Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

台風と梅雨入り

2011年05月29日 17時53分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★まっすぐにさす傘街は梅雨に入る
★街灯の早くも灯り梅雨に入る
★梅雨荒れて思考の迷路抜けがたく

 台風第2号が前回の第1号と同じように沖縄を通過し、関東地方にも接近している。例年はこの時期西に進路をとるが、列島に沿ってやってくる。今回も台風は温帯低気圧に変わったようだが、油断はならない。
 しかしそのようなことを抜きにして、終日雨音を聞きながら部屋に閉じこもるのも一興といえる。前々回記載したように、雨音を家にこもってじっと聞くのは心が落ち着く。紫陽花も開花を迎えている。
 今年は台風と梅雨入りが同時だ。しかも梅雨入りは例年よりも早い。沖縄で記録したという風速55m超とはどのようなものであろうか。関東地方ならかなり大きな被害が出るような気がする。

 さて、私の住む団地は築山もあり樹木が多い。梅雨時は木立から濡れた緑が立ち上がるような奥深さと薄暗さを感じさせる。そんな時は思考の迷路を、迷路として受け入れながら静かな眠りに入っていくのも面白い。

紫陽花

2011年05月26日 21時34分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★濃紫陽花葉書ににじむ筆の跡
★紫陽花の毬振れやまぬひとしずく
★紫陽花の雫に色の溶けぬまま

☆あぢさゐの藍をつくして了りけり  安住敦

 梅雨といえば紫陽花の花。不思議なもので梅雨入りがわかっているかのようにこれと前後してこの花が咲き始める。紫、うすい青、赤紫とさまざまな色があるが、私は濃い藍色の紫陽花が好きだ。歳をとったためとはいわないが、最近は萼紫陽花にも目を惹かれるようになってきた。同じように濃い藍色のものが好みである。
 聞くところによるといづれも日本が原産で、シーボルトがヨーロッパにヒドランゲア・オタクさとして紹介したとのことを知ったのはいつだったか。日本の妻の名、「お滝さん」にちなむらしい。
 青梅雨という言葉がある。私は梅雨時期に葉を大きくする木々の様子から生み出された言葉と思っていたが、最近は雨にぬれる紫陽花の様子にもふさわしい言葉と感じるようになった。
 この紫陽花、切花にしておくと花粉が大量に落ちる。食卓テーブルにおくと煩わしい。紫陽花は外の梅雨にぬれる姿こそ本来の姿だ。


梅雨

2011年05月25日 23時33分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雨の音が好きだ。聞こえるか聞こえないかの微かな雨音、激しい雨音どのような雨にも音はついてくる。音がしないはずの微かな雨でも、聞こうとすれば音が聞こえてくるように感じる。そしてその音は聞いていて飽きない。心が落ち着く。雨が傘を打つ音も、雨の中の歩行を楽しくする。山小屋で停滞しながら、雲に覆われた峰を想像しながら聞く雨音もいい。
 だから雨の多い梅雨時は静かに雨の音に心を遊ばせることができて、私にはうれしい時節だ。
 梅雨に関係した言葉がたくさんある。歳時記を引いてみれば梅雨空・梅雨曇・梅雨寒・梅雨晴れ・梅雨冷・走り梅雨・荒梅雨・戻り梅雨・青梅雨などなど実に豊富にある。
 雨に打たれて生気を増さない草木はないはずだ。そう、木立を濡らし葉を大いに茂らす青梅雨という表現もいい。
 そして激しい雨、それも勢いを増す川の流れを思い出させるような荒梅雨という表現も好きだ。実際の水害は遠慮願いたいが、激しい雨の音も屋内で静かに耳を澄ませば、心が落ち着く音に聞こえることがある。体が水に満たされ、水が染み出て体が溶けていくような感覚に襲われることもある。
 季節はそろそろ走り梅雨。明日から天気は下り坂。あるいは一気に入梅となるかもしれない。

ジェットコースター的気温

2011年05月22日 20時05分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では昼までは好天、気温もみるみる上昇した。しかし昼以降雲が出始めみるみる暗くなり、15時過ぎから突如本降りとなり気温が15度近く低下したとのこと。
 このジェットコースターのような気温の上昇・下降は、私も含めた高齢者にはつらいものがありそう。自覚がなくとも体にかなりのストレスがかかっているのではないだろうか。

 本日は三浦海岸でバーベキューの催しがあり朝から参加。15時に暗い不気味な雲と風の下、横浜駅より30分ほど歩いて帰宅したとたん本降りとなった。シャワーを浴びた後、ベランダに出てみて肌寒いのにはびっくりした。
 バーベキューを楽しみながら、会話の中で来年3月の定年退職以降の再就職を強くすすめられたが、明確な諾否は保留した。気持ちの上では「もう仕事はしたくない」に極めて大きく傾いている。妻も料峭はしている。が、多少の戸惑い、ブレははっきり言ってある。生活の不安もある。結論を来月末には正式に表明しなくてはならないのだが‥。

久しぶりの句会

2011年05月15日 19時42分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日はあらたに俳句誌の会員となって初めての句会に参加した。16名という大人数の句会は初めてであった。これまでは多くて10名未満であったと記憶している。初めての方ばかりでもあり13時から17時まで緊張しつづけた。
 句会後の短時間の懇親会も楽しいひと時であった。

五百羅漢図について補足

2011年05月11日 20時07分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 「芸術新潮」5月号が「狩野一信」を特集していた。五百羅漢図から私が「救済」のイメージを受け取れないので、解説に目を通してみた。
 すると山下裕二という解説者も「六道の20幅を見ていると、一信はこの《五百羅漢図》を救済を意図して描いたのだろうという根本的な疑問が湧いてきます。じつは救いなどないのだというメッセージとも読めるからです。また一信の中には、貧富の差のような、現実世界の残酷さに対する覚めた意識が強くあったのではないか」と記載している。
 地獄図や鬼趣、修羅の図に比して、「六道・人」「六道・天」など羅漢の仕草も表情も、そして舞台・場面も迫真的なものはない。劇的な構成もない。気力が充実しているといわれる初期にしては物足りない。
 また六道の次の場面が墓場などの瞑想・座禅の羅漢図であることなどを考えると、当時の江戸庶民のそれも卑俗で猥雑なドロドロした、都市の下支えの社会のエネルギーに依拠していた狩野一信という絵師の姿が髣髴としてくる。上品な「天」や悟りやなど興味もないと言いたげである。そして安直な「救済」など鼻から信用していない庶民のしたたかさとでもいうものであろうか。それは後半の「龍供」の素っ気ない描写でもわかる。同じく後半の生き生きとした大工職人の姿などと対照的である。
 狩野一信の絵の根拠の一つを垣間見たような気がする。

本日の俳句(110508)

2011年05月08日 11時54分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★春の果ワイングラスになみなみと
★鳥の声陽射しに澄むは夏立つ日

 子供の日、夫婦二人のいつもの静かな食卓に、手ごろなワインを添えてみた。とくに理由はないが。また食卓が豪華になるわけでもなかったが。
 本日は晴れ渡った。鳥の声がまぶしい。

背黄青インコ

2011年05月07日 22時05分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 こどもの日に、セキセイインコを一羽、我が家に迎えた。初老の夫婦二人の静かな生活に少し話題ができた。
 生後半年あまりの頭が黄色のレインボーという種類だそうだ。手乗りではないが人はあまりこわがらない。店では早めに暗くして寝ていたのであろう。夕方、部屋のカーテンを閉めるとおとなしくなり、丸く膨らんでじっとしている。
 以前飼っていたセキセイインコよりおとなしいようだ。
 団地では、犬・猫は禁止されているので、我が家ではセキセイインコを子供が小さいときから飼育していた。2代20数年にわたり4羽、それぞれに個性があった。やんちゃ・小心・気の強さ・好奇心の強さ‥いろいろあったようだ。また人の顔を読んで、インコに機嫌を見られたようにも感じた。
 こどもの成長にとっては、飼育している動物の世話や生死は良い刺激となる。その点でも4羽のセキセイインコは十分その役割を果たしてくれたと思う。いづれも手厚く葬ってやった。
 今回はこどもはいない。夫婦二人にとってどのような存在となるのだろうか。

本日の俳句(110506)

2011年05月06日 07時00分00秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★チューリップ秘すべき宙を日に晒す
★丸めたる影の振幅チューリップ

 横浜公園のチューリップを見に訪れたが、すでに満開は過ぎてほとんどが花弁を落としていた。いくつかの種類がそろって満開であったが‥
 しかし満開を過ぎたり、花弁が半ば散っていても、それなりに風情はある。色や形の競演を想像しながらの散策もそれなりに楽しいものであった。

本日の俳句(110505)

2011年05月05日 07時00分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★振り向けど足跡もひとり竹落ち葉
★はやばやと空を獲得今年竹
★喧騒を離れ一株あやめ草

 昨日は市営地下鉄仲町台駅からセンター北駅までせせらぎの道をいったり来たりしながら約10kmほど歩いた。竹林、藤、菖蒲、花菖蒲、モミジの実、桜の実などに目を惹かれながら‥。

ルオーの風景画

2011年05月04日 07時50分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は「ルオーと風景」を汐留ミュージアムに見に行く。昨年は「ユビュおやじ」のシリーズで肖像画を中心に見たが、今回は風景画を中心に。カタログは購入しなかったが、黒い色調に桜を咲かせた「春」が心に響いた。初期の絵の孤独と静謐が画面にあふれる絵、救済がどこかで断念されている絵が心惹かれる。晩年の「救済」が前面に出てくる絵も孤独な魂の彷徨がともなう静謐さが感じられ、決して安易な救済ではない。
 現実とはかけ離れた風景が、心の風景として眼前に出てくるようで懐かしい感じの絵だ。一つの絵に人は幾人か登場するが、それぞれが孤独に見える。他者との関係が希薄な、それでいて関係が途絶しているとは言えない微妙な感覚を私は覚える。この感覚が私には好ましい。
 掲出の絵、「キリストと漁夫たち」ど題され、聖書の一場面だが、私には一般的には冷たい色としての青を記帳としているが救いを拒否した絵ではなく、人々は関係を結ぼうとして、きっかけをどのようにしようか逡巡しているようにも見える。決して冷たい関係の絵ではなくどこかで救いを模索しているように感じられる。2から3人ずつの4つのグループが互いに関係を模索しあっているような微妙な関係に見える。ルオーの絵にはこんな感じが付きまとう。