Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

無事成田空港に到着

2013年09月30日 10時37分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
無事成田空港に帰着。
留守にもかかわらずのぞいてくれた方ありがとうございます。殊に通りがかり人様、芦原の山姥様、大納言様、RW様には、ご心配をおかけしました。コメントに返事もせずに失礼しました。
通信状態も安定せず時々画面が固まってしまったり、勝手に送信になったり、戻ってしまうなどの現象が頻発。また料金も心配でした。よって、更新・コメントへの返信を控えました。
さらにこのgooのブログの一方的な有料化という移行措置に伴う手続き上のトラブルがあり、その対応がありました。
他のブログに鞍替えする事も考えましたが、慣れた操作に未練もあり、写真などの情報を捨てるのも勿体ないので、継続の手続きを選択しました。
料金の上乗せ措置のため、郵送で身分を証明するものを送付しろなど、腹立たしいことを要求される始末。10月1日の切替日間に合わないのが目に見えているのに、とイライラがつのっています。通信状況がままならない中、ストレスがたまっています。
これから後期の講座も始まり、同窓会の報告の印刷発送もあり、という状況で、ブログの停止も心配しなくてはいけない場面が出来してしまいました。
まあこんな状況をご理解いただきご容赦をお願いします。


ヴェネツィアにて

2013年09月28日 05時28分56秒 | 山行・旅行・散策
ヴェネツィアで、サン・マルコ大聖堂、ドゥカーレ宮殿、ガラス工房、コッレール美術館、ヴィヴァルディ博物館、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会、アカデミア美術館を訪れ、夜の自由行動で、ヴェネツィアガラスを購入。
夕食は、蛸のトマトソース煮込み、スズキのソテーの野菜添えとロゼワイン。この2種はおいしかった。さすが本場の味に脱帽。おいしかった。


出発

2013年09月23日 13時02分36秒 | 山行・旅行・散策
間もなく搭乗。13時間も乗る。これが今回の旅行の最大の難関。こんなに長時間座りっぱなしは病気の時を除いて18歳以降は記憶にない。
帰りも同じような時間かかる。
足の血液の循環を活発に保つ運動をいろいろしなくてはならない。
ローマ着は向こうの時間で19時の予定。

いやな思い出

2013年09月22日 23時59分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日災害時の私の職場の体験をながながと綴ってみた。いい思いでの部分を綴ったのだが、本当はいやな体験こそが大切なのだと思っている。もう30年以上も前の話であるから、時効でもあろう。この当時のいやな思い出は既に現在の職場では改善されていて、その様なことは皆無だと信じている。少なくとも昨年3月に私が退職する頃にはそのような訴えは私のところには来ていない。

 当時まだ30歳を過ぎたばかりの頃、若かったこともあり、組合の末端の執行委員に名を連ねていても管理職はそれほど私のことは重視をしていなかったのかもしれない。逆に生意気な若造、それも組合の主流からは排除されそうな影響力の少ない職員として、わざと否定的にあしらわれていたのかもしれない。
 やはり台風が来たとき、たまたま道路の監察の順番になり、区内の道路を運転手と共にパトロールに出かけた。途中から強烈な風に見舞われ、道路に面した工事中の建物の足場が風に煽られ倒壊し、広い歩道上をすべて塞いで、延長15メートル以上倒れているのを見つけた。看板を見て、工事会社に連絡を入れるように職場に無線連絡を入れた。しかし東京の会社でとても現場対応などできないというトンでもない対応をされたらしい。
 しかしそんなことをいっても、極めて危険である。シートは風で煽られ飛んでいきそうであり、そうなれば走行中の車も事故を起こしかねない。付近の住宅にも被害が出る。まして人がまったく通れない。付近の住民も心配そうに見守っている。
 緊急避難として道路の通行を至急確保すべきであるとして、作業班の派遣を所属の同僚に無線で連絡した。ところが1時間たっても誰も来ないし、何の連絡もない。
 二回目の催促の無線を入れたところ、やや経ってから直接の上司が無線に出た。そして現場の状況をもう一度説明させられた。どうもその係長は他の現場に出ていて初めて話を聞くらしい。説明を終ったあと「もうしばらくそこで待機しろ」という。さすがに私は声を荒げて、「どうして一時間も対応が無いのか」と聞いたが、無線にはもうだれも出ない。地元の住民からはいろいろ聞かれるが、言葉を濁すしかない。
 さらに30分たってようやく作業班と無線に出た係長が来た。係長は作業班に片付けの指示をした後、私から業者の連絡先等を再度聞きだし、自分から公衆電話でその業者に電話をして、「今日こられないなら、始末書持参で明日一番で事務所と警察に経過報告に来い」と怒鳴っている。
 これが最低限の係長の対応であるが、どうも私にはぎくしゃくとして面と向って話をしない。不思議に思って作業をしている同僚の作業班に聞いたが要領を得ない。
 1時間ほどして緊急の片づけを行い、地元住民に作業の遅れたことを私が謝りに回り、業者指導を徹底することを伝えて、職場に戻った。
 職場に戻って同僚にいろいろ聞くてまわって、ようやく事態を飲み込むことができた。
 私が現場を発見して緊急で無線を入れた時、副所長が待ったをかけたという。台風が収まるまで冠水やがけ崩れが起きたらそちらを優先しなくてはいけないから、作業班を出すわけにはいかない。作業班は引続き事務所で待機」という指示だけを出したらしい。同僚が「では現場にいるパトカーは?」と聞いてもだんまりを続けたという。
 一時間後に係長が戻ってきて、私の無線を取り、副所長にもう一度話をしたが同じことを副所長が主張したとのこと。係長は私を現場にそのまま待機させるわけには行かないと判断し(当然である)、副所長には無断で作業班と共に現場に来たということがわかった。係長も副所長の対応に憮然としているようだった。
 私はさすがに怒った。副所長の机を叩いて、「緊急事態だということがどうして理解できないのか、しかも部下を現場にそのまま放置するとは何事か、部下を台風と地元の人の不安の中に放置するのが管理職の仕事なのか、道路法上も緊急対応は違法ではないないのではないか、違法であってもこの事態に対応しないことのほうが問題である」と何度も同じことを怒鳴った。しかし無言であった。
 15分ほど、怒鳴り続けたが何もいわない。所長まで黙って遠くの所長室の前で見ているだけである。副所長の机を蹴飛ばしかねない勢いで「ふざけるな」と私がどなったとろで係長が私のところに寄ってきた。肩を抱いて「もう止せ」と宥めてきた。とりあえずそこで私は一端は引き下がった。

 退庁時間までに台風は峠を越え、さいわいに他に被害も軽微なものだけで済んだ。そのまま仕事は終了となり私は怒ったまま誰とも口をきかずに家に帰った。しかし怒りはおさまらない。翌朝、再度副所長にどういうことなのか、メモに問題点を整理して問いただそうとしたが、所長も副所長も2日間休暇をとって休んでいる。他の係長は台風の後始末で大忙しである。
 机をたたいて怒鳴ったことはその後もまったく問題にもなっていない。しかし私もこんなに怒るとは、今から思うと血の気が多かったと思う。あの若さが今となっては懐かしい。
 そのときの係長は、私をなだめるだけで、それ以上のことはしなかった。しかしあとで聞いた話では、係長会で随分とこの副所長の批判というか愚痴を繰り返していたらしい。私への批判は口にはしなかったとのことである。

 組合の執行委員会の時、この事態を報告した。しかし執行委員会の主流派(今はいわゆる全労連派として純化している)はこのことに乗り気でない。私は「作業班をまずキチンと災害時に位置づけるようにしなければ作業班の存在が否定されかねない。また現場に職員を置き去りにするような管理職をキチンと指導するよう当局に要求しないと、職員は安心して働くことはできないし、責任が末端職員に背負わされる」と主張したが話がかみ合わないまま終始した。どうも私が提起しているからそれが気に入らないらしく、最初から否定的なのである。党派的思考のいやらしさをいやというほど味わった。
 私の提起をまともに聞いてくれたのは、作業班出身の執行委員の一人と私と共に主流派ではない2人の仲間だけであった。問題意識は共通であることを確認し、以降このことを中心に仲間を増やしながらさまざまな運動を繰り広げてきた。
 私は、このような課題は労働組合の重要な課題であると認識した。私たちが別の労働組合として自立したとき、この問題に共通の問題意識を持ってくれていた仲間が新しい組合に参加してくれたことはうれしかった。

 先に私が机をたたいて怒った副所長については、当局との直近の交渉の終了後に「こんな非常識な管理職をどうにかしろ」と捨て台詞を吐いて会場を後にした程度で、後はこのことを話の話題にしながら職場の仲間集めに利用させてもらった。ただし翌4月には異動でいなくなった。それは私の怒りを当局が認めたのかどうかはわからない。副所長に何もいえない情けない所長とはさらに1年付き合わざるを得なかったのは残念であった。

 災害対策については、労働組合再建後私たちの組合の最も重要な要求の柱に災害対策の充実を掲げてきた。作業班の位置づけについては従前の組合でやっとのことで要求の柱にしてきたが、再建後それを軸に要求を私たちの言葉で再度体系化することができた。
 当局側も時代の流れに沿って当局なりに災害対応を重要視するようになった。組合に「なさけない災害対応」と宣伝されるのも嫌であったろうし、当時の高秀市長の方針でもあった。これは阪神淡路の震災支援で横浜市の対応が早く的確であったとの評判につながったといわれる。この時も組合員が行政支援、労働組合としての支援のいつも最先頭に立っていた。これは組合を再建したときの、少数派組合であったが、支部立ち上げの先頭に立った私たちの誇りでもある。高秀元市長の評価はいろいろあるが、災害時でも常に市政の最先頭に立とうとしていたことは評価できるのではないか。

 橋下大阪市長のツイッター事件で思い出したこのいやな事件。大阪市長の対応を聞いて、このひどい副所長と情けない所長とを真っ先に思い出した。橋下という男、何事かが起きれば、真っ先に部下の所為にして自分は責任を取らずに逃げる人格と思える。責任を取りたくないから災害対策本部に身を置かないとしか思えない。あるいは現場に行って役に立たないことを知っているから、その勉強をしようとしないから現場に行かないのである。
 災害時には部所ごとに責任者が的確な判断をしない限り、被害や事件の速やかな対応はなかなかできないものであることを教えてくれた。担当者だけの判断ではいけない。管理職が的確に情報を判断して組織として対応することが常に求められる。上層部になればなるほど応用力とより幅広い視点からの判断が現場で求められる。市長は最終的な判断者だから、そう常に判断を求められる場面は少ないが、それでもいつそれを求められるかわからないのである。
 本当は災害対策本部に身を置き続けることで、副市長以下の動きから自分の動きや判断を身につけなければならないはずである。何事も現場に身を置いて自分の存在感を示さなければ、それこそ「役人」の言いなりにならざるを得ないのである。「官僚批判」をする前に、官僚にまけない判断力を政治家は身につけてもらわないと困る。それは災害時だけではない。自治体は金融市場の動向にも敏感に財政運用をしなくてはいけない時代だ。そのような場面も含めて自治体の首長は、自治体の行政の最前線に常に立っていなくてはならないのではないか。

最後の出発準備

2013年09月22日 12時12分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日から30日までイタリアへ旅行予定。妻とそれぞれに荷物をバックに詰めたり、出したりを繰り返している。
 私の場合、繰り返して詰めなおすのは入れたはずのものを、どこに入れたか頭に入っていないので幾度も確認のため、リュックからものを出し入れする。山の支度ならばいつもの場所にいつものものを入れるので、チェックリストも頭に入っているし、そんなにあわただしく幾度も確認しなくてもいい。
 だが、この種の旅行は慣れていない。幾度も出し入れをしているうちにどこに何を入れたか少しずつ頭の中と実際のリュックの中が一致してくる。しかも山用のリュックではないので、ポケットがビジネスバックのようにたくさんついていて、どこにしまったか忘れ易い。使い慣れれば楽なのであろうが‥。
 旅の楽しみは荷物の準備に醍醐味がある、と教わったことがある。汗をかきながらの荷物の入れ替え、私はもう疲れてしまった。

 昨夜、災害対策に携わった私のささやかな体験を記したが、もうひとつ私の関わった事例を思い出した。夜に追加で書いてみようと思う。


基本的なことがわかっていない市長

2013年09月21日 23時28分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 大阪の橋下市長が、話題になっている。あの台風18号で被害が出ているときの状況について以下のように報道されている。

橋下市長がツイートを開始したのは16日9時半すぎ。大阪市と堺市の境界を流れる大和川流域の水位が上がり避難勧告が出される中、それを告知した上で「市長が個人的にツイッターで知らせるものではありません。これは市役所として組織対応していきます」と宣言した。大和川の状況が落ち着くまで自宅待機で役所と連絡をとるといい、その間に堺市長選挙(15日告示、29日投開票)についてツイートしはじめた。
   「状況が落ち着いてから、堺市長選挙のために堺市内に入ります。ゆえにツイッ  ターで、堺市長選挙について述べます。久しぶりのツイッターだな~。以前の感覚、  忘れちゃった。徐々に取り戻します」
 ツイートは現職の竹山修身堺市長の批判からはじまり、堺市を巻き取った大阪都構想へ。ところが、台風の大阪での勢力がもっとも強いタイミングだったため、「この感覚に驚き」「いいかげんにしろ!状況考えろよ!」などと市民からは怒りのツイートが相次いだ。市長選で維新側の候補と「一騎打ち」する形になる竹山市長がさっそく氾濫した河川の視察に出ていたことがツイッターで伝えられたことなどもあって、「うち(大阪)の市長ときたら」と呆れ返る声も出た。
 こうした批判に対し、橋下市長は「同時に複数の仕事ができるくらいでないと市長などできません。危機管理はちゃんとやっています」と反論。その上で、竹山市長の視察についても持論を展開した。
   「今回は大きな被害が出ていない。大和川の堤防の状況を見るには、専門的な知  識が必要。ゆえにまずは土木担当の副市長が視察に行き、必要な現場指揮をしなが  ら、現場の状況や、問題点、そして判断を求める事項等を市長に報告。これが組織  マネジメント。今、市長が堤防を見るのは何の目的??」「必要性の乏しいトップ  現場視察は現場を混乱させるだけ」

