引続き覚書として‥。今月号は全部で15編のうち、10編に目をとおした。
・鈴木大拙と山崎弁英 末木文美士
「近代の宗教は、アカデミズムを通して欧米の学術を学ぶのとは、少し違うところにそのエネルギーの源泉を持っていた。それ故、学術的な枠組みを逸脱して、一見奇妙な議論を示すところもあるが、逆に決まった枠組の中では封印されてしまう自由な発想が生き生きと展開される可能性ももっている。日蓮主義の田中智学にしても、大本教の出口王仁三郎にしても、同じように在野の宗教者であり、常識を超えた理論を展開している。そこには、すべてを圧殺する国家体制さえも超え出る強靭さがうかがえる。」
・性食の詩学のために 赤坂憲雄
「詩学などという文学寄りの言葉を選んでいるのは、ある革新のゆえだ。食べること/交わること/殺すこと、をめぐっての知の交歓こそが、『性食考』のめざしたことであった。わたしはそれを、学問の装いを凝らして表現することへの欲望が、まったく欠落している。むろん、そのことには気づいていた。だから、『性食考』はおのずとエッセイ的であるほかなかった。‥エッセイという表現様式の可能性に賭けてみたい、という思いもある。なぜ、詩学なのか。ひれはわたしにとって、たとえばイマジネーションの物質化のための試みである。‥花、土、洞窟、穴、胎児、犬、口唇などの言葉がさだめなく浮遊しており、イマジネーションの受肉を待って、一章ずつ言葉の織物として紡いでゆくことになるだろう。」
ちょっと理解は難しい文章であるが、今後の連載を楽しみにしてみようと思う。
・一一月、紅葉に深まりゆく秋 円満宇二郎
・風仕事 辰巳芳子
「干物はどこかしみじみとした人間味がありますね。朝から取り掛かった風仕事ですが、そろそろ日も落ちかかってきました。ここ鎌倉の谷戸は、夕焼けの美しいところ。風の音に耳を欹(そばだ)てつつ、千変する西の空の色を眺めております。もはやもの思うこともなく、ただ呆然と美に圧倒される他はありません。恩師・岡麓先生のお歌が思い出されます。
西山にうすれて残る夕映えは/ここには遠き光なりけり」
・大きな字で書くこと 久保卓也 加藤典洋
「リベラルというのは、こういう人をいうのだろう。こうした「対岸」に立つ人の考えを受けとめる力が、かくいう私を含め護憲論には欠けていた。」
・単純と複雑 齋藤亜矢
「意味ではない部分、それも自然からぎゅっと凝縮されたエッセンスが抽出されていると感じるのが、熊谷守一だ。ネコ、アリ、石ころ、雨粒、晩年の作品ほど、より単純化された線や形で、色もベタっとぬりこめてある。‥一見単純な形や色に表現されているのは、むしろ自然の多様さや複雑さの方だ。とことん「視る」ことではじめて見える世界を、作品をとおして垣間みせてくれる」
「文章を過程では。ぼんやりした考えを言葉に抽出している感じもある。‥意味の外にある面白いものを抽出できるように、複雑な自然を複雑なまま「視る」目を養っておきたい。
・クスノキと舟 三浦佑之
「(日本書紀や九州風土記に対して)出雲国風土記の「楠」はタブノキと見るのが正しいということになる。そして、出雲国風土記では沿岸部の郡にのみ出てくるのだが、たしかに今もこの木は、日本海側の海岸線に沿って、日本列島のずっと北のほうまで群落を作って神社の杜などを形成している。そこからみると、出雲国風土記の植生記録はかなり正確だといえそうだ。」