Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

台風17号

2012年09月30日 18時29分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では現在、大雨・洪水・波浪・暴風警報と雷注意報が発令されているが、それほどの雨・風ではない。16時になると共に雨が降り始め、風がしだいに強くなってきたが、18時の時点では、雨は小降りだ。確かに、団地の南側の欅の枝は大きく揺れ始め、葉擦れの音が聞こえるようになってはきた。その変化が、台風への不安を少しずつ掻き立てるかのようだ。

 中心気圧は965hPa、中心付近の最大風速は35m/sと衰えてはいるがどうなるのであろう。1日3時には岩手県に達するとのことなので、日付が変わる頃にはとうげを越えていそうだ。

 この台風、沿岸部には高潮などでかなりの被害を出しそうだ。内陸部ではどうなのだろう。我が家では18時半頃から急に風が強くなり、風の音が室内にも響いている。雨はそれほどでもない。

 20時過ぎから風がさらにひどくなってきた。風の音が甲高くなってヒューという音が混じるようになってきた。木の葉が随分と道路上に散って路面に張り付いている。雨は今のところ降っていない。
 意外と雲は厚くない。時々途切れた雲の間から中秋の名月が顔を出すが、あっという間に再び雲に隠れる。出たり隠れたり、なかなか忙しい。これはこれで月の鑑賞の仕方かもしれない。
 雲の動きを見ると南風だが、南側の号棟にさえぎられてまだ私の部屋のベランダにはそれほどの風は吹き込んで
こない。

 21時近くになり我が家の南側のベランダにも強く風が吹き込むようになり、風の音も「ゴーッ」という音が続くようになって来た。そしてガラス窓が大きな音をたてている。明日ベランダはなかり葉が溜まっているだろう。窓も汚れていると思う。掃除にエネルギーを費やしそうだ。ただし大雨・洪水警報は注意報にかわり、今出ている警報は暴風・波浪警報となった。
 雨はこのままあまり降らずに過ぎれば良いが、風の被害はありそうだ。湘南新宿ライン・東海道線・横須賀線・京浜東北線・東急東横線・京浜急行線が運休となり、東京と横浜をつなぐ路線はなくなった。小田急線が動いている様子だが町田まできても横浜線が運休となっている模様なので、運休の代替にはなりにくい。平日ならば大混乱となり、帰宅難民が大量にでたのではないか。

 23時過ぎてベランダから空をのぞいたら、雲はほんの少し。満月・中秋の名月が美しい。嵐の最中の月もなかなかのものである。雨は降っていないが風が引き続き激しい。風のうなり声が止まらない。

 0時半過ぎまで寝てしまってあわてて風呂へ。風の音は相変わらず激しいがそれでも心なしか弱まったようでもある。梢の大きく揺れる音を聞きながら、風のうなり声を聞きながらの入浴、なかなかいいものである。不思議と心が落ち着く。
 風呂からあがりベランダから外をうかがうと、湿度が下がったようだ。そして風の向きは西南からに変わっていた。雲はほとんど無く、風の向こうに、風を超越したように月が照っている。あるいは風をなだめていると形容してもおかしくない。やはり主役は俺だと言わんばかりの澄まし顔にも見える。
 横浜の内陸部では今回の台風は風台風、雨の被害は最小限ですんだのではないだろうか。

 再びまぶたが重くなってきた。台風の実況中継はこれで終了。

待宵の月

2012年09月30日 14時05分52秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日家に帰って来るときは雲が空を覆っていて月は雲の向こうにうっすらとだけその所在を示していた。21時過ぎに銭湯に行こうと再度空を見上げたら、雲が大きく割れていて待宵の月・小望月が澄んだ光を静かに放っていた。
  待宵の姿見のある廊下かな(山本洋子)
 本日は台風で中秋の名月は見ることはできないので、銭湯までの15分を時々空を見上げながら歩いた。銭湯からの帰りは日付の変わる時刻近かったがやはり静かな柔らかい光をほてった体を冷ますように浴びながら歩いてきた。



 さて、やはり昨日家についてみたら、私宛の手紙が二通。内一通が申し込んでいた「川村清雄」展レセプションの招待状。経歴だけならちょっと遠慮したかもしれないが、江戸東京博物館のホームページの掲載の絵を見る限り、構図などにちょっとドッキリするような幻想的な趣があり、そそられた。実際に見てみようという意欲が湧いてきた。
 これで10月はいろいろと出かけることが多くなりそう。