 このような報道を読んで、この報道の内容が正しい内容であるとした上で、私の感想を述べてみる。
 「複数の仕事ができるくらいてないと市長などできません」「危機管理はちゃんとしている」「堤防の状況は専門的知識が必要」「市長が堤防を見るのは何の目的?」というのが、市長の発言・判断として書かれている。
 橋下市長は、市の災害対策本部長の仕事について基本的な理解ができていないと判断できる。災害対策本部長である市長は、ハードからソフトまですべての総責任者である。まず、災害対策本部長とは何かをキチンと市長は把握をしていないことになる。大阪市議会では、それをキチンと解明してもらいたいものである。
 災害時、それぞれの担当部局の長が責任者となって具体的な対策をたてるわけだから、大都市ともなれば「頓珍漢な市長」がいても一定の対応が取れるだけの組織とはなっている。しかし市民の生命と財産を守る責任者として常に第一線で「おれが責任を取るから思う存分今までの組織力を発揮して欲しい」というのがトップの行動の仕方である。後方から指示をして他のことをしているということのいいわけにはどうしてもならない。
 中心部を流れて氾濫しそうになり、30万人という大阪の人口の一割に避難勧告が出ている状況というのは、トップクラスの災害である。そこに全力投球しない市長=災害対策本部長というのは誰が考えてもあり得ない。
 また堤防が決壊ないし溢れるということは、災害対策上は河川管理者としてのハードの判断の他に、ソフト面での避難対策が必要であり、全部局を挙げた対応が必要になる。おそらく河川管理者は大阪市ではなく、府であると思われるが、そことの密でスムーズな連絡が必要であり、一瞬の齟齬が被害を拡大することもある。そんな大事な場面に市長が、家に籠もっているのは職務放棄に等しい。河川管理者との調整をするのに、また市の各部局間の調整が必要な時にトップが不在で済むならもともと市長など必要ない話である。
 トップが率先しないでも何万人もの職員がスムーズに動く。それは大阪の職員が全体として優秀だからということであり、日ごろの市長の職員批判とは相容れない。都合のいいところだけ持ち上げて、都合が悪いと職員の所為にする。なんともひどい話である。それでもあの災害対策が効を奏したのは、市長の力量よりはるかにすぐれた市の職員と市民の対応が的確であったことを素直に認めるべきであろう。
 市長が海外出張などの時は、わざわざその期間は「市長職務代理者」を規定に従って決める。それは市長不在のとき「市長に代わって市民の生命財産をまもるために」第一線で働く人間が必要だからである。海外出張でもないときに、大きな災害が身近に迫っているのに災害対策本部長が職務につかないのならば、当然「職務代理者」を決めなければならない。それは市長が職務を放棄したか、心身に差し障りがあるときしか想定できない。
 もう一つ大事なことは、市の職員だけで災害対応ができるというのではないことがわかっていないということだ。河川の管理者は府あるいは国である。災害対応には消防だけでなく府の職員である警察官も第一線にたつ。学校が避難所なら府の職員である教員も対応する。自分の部下である市の職員だけが対応するのではない。当然仕事を請け負う建設会社の経営者もその下で働く社員もいる。彼らも河川の氾濫という場合、満足な休息もなかなか取れない中で、生命の危険にさらされるような第一線で働いている。
 しかも多くの消防団員や町内会の役員、ボランティアや意欲的に体を動かしてくれる多くの市民が動かなければ災害対策は実効あるものにならない。30万人という一割の市民に避難勧告が出ていて、さらに実際に氾濫したら、大混乱になる。
 昔私が現役のとき、大雪で交差点が雪で埋ったとき、付近の造園会社は全員で重機を出して雪を排除するのに一晩無償で奮闘してくれた。ある大雨で交差点が冠水したときは、町内会の役員のほか地元の有志が総出で交通整理の旗振りを買って出てくれた。
 市長がツイッターにうつつを抜かしている時、多くの市民がそのような場面に出くわし、第一線で奮闘していたはずである。お互いに身を守るために力を出し合うのである。
 しかし行政の長であり、災害対策本部長としての市長が後ろにいて力を出さないのは、政治家としての責任を果したことにはならない。
 土木の知識に関して素人としても、そこで働く人間の意欲を考えれば、堺市長が第一線に視察に行くというのは極めて大切なことでもある。現場の人間の働き甲斐にもつながる。現場の人間にとって見れば、自分のこなしている仕事が極めて意義のある業務であるとの認識をトップも判断しているから視察に来たのだ、というのは大切なことである。その意欲を引き出すことが、より対策をスムーズにする。またはそのように導くためにトップないしそれに類する人の視察は古今東西つねに行われてきた。それがトップマネジメントの基本である。
 現場の邪魔をしに来た、というようなことがいわれるとしたら、それこそ組織の体をなしていない証左である。普段から災害対策の訓練すらまともにできていないに等しい。現場の手順に影響の出ない視察ができなくて何が災害対策なのであろうか。

 大阪市では民間公募校長の不祥事が相次いでいるが、逆にこれは教育に素人の市長と公募校長が教育現場を如何に混乱させたかを物語っている。「土木に素人」と他の自治体の市長を批判する人間が、素人として教育行政を混乱させている。
 いづれもこの橋下という男、これまでの言動から判断する限り、基本的に人間としてのマナーや資質、組織を切り盛りする資質、人の上に立つ資質が欠けていると思われる。
 また大阪都構想、どう考えても今の大阪市という自治体の権限の多くが大阪府に吸い上げられてしまい、大阪市としての一体的な行政が不能になるということにどう対応するのであろうか。具体的な課題がまったくないがしろにされている。
 これまでの地方自治の権限の拡大の方向とはまったく違ったものになる。現在の東京都と特別区の問題点の検証、政令指定都市としてのこれまでの流れの検証と問題点の把握、そしてあるべき姿の模索というプロセスがまったく無い。

 昔、飛鳥田一雄横浜市長は赤字を抱える市電を廃止するために、職員に対しては市電の営業所ひとつひとつを回って職員に話しかけ、理解を求めた。また当然にも町内会などの小さな組織に飛び込んで、やはり理解を求めて歩いたと何回も聞かされた。
 地元でも、そして職員の間でもずっと語り継がれている。

 人というのはこのような人についていくのである。そして語り継がれるものである。

 先ほど、交差点での地元の方の協力の話を書いたが、もう25年も昔の話なので記憶している範囲で書いてみる。当時やはり台風で、私の所属で管理する幹線道路から高速道路に入る交差点が冠水したという連絡が入った。私が同僚と現場を見に行ったが、車が列をなして渋滞してしまい現場に行くこともできず、地元の方の庭に車を止めさせてもらって5分ほど大雨と強風の中を走って交差点に行った。そこでは何台かの車が水に浸かって、地元の方が何人も出て車を押している。
 あわてて所属の作業班1班に来てもらうよう無線で依頼し、所属でも副所長を先頭に警察・消防・区そして高速道路の管理事務所に連絡をとってもらった。さらに事務・技術職も幾人か現場に来てもらった。車は渋滞で近づけないので地元の家の庭を無償で借りた。
 ようやく高速道路の敷地の排水がつまっているらしいとわかった。しかし高速道路の管理者は、人出がないし、業者も対応できないとの回答しか示さないとの情報がもたらされた。現場の私たちは一時途方にくれた。地元は私たちを頼りにするしかできない。しかも如何せん我々はその排水施設の管理者ではないので図面も無く、どこに排水施設があるかも分からない。
 所属の承認を求めたところ、地元を無視することはできなので、排水施設の泥詰まりを何とかしようという判断を得た。所属では区にも報告したようだ。作業班も私も腰まで浸かりながら、暗い中危険と隣合わせだったが、手探りで排水施設を探し、泥を掻き出し水を通した。吸い込まれる水に体をさらわれないように、ロープに体を縛っての作業であった。
 その上、その間深夜の11時を過ぎから約4時間、地元では作業車の駐車スペースを提供してくれたし、警察・消防が旗振りに人出を割かなくて済むように町内会や商店から自主的に何人も出てもらい、立ち往生した車を移動し、自家用車で作業現場を照らしてもらった。確か地元や町内会の協力があるということで、区長も駆けつけたと思う。
 私の所属の所長も駆けつけ、作業終了後区長・所長と共に私は町内会役員や商店、地元の家を回り、お礼を言ってまわった。本当は高速道路の施設の詰まりが原因だから地元へのお礼は筋からすればそちらがすべきであるが、しかしそんなことはいってられない。地元では所長がお礼に回ったことにいたく恐縮してくれ、逆に感謝された。さらに所長は警察・消防・区に報告にまわり、ひととおり終了したのは台風も去り、朝日が昇る頃であった。それから所属の作業班に丁寧にねぎらいを述べて、所としての対応は終った。ただし、災害復旧対応(倒木処理など)は、陽が昇れば交代する場合もあるが、短い仮眠でまた続けなければならい時もあった。体にはつらいものである。
 災害対策というのはこのように、地元の協力を得て、更に自分の施設でなくとも対応しなくてはならない場合もあり、また地元も行政にそれを期待する。この時の区長も所長も、現場の職員の意向を受けて、地元対応等実によく動いてくれたと私は思っている。あれで「自分らの管理すべき施設ではないから対応する必要はない」と組織のトップが言い出したら、地元からも、地元と対応している職員からも、所長は総スカンを食らっていたはずだ。無論できないこと、手を出してはいけないこともいっぱいある。この時は道路管理者ということが共通するということと、ほっといた場合地元で床下浸水・床上浸水も想定されということで決断をしてもらった。地元に怒られても手を出してはいけないときはある。その決断を多くの納得を得ながらしなくてはいけないことはいっぱいある。それをするのがトップである。組織のトップというのはこのようなものでなければならない。

 後日談。我々が感激したのは、しばらくしてから冬休みの実習の一環として近くの小学生が事務所を訪れ、「10月の台風の時に活躍した皆さんが普段どのような仕事をしているか見せて欲しい」といって来たときである。その時以来、冬は寒いので夏に小学生を対象に何年が続けて、イベントを開催し仕事を見せる活動を始めた。

 市の職員である区長や所長と、政治家としての市長では違いがあると逃げるかもしれない。しかし組織のトップとしての責任を果さないで、部下である職員を批判をすることで存在感を示そうとする政治家が、どれほど影響力を今後も行使できるとは思えない。多いに自省してもらいたいものである。

今年度前期最後の講座

2013年09月21日 18時23分31秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 久しぶりに神奈川大学の市民向け講座に出た。前期の講座の選択の加減で9月は講座のある日がほぼなかった。連続講演会「未来をひらく思想」の第5回目。講師は安藤礼二氏。レヴィ・ストロースの「野生の思考」からはじまり、折口信夫の霊魂観を南島論を手がかりに紹介するもの。
 文化人類学には興味はあるのだが、どうもその論理というのになかなかついていけなくて、いつも挫折してしまう。今回も講義の概略はわかるのだが、どうも論理が飛躍しているようでうまくついていけないところが多い。いろいろの概念が出てくるが、その定義というか基本概念が私には曖昧なまま次々に事例が提出されて、いつの間にか結論めいたところに論がいってしまうような感じが今回もした。
 基本的にこちらの知識が足りないのだろう。一度基本的な文献をじっくりと読んでからでないと、同じように理解できなくてそのまま終ってしまうということの繰り返しだと感じた。こんなことを繰り返していたらいつまでたってもこの知の体系の入口でお終いになってしまう。
 興味はあるのだが、このような講座だけで基本を理解しようとする怠け癖に「痛く不勉強を反省」した90分であった。

付き添い一週間‥脱帽

2013年09月20日 14時50分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先日、私がお見舞いも持たずに横浜市大病院までお見舞いに行ったKさんのご家族が無事退院された。手術もうまくいき、入院中の経過も良好だったようだ。ご本人もご家族も一週間の付き添いにもかかわらず、ホッとされているようだ。
 昨日は一週間ぶりにお酒を飲んで、ぐっすりと寝ることができたという。地震に気付かなかったとのこと。

 付添い人用の簡易ベッドはとてもつらい。私も経験があるが、幅が狭い上にとても暑苦しいのだ。当時も眠れなかった。そのときはまだ40代半ばだったが、2日続けたらもう嫌になったのを覚えている。
 それを60代の半ばになって1週間続けられたという。大変である。ご苦労様でした。


昨晩の地震

2013年09月20日 10時59分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩(今朝2時25分頃)の地震はびっくりした。横浜で最大で震度2だったようで、私の住んでいるあたりが横浜での最大震度だったようだ。
 ちょうど寝入った頃で、普段、震度2でゆっくりの揺れならば起きることはないのだが、昨晩は目が覚めた。振幅の間隔が短かったので気がついたのだろうか。
 目が覚めたときの揺れはゆっくりだったので、それなりの距離がありそうだと判断した。とっさに東北で再び?と思った。妻がサッとテレビを点けたのでそれをみていた。テロップではなくアナウンサーが出ていたので、これはかなり大きかったと思っていたら、福島県浜通りで震度5強とのこと。震源は海ではなく陸地で深さ20キロ、マグニチュード5.8と繰り返していた。
 前日から福島県浜通り、茨城県北部を震源として地震があったのは記憶しているが、それが前震だったかもしれない。今朝も余震は続いているようだ。被害は出てないようだ。原発事故の現場はどうなっていたのだろう。

 本日はとりあえず予定はないのだが、イタリア旅行の事前の「お勉強」をする予定。

「浮・透・韻・奏」展 感想

2013年09月19日 23時11分58秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 広い会場に、大きな作品が並びなかなか圧巻である。

 菊地武彦「土の記憶」のシリーズ、中野浩樹「奏」、川邉耕一「Floating」のシリーズ、
そして井上雅之「透過考」のシリーズのそれぞれの大作、いづれも見ごたえ充分である。

   

 井上雅之の「透過考」については前回の個展の時に見た作品とのつながりを反芻してみた。「68・2013」(右)と「65・2013」(左)の作品の違い、楕円の質感の違いが何を表しているのか、いろいろ想像してみた。
 「68・2013」が線の重なりでボリュームを出していると感じたが、「65・2013」は色の量感と黄色の線でボリュームを出していると感じた。このボリューム感の違いが、新鮮に映り、この二つの絵の魅力でもあると思った。
 楕円にこのボリュームかを与えることで、楕円の内側を光やら磁力やら重力が波動として、レンズを通り抜けるように下から上に通り抜ける瞬間を思い出すこともできる。遠い宇宙の果ての未知の星や星雲を見るような思いもした。
 水面にできた円の紋様を光が透過する際には、あるいは人間の意識がこのように身体を通り抜ける際には、どのような作用を受けるのだろうか。そしてそのレンズのような質感の違いでその作用が、さまざまに変容することも連想できないだろうか。
 さらに、私の好きな琳派のデザイン化された水の表現なども思い浮かべることもできた。これはさらに飛躍しすぎかもしれない。
 そんな飛躍しすぎるような感想も得て、とても楽しく、楽しむことができた。



「土の記憶」シリーズ、垂直の太い黒い線と線の間のあわい空間、丸い泡の形の繰り返しをいれた空間に惹かれた。
 土という表現にひきづられてしまうけれど、何かとても懐かしい柔らかいもの、水たまりの泥の感触などを連想した。
 いろいろな過去の想念が柔らかい何者かに閉じ込められて、時々意識の表面に顔を出す瞬間の不思議な懐かしい感触も湧いた。



 「奏」の諸作品、色の氾濫のようなあの明るさは、私の意識からは遠い存在だが、どこかでそれを羨んでいる自分を見つけた。
 実は、ブリヂストン美術館でいつも見る、ザオ・ウーキーの「07.06.85」を思い出した。
 いづれの作品からも、水や森の緑の氾濫を連想する。水や木々がこんなに色をたくさん含んでいることにびっくりした。



 「Floating」のシリーズ、楕円の黒と、吹き出るような直線の組み合わせが不思議な感触である。大地や火山から溶岩やガスなどが吹き出るように、身体から何かを噴出し続けるような表現意識の前に逡巡してしまっている若い頃の自分を思い出した。遠い昔の自分を想像してみた。とても若い時代のエネルギーを大切にして、それに依拠して何かを常に模索しているようなこだわりを感じた。このようなこだわりというのを感じるのはとても心地よい。


 なかなかうまく表現できないのだが、並んでいる作品を見ていると不思議な想念がどんどん湧いてくる。そしてそれが自由に自分からはなれて、遠くに飛翔していくのを下から眺めているような気分になる。そんな自由を感じた。

 もっと早くに見に行って、こんな自由な空気を紹介すればよかったと反省している。でも頓珍漢な感想で、作者たちは迷惑しているかもしれないが、そのことはどうかお許しください。

読書が進まない‥弱音といいわけ

2013年09月18日 21時48分51秒 | 読書
 今月は講座も少なく、今週はまったく無い。月初めに仙台・盛岡にいたが、とりあえず休養月のようなものだ。来月からは後期の各種講座が始まるので、遅い夏休みのようなものである。
 そうはいっても何かを常にしていないと落ち着かない性格、じっとしていられない性格は変わらない。新聞作りやら東京での集会などをこなしたが、読書などに励むことができなかった。

 労働組合の三役になって以降、退職して二年目の今になっても、年間数冊の読書に減ってしまった。手帳に記した記録を見ると一時はガムシャラに年間100冊(仕事と組合関係の本を除いて)を越えていたのに‥。あのエネルギーはどこへ行ってしまったのだろう。なんとも情けない。もっとも就職して以降の読書は熟読玩味とは程遠く、読み飛ばしに近かったので誇れたものではない。

 考えようによっては、18歳以降(学生時代以降)体を動かすことの割合の方が多かったのかもしれない。人と共に動き、自分の体を動かし、仕事とは体を動かすことで覚え・現場で考えなければならないということを教わり、組合という組織を動かし、ということばかりを続けてきた。40歳になる直前からは読書にむかうエネルギーまでもが、そちらに注がれてしまったようだ。

 読書にむかうエネルギーと気力はかなりのものである。エネルギーの消費と気力の総体が年齢と共に減少しているとすると、読書を活発にするには、体を動かすこと、体を動かしながら考えることに注いできたエネルギーを割かなければならないのだろうか。それもまたつらい選択である。しかも読書のスピードも遅くなっている。
 人生、なかなか思うようには展開できない。

 来週始めから今月いっぱい、8日間妻とイタリアに行くことになっている。本日はそのための買い物を少々。そろそろ荷物の準備をしなくてはならない。山行ならば持っていく物、リュックに詰めるノウハウなど心得ているが、パック旅行とはいえ8日間もの周遊は初めてである。多分いろいろ忘れ物が出てくるので、何回か詰めたり出したりを繰り返さないといけない。

酔いがようやく醒めたが‥

2013年09月17日 23時57分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日、台風一過の後の爽やかな天候であった。午後の会議の後、17時過ぎから10人ほどで「軽く」飲む予定が、それなりに「たくさん」飲んでいた。中華料理店での料理もおいしく、つい箸が進んだ。
 ということで、家に帰ってからひと眠り。いまようやく起きてきた。何を記載するつもりであったか、すっかり忘れている。

 これからシャワーを浴びて、若干の作業をこなしてから就寝することにした。


 ここまで書いてきたが、記載しようとしていたことがやはり思い出せない。わざわざこのブログにアクセスしてくれた読者には申し訳ないが、これではあとは、寝るに如かず。


台風18号通過

2013年09月16日 22時04分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 台風18号はかなりの風と雨の被害をもたらし、とりあえず太平洋に出た。現在北海道東部に向かっているが、強い風雨が続いているようだ。京都・福井・滋賀の川の氾濫の状況はなかなかすごい。復旧作業など災害対応の業務に携わる人の苦労、経験があるだけに頭が下がる。特に同じ政令指定都市の京都市については仕事がら交流もあっただけに業務の大変さを身近に感ずる。
 横浜も朝から強い風雨にさらされた。さいわい私の団地の周囲では被害はなく、停電もなかった。
 朝から予定していた墓参りは延期とした。この台風が去るまでは外に出歩くことはできないと、朝から家で溜まった仕事に着手。
 まずは明日までに印刷しなくてはならない組合の退職者会のブロックの会報。A4裏表2頁の作成。一昨日、昨日の東京での退職者集会の報告記事を入力し、写真を貼り付けて出来上がり。50数部を印刷し終わったのが13時。
 続いて、大学の同窓会の新聞形式の報告書の作成。これはこの連休に集まった原稿二つ分を枠に流し込んで、レイアウトを修正。あと6名分で完成する。
 続いて昨日訪れた「浮・透・韻・奏」展の感想の概略を仕上げた。まだ言葉が硬いのでもう少しこなれた言葉に直していかなければいけない。

 この時点で17時近くになった。外の天気は風も収まり、雨はとっくにあがっている。湿気も少なくすごしやすい。日も照ってきた。
 ということで、葦原の山姥様に指摘された如く、ウォーキング&ジョギングに出発。1キロ速歩、1キロ軽いジョギングを4回繰り返して8キロあまり。私と同じように台風が去るのを待ちかねて走り始めたらしい人とたくさん行き逢った。

 還り際に西の空を見ると赤く染まり、爽やかな夕景が広がっていた。富士にすすきの穂と赤い夕陽と空。ちょっと通俗的過ぎるがそれでも美しいことに変わりはない。

 しかしやはり私の元の職場の職員は土曜からずっと出ずっぱりだったようだ。私の属した道路・下水道・公園管理の出先職場は市内18区にひとつずつあるが、走っている途中で、この区の車が道路脇に1台止まっていた。18時を過ぎていたから休日出勤の上に時間外まで作業をしているようだ。車を離れて歩いている後姿だけを見かけた。誰かはわからなかったが、それでも車の傍をとおり過ぎるときついこの車に頭を下げた。
 災害時出勤して風雨の中、出歩いて何事も無いのが当たり前。小さくとも土砂崩れでもあれば片付く目処が立つまで何時間でも張り付かなければならなくなる。多分管理職から担当職員まで、土曜から本日の警報の解除まで満足に寝た人はまずいないと思う。職員だけではなく、業務を請け負う企業の社員も長時間対応で疲労が重なってくる。
 職員は食事もコンビニやスーパーのお弁当ならいいほう。たいていはカップ麺かインスタントラーメン程度。中田市政時代に災害時の所属内での調理が一方的に禁止された。非常米の購入も禁止されご飯を炊くことも、みんなでお金を出し合って買っていた味噌で味噌汁を作ることも許されなくなった。今は復活できたであろうか。

 朝の風雨の一番強かったときもごみ収集車がいつものように来てくれた。このような災害時にも決まった時間にキチンと来てくれる安心感というのは、心強い。収集後の簡単な掃除もこの風雨でなかなか大変そうであった。
 就職したての頃に、「天候の悪い時は作業に出なくていい」と危険を理由に業務命令を出さない管理職が多かった。そして仕事をしないから現業部門は縮小という悪循環であった。それ対して「キチンと仕事を指示しろ、安全教育を行え、必要な器具を揃えろ」と幾度も管理職や局の総務課に詰め寄ったことが、私の組合活動のはじめでもあった。 そんな活動を続けているうちに、あらたに係長になる若い方が次第に私たちの主張を理解してくれるようになった。彼らは課長・部長になっても仕事の体系や業務の研究に熱心に対応してくれた。組合とは違った観点から現業業務の改善で提起を受ける時もあった。人員の削減はそのような努力とはまったく違って、天の声のように提案されるが、それに対抗するのに大きな力にもなってくれた。そのような方たちとは今でも年賀状のやりとりをさせてもらっている。
 さらに付け加えるならば、建設業の業者にも多くの外国籍の社員がいる。作業主任クラス、いまでは代理人クラスでもいる。災害時にも大きな戦力である。彼らがいなければ日本の都市基盤の施設管理も、災害時の復旧もまったくできない時代になっている。政権の中枢を握る人を先頭に、現在偏狭なナショナリズムが声高な時代になってしまった。街頭でヘイトスピーチが問題になっているが、自分の住んでいる地域を下支えしてくれる大きな力に対して無知をさらけ出している。あるいはそれを知っていても、否知っているからこそなのだろうか。常に第一線のつらい、きつい仕事を外国籍の人に押し付けてきたのが日本という国の伝統ならばそれは即刻あらためなければならないと思う。

 ジョギングの途中で、同窓会に参加した2人から感想文が届いたことを知らせるメールが来た。夕食後これを枠に流し込んで本日の作業は終了。17名中あと4名分となった。なかなかいい出足である。ありがたい。

 さて、明日の朝は眼科に行って緑内障の点眼薬をもらいに行く。またかなりの金額を払わなければならない。午後は月一度の退職者会の幹事会。今月はニュースと諸資料を郵送するための袋詰め作業もある。結構あわただしい。