

 ブラームスのヴァイオリンソナタは、わたしが最初に聴いたのは第1番で、それ以来すっかり虜になってしまった。以来私にとっては3曲のソナタの中では一番好みになってしまった。
 ブラームス45歳を過ぎた1978年に着手して翌年に完成である。オーストリア南部の自然豊かな保養地で作られた、と解説には記されている。
 第2番と第3番も1886年、53歳の時から翌々年にかけてにスイスの景勝地で作られている。第1番に比べて音域に厚みと明るさのある世界である。
 第1番から第3番までいづれもが自然豊かな景勝地で過ごしているときの作品である。ブラームスにとっては自然は大きな作用をもたらすものなのであろう。
 ブラームスのヴァイオリン曲は、和音の響きがとくに重要だと思っている。安心してその音を楽しめるのも魅力に思えた。

 自然の感受は何も日本だけの特質ではない。人間にとっての本質的なものである。その「本質的なもの」といった時の定義や内容や作用は、地域、習俗などの観念、個人の感受の仕方によって無限のバリエーションが横たわっている。それが「美」のある側面から見た定義でもある。人間は自然だけでなく、自ら作り上げた観念の世界もまた第二の自然として「美」の対象とする。

なかなか難しい「白隠禅画」の世界

2018年12月29日 23時18分28秒 | 読書
 「白隠禅画をよむ 面白うてやがて身にしむその深さ」(芳澤勝弘)はなかなか読みでがある。6割ほど読んだが、どれだけ理解したか心もとない。もともと禅画、禅宗の教化のための絵である。また白隠は1685~1768年にかけての禅僧である。時代も江戸前期である。当時のはやりや社会的に流通していた習俗なともだいぶわからなくなっている。
 解説でも「わからない」ということも記されている。そういった意味では、強引で牽強付会・奇想天外なわかったような理解や解説よりはずっと勉強になる。

 白隠の絵の展覧会は二度ほど見に行った。残念ながら絵の力はわかるような気がするのだが、賛が読めない。禅画の場合、作品を理解するには致命的な欠点である。解説などに現代かなで文字が記されているものの、意味も分からないものもある。解説者がわからないものも多々あるようで、そこで強引な珍説もあるようだ。
 もうひとつ私がわからなかったのは、奔走な描き方をしたような太い輪郭線と繊細な細い輪郭線が混在している作品が多いということであった。
 今回のこの本では「文字絵」という範疇のものがあることを教わった。それによると太い輪郭線の作品の一部はその範疇の作品であることがわかった。全部が全部とはいかなくとも、多少の理解の助けにはなりそうである。

 しかしなかなか手ごわい。この書物も果たしてどのくらい理解して読み終わることが出来るか、はなはだ心もとない。


年末のいつもの風景

2018年12月29日 20時57分09秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 現役で働いている時代から12月29日は正月用の食料品の買出しに付き合う日と決まっていた。28日の「仕事納め」「御用納め」のお酒が抜けた昼過ぎに、リュックを背負って数件のスーパーをハシゴする。自動車のない我が家では、私のリュックも存在価値がある。丘の上の段地なので自転車も重くなるとつらい。

★冬の風人生誤算なからんや       飯田蛇笏

1954(S29)年、蛇笏69歳の句、「家郷の霧」所収。この句の前に「墓参する篤きおもひに寒ゆるぶ」の句がある。墓参をとおして内省的になったのだろう。亡き血縁の人との会話を通じて、自らを見つめている。たぶん戦死した長男・三男、若くして亡くなった次男との会話なのかもしれない。長男は10年前に激戦の地ルソン島で戦死している。

★闇市のありしところに年の市      飯田あさ江
★その前をきれいに掃いて飾売る     山口青邨


 ともにもう無くなってしまった風景である。戦後の混乱の跡も、正月飾りに霊力があるかのような振る舞いも、損失してしまっている。そのような時の流れに私自身も大きく関与していた。

「図書1月号」

2018年12月29日 12時36分57秒 | 読書


 「図書1月号」(岩波書店)より。いつものとおり覚書として。

☆セザンヌの生家             司 修
「まだ十代の終りごろの出来事が、そのまま夢となるのです。八十歳になっても。‥一か所のみ、これは「セザンヌの生家だ」。これからドラマがはじまる、という時に、目覚ました。」

 この文章の個所で、どこかホッとした。私は夢をほとんど記憶しないが、ふだんいろいろと思いを巡らせるときに必ず十代後半のころからの自分が出てくる。あるいはさまざまな判断の基礎にそのころからの思いなどがどこかに横たわっていることに気がつく。そんな自分が「思い出にすがっている人生なのか」と不安になる。しかし多くの人がこのような体験をしていると知ると、人間とはそういうものだ、と合点できる。またそれで安堵する自分がいる。

☆畸人鵬薺               沓掛義彦
 「鵬薺先生を酒伴として酒を酌みつつ思うに、近年の日本人の劣化はひどすぎる。正解、寛解は言うもおろか、産業界から、スポーツの世界に至るまで大ウソが堂々まかり通り、モラルは地に墜ち‥。かく言う拙老もそういう日本人の一人であって、江戸時代に生きていたら「腐儒」と呼ばれた人種に属することは間違いない。」

 大酒で憂さを晴らす選択は私にはない。どうもこの御仁は大酒を飲みうそぶくことが何かの価値であるかのように錯覚されているとしか思えない。一仕事、一行動ののちにお酒もひとつの癒し・語りの縁として飲むべし、語るべしと思うのだが。酒に飲まれてはいけない。

☆「伊丹十三選集」刊行に寄せて      磯田道史
 「『孝明天皇紀』は恐るべき公開度の高さだから、孝明天皇が痔に悩まされていたことを包み隠さず、情報公開している。現代では『大正天皇実録』などが公開されても、天皇・皇族の病気にかかわる部分は、宮内庁の方針か、非公表にされることが多く、黒塗りされていて公開されない。」
 「縄文人の足が恐ろしく達者で、一日に五、六十キロ、東京鎌倉ぐらいを楽に往復していた、とは、教室の誰からも聞きだせなかった。やはり、伊丹さんの好奇心が的を得たところに向っており、聞き手として非凡なのであろう。‥伊丹さんは、研究者も知らないような歴史情報を独自に動いて入手しておられた。‥」


☆潜伏キリシタンと世界遺産        西出勇志
 「安倍晋三首相は「世界の宝を大切に守り、魅力を世界へ発信する決意を新たにしたい」との談話を発表した。だが、もともとは為政者による弾圧あってこその潜伏であり、堰史的事実の多くは凄惨な悲劇に彩られている。‥内心に踏み込んでくる為政者の暴力性を教訓として胸に刻みたい。幕末の維新期のキリシタン弾圧「浦上四番崩れ」は遠い昔ではない。思想・良心の自由、信教の自由を考える上でこの教訓も宝である。」
 「終焉の大浦天主堂での主役は浦上の農民である。彼らが絵踏を強いられた庄屋屋敷は信仰と世俗権力がクロスした場であり、内心に踏み込んでくる為政者の行為に応じざるを得なかった先人たちの悲しみが凝縮している。潜伏キリシタンの名前を冠した世界遺産の中に浦上がないのはどうにも割り切れない気分が残る。世界遺産の物語の後に「浦上四番崩れ」があり、キリシタンを狭所へ押し込んで多数の死者を足した五島列島・久賀島の「牢屋の窄」を含む「五島崩れ」の弾圧があった。世界遺産登録の脚光と祝福の影で、負の歴史がこぼれ落ちないように教区を改めて胸に刻みたい。」


☆熊さん八つぁん             武田雅哉
 「2013年、オバマ大刀利用と並んだ、すがた・かたちが、ディズニーのアニメでだれもが知るところとなった「くまのプーさん」に似ていると評判になって以来、中国当局は、インターネット上においてこの図像を検閲したばかりか、釜山の実写映画についても国内での上映を拒否したというのである。明王朝の皇帝が、みずからの命運を豚に重ね合わせた結果、かえって豚を抹殺しかけた事件から五百年を経て、国家のトップとの類似性を理由として、こんどは異国のくまさんが抹殺されようとしている‥。政治の大国でも、動物たちも、なかなかしんどいのである。」

 いやいや日本でも同様のことが間もなく起きる予感が私にはしている。

☆モダン語の時代             山室信一
 「世界的動向を吸収するモダン語こそ日本語の国際化に繋がると説く推奨論と、雑駁で浮薄なモダン語こそ日本語の乱れをもたらす現況だと主張する排斥論が対立する。‥モダン語排斥の声は、軍靴の音ともに高まる。英米語などのカタカナ語は「敵性語」として駆逐され、モダン語は自粛を強いられていく‥。」
 「既に彼方に去ったモダン語の地平に歩み寄り、そこから改めて現在を見返す時空を往還する旅路へ、いま旅立つ。」


 確かに「国家」がことばに介入するのはことばの弾力を失わせ、個人の内面や思想に介入する。ことばは、日本語はそんなに柔な言語ではない。だが、一方で現在のビジネス用語の安直な氾濫(すでに原語の意味すら捻じ曲げている)や、政治家のことばの劣化は目を覆うばかりである。ことばへの信頼が薄れつつあり、「敵性語」ならぬ「意味不明外来語」への規制を歓迎することに多くの人が同意しかねない時代がまた起きつつある。
 世代間のことばのギャップは昔も今もある。だが、貧富の格差拡大とともに、階層によることばの違いも拡大していないか。150年以前のように政治家・上級官僚が家業となってしまった戦後日本である。

☆泣かない読書 -灰谷健次郎「兎の眼」 柳 広司
 この本は1974(S49)年の出版。無名の新人作家の灰谷健次郎をベストセラー作家にした。
 「「効果があればやる、効果が無ければやらないという考え方は合理主義といえるでしょうが、これを人間の生き方にあてはめるのはまちがいです。この子どもたちは、ここでの毎日毎日が人生なのです」。作中で引用される障害児の面倒を長く見てきたドイツの修道女の言葉は、経済合理性ばかりが追求される今日の日本社会を正面から撃ち抜く。国会議員が人間を「生産性」の物差しで計る意見を文章で発表し、そのことに一切責任を取らずに済まされるこの国の行き着く先は、2016年に相模原で起きた障害者大量殺人さえ肯定する社会であろう。“弱い、力のない者を疎外したら、疎外した者が人間としてだめになる”」
 「大人がやるべきは「悲惨すぎる」戦争を閲覧制限や記載削除で隠蔽することではなく、「悲惨すぎる」戦争そのものを無くする努力をすることであろう。」


☆秋野不矩さん(大きな字で書くこと)  加藤典洋
 「(秋野さんが)亡くなったのは、2001年の10月11日。‥バーミアンの大仏がタリバンによって爆破されたのは、2001年の3月のこと。もし秋野さんがバーミアンを訪れたら、その穴を描いただろう。」

☆野見宿祢の墓         三浦佑之
 「もし播磨国の立野に作られた墓がヒトデのような四隅突出型か方墳であったなら、ノミノスクネの墓である可能性は大きいと思うのだが、さて」

伸し餅

2018年12月28日 22時17分55秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日、お店にたのんでいた伸し餅1枚が出来上がった。さっそく小さく切って保管。夕食はお米は炊かずに、この餅を私は3切れも食べてしまった。まだ柔らかいので私はそのまま少しだけ醤油をかけて海苔を巻いた。妻は焼いた方が好きとのことで軽く炙ってやはり醤油を垂らして食べていた。
 餅だとつい食べ過ぎてしまい、あとでお腹が膨らんで苦しくなる。

★代々住みて隣保親しき餅の音       飯田蛇笏

 昨日見つけた飯田蛇笏集成を見て餅つきの句を探したら一句だけあった。飯田蛇笏(1885-1962)は高浜虚子に師事、ホトトギス隆盛期の代表的作家。山梨に在住し、「雲母」主宰。
 この句は、1950(S25)年の句を収める第七句集「雪峡」に掲載されている。この句のすぐ後ろには「この日鵬生戦死の思ひ出」との詞書で「日のみくら機影のわたる冬至かな」の句がある。「鵬生」は1944年にレイテ島にて戦死した長男聡一郎。次男数馬を早くに亡くし、三男も「外蒙古」で抑留され亡くなっている。俳人飯田龍太は四男。
 この頃まだまだ二人の子どもを亡くした思いが生々しく切実な句となっており、胸打たれる。


部屋の大掃除

2018年12月28日 20時41分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 部屋の片づけは15時半までかかってしまった。どうしても本棚に入りきらない書類があり、やむなく退職後に訪れた旅行の記録のファイルは廃棄することにした。また受講した講座の一部の資料も廃棄。

 美術館・博物館、読書関係の書類、受講した講座の大半の資料、退職者会関係の資料はそのまま保管。いづれ保管場所を他に移し替えなくてはいけないが、取りあえずはそのまま。
 これで増えた資料や美術展の図録なども収納できた。

 一応片付いて16時に家を出て、横浜駅までコーヒータイムと称して「逃亡」。妻に言わせるとまだまだ片付けがなっていない、甘い、とのことであるが、疲れてこれ以上は無理。



 団地の近くの学校の花壇のユキヤナギはまだ咲いていた。先日は古いデジカメでピンボケ、今回はスマホでもピンボケ、かろうじてこの1枚比較的よく撮れていた。咲いている花はもう少し多かったが、花の点き方は散漫なので撮影は難しい。
 帰宅時は風が強まり、冷たい風に頭を下に震えながら歩いてきた。夜のウォーキングが思いやられる。


 【追加】実は、片付けている最中に高いところから重い本が3冊ほど落下、床に落ちる前にキーボードの上でバウンドした。そのためにテンキーボードの「1」がおかしくなってしまった。いったん押すと元に戻らず沈んだまま。その間にも「1」が押し続けられてしまう。これはキーボードを買い直さないといけない事態になったかもしれない。


飯田蛇笏集成

2018年12月28日 13時36分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日がゴミ回収の最終日ということで、前々から部屋の片づけを本日までに完了することを申し渡されていた。一昨日に再確認され、本日まで引き伸ばしてきた。
 朝から取りあえず机の上にある書類やチラシ類を整理。大半は紙ごみとしてまとめた。あとは本の整理その他が残っている。ノンビリ読書タイムとしたかったのだが、本日は夕方までこの片付け作業に追われる。なんといっても本棚に収まり切れない本、収納するためには捨てる本を選ばないといけない。これに時間はまだかかる。

 どこの棚を整理するか、どの本を捨てるか、考えるのが面倒でもあり、どこか楽しみでもあり、複雑な気分。

 居間にある本棚を前に多少途方に暮れていたら、扉のある棚の奥に飯田蛇笏集成全7巻を見つけた。1994年に第1巻が刊行されている。今から24年前に購入している。なぜ購入したのかも不明。ただ昔から飯田蛇笏はとても気になる俳人であった。1冊が3パーセントの税込みで4600円。いくら何でも本棚の奥にしまいこんでいるのはもったいない。
 俳句は第1巻から第3巻まで。来年一年手元において読みたい。

★雪山をゆく日とどまるすべもなし    飯田蛇笏


枯山

2018年12月27日 23時21分01秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日いつもの1000円の理髪店に行ってきた。まずは18人以上も並んでいるのにはびっくり。皆年内に髪を整えようとしているのだろう。また冬休みになったのだろう、中高生と思われる人も並んでいた。外の椅子で待つよりはしばらく様子を見ようと、本日2軒目の220円の喫茶店へ。ここでも読書タイム。1時間半ほど時間をつぶした。
 横浜駅の地下街は正月用品の買い物であろうか、買い物客でかなりの混雑。書店も人が多かった。書店を一回りして再び理髪店に行くと並んでいるのは10人に満たなかったので助かった。いつものとおり5分ほどで終了。残念ながら2月から1100円へ100円値上げとのこと。
 周囲は1ミリのバリカンで刈上げ、天辺は長いところで4センチほどにしてもらった。先月よりも頭がつめたく感じる。ただし洗髪も楽だし、手入れも楽そうである。
 冬枯れの山のような頭になっている。

 昨晩に続いて、「枯山」から。
 「枯」という言葉は静寂と親和性があるが、同時にそこから聞こえてくる音は、凛とした透明感のある音から、不気味な自然の驚異を予感させる音まで、幅が広い。

★鶴啼きて枯山は枯深めけり    古賀まり子
★枯山を越えて海鳴り早う寝む   八木澤清子
★枯山にはるかひとつの葬を見る  飯田蛇笏



読み始めた本は「白隠禅画をよむ」(芳澤勝弘)

2018年12月27日 21時27分51秒 | 読書


 本日出かけるときにリュックに詰めた本は、図書館に返却する「観察力を磨く名画読解」と、本棚からひっぱり出した「白隠禅画をよむ -面白うてやがて身にしむその深さ」(芳澤勝弘、(株)ウェッジ)。
 2012年の刊行であるが、多分古書店で100円か200円で購入したような記憶があるが、定かではない。1400円+税となっているので、定価で購入すれば1470円だろうか。ページはすっかり茶色に変色してしまっている。

 絵画を読み解く、という点では「観察力を磨く名画読解」よりも読み易い。むろん読み解く対象の絵画作品が重なり合わないが、前者はセミナー形式で、しかもテロ対策の護身のためのハウツーものである。絵画とテロ対策、要するに観察力と分析力の養成のための教科書。
 「読み解く」ことが日常生活での異変に対処する注意力の涵養になるかという「効能書き」が随所にちりばめられていて、読み始めたことを後悔する。「読み解く」ということを学ぶためという意志がないとつらいところもある。

 喫茶店で読み始めた。叙述は読み解くための解説に絞っているので、「感の持てる本であるし、白隠の作品が良くわからない私にはよい入門書である。もっと早く読む機会を持てばよかったと反省中。こちらは私のおすすめ本ということにしよう。