 本日は、台風が来る前にと午前中はウォーキングに出かけた。いつもの約10キロメートルのコースをいつものように歩いた。ただ数日前から腰の痛みが感じられなくなっていたので、痛み止めは服用せずに出かけた。そしてためしに400メートルほど軽くゆっくり歩くような速度で走ってみた。出だしから痛くない。
 それで10キロのうち約400メートルを5回ほど、約2キロメートルほどをゆっくりと走ってみた。なかなか調子がいい。腰の痛みを感じないし、違和感もほとんどない。
 随分と回復したような感じだ。しかし調子にのりすぎては元の木阿弥と思う。当面はまだ走るのは自重しよう。本日痛みが出ないようならば400メートルを5回ほどに分けて走ってみようと思う。少しでも痛みが出たら中止にするつもりで。
 来週台風17号が去ったら、西穂高岳-焼山あたりに行ってみたいと思っている。妻と一緒に行くし、腰のこともあるので、ロープーウェイを利用し、無理せず西穂独標で引き返すことも考えている。

 12時半ころ雲が厚くなり、一時風が強くなったので、いよいよ台風17号の影響が出てきたと思った。また警報や注意報、交通情報、横浜市からのお知らせなどいろいろメールも来る。
 しかし今のところ風も止んだし雲間から太陽の強い陽射しも指している。思ったよりも影響は遅くなるのかもしれない。
 3時近くになっても陽射しがある中、近くの駅まで妻と買い物に出かけた。雨に会うかもしれないと、傘を持参したが幸いにも雨には会わなかった。帰ってきた16時を過ぎると同時に雨が降ってきて、ホッと一息。
 団地の中で毎年咲いている彼岸花が一斉に花開いていた。赤と白、それぞれに群落を分けて棲み分けている。
 妻に教えてもらったが、我が号棟の入り口にホトトギスの花が開いていた。なかなかいいものである。初めて名前と花の印象が一致した。








本日は墓参り

2012年09月29日 20時49分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は大分長文のブログを掲載してしまった。目を通していただいた方感謝申し上げます。

 さて本日は武蔵小金井の多磨霊園に墓参りに行ってきた。朝の内は曇り空だったが次第に日が顔を出し、お昼過ぎに武蔵小金井の駅についた頃には強い陽射しで汗ばむほどであった。
 雲は秋の雲というよりも夏の雲の様相、夏がぶり返したのではないかと思われる陽気となった。お墓の隅に植えたユスラウメの葉が残暑が続いて陽射しの影響を受けたためか、葉がしおれて勢いがなかった。また絵だが少々張りすぎている。さらにナンテンの木は茂りすぎて刈り込みが必要であった。墓参後にユスラウメとナンテンの刈り込み等を依頼して本日の予定は終了。午後5時過ぎに横浜に戻り、夕食をすましてから帰宅した。

 多磨霊園の付近でも今年は彼岸花の開花が遅いようで、ようやく1~2輪ほど見かけた程度であった。これから花を楽しめるだろうと期待している。私の団地でも開花が遅れている。待ち遠しい花である。

学校体育への違和感

2012年09月28日 13時19分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 秋の運動会が予定される時期になっているが、台風18号が接近している。土日の天気にやきもきしている人も多いだろう。さらに週明けには台風17号の接近・上陸も予定されている。
 私の家族も明日29日には墓参りを計画している。そして週明けには北アルプスの西穂高・焼岳をねらっていた。明日は何とかなりそうな気もするが、週明けの山は、週の半ば過ぎに延期せざるを得ないだろう。

 さて先ほど「(運動会の天気に)やきもきしている人も多いだろう」と書いたが、当の私は「天気が悪くなり中止になってほしい」といつも思っていた。幼稚園・小学校の時は何しろかけっこで最下位か良くて最下位から二番目以外になったことがない。それだけで済むなら一時の我慢なのだが、仲間内からも担任の教師にも「まただね」といわれ、赤(白)が負けたのはお前の所為だと非難されたり、家に帰ってからも「私は早かったよ、誰に似たんだろうね」といわれ、とても傷ついていた。
 それでも小学校1年から3年のときは担任の教師はかばってくれたので良かったのだが‥。小学校6年のとき突然のように走るのが速くなった。それは5年の二学期から川崎から横浜に転居したとき、横浜では急激な人口増加のため学校建設が間に合わず電車通学になり、転校した学校へ毎日20分近く駅まで走って通学した。さらに次の駅から学校まで5分以上の急な坂をやはり走ってのぼった。何しろ毎日どうしても余裕をもって家を出ることができない。最終電車ギリギリに家を出ていた。その効果が出たと今では思っているが‥。
 6年のとき初めて徒競走でその組の2着になりリレーの選手としても出場したのが、とてもうれしかった反面、隣のクラスの教師に「走り方がなってない」とか何とか具体的な指導ではなく、けち着けのような、そして冷たい言い方の批評を聞いて、また嫌な世界が待ち受けていることに気づかされ、うんざりしたことを覚えている。
 そして走ること以外の運動会の種目も嫌であった。まず低学年でやるあの紅白の玉入れがきらいだった。他人の投げた玉が空から降ってきて顔に当たり、あの嫌な白い粉が目に入るので、練習のとき目をつぶって投げて教師の笑いものになった。本番ではやむを得ず遠くから投げたが籠に届かない。それを親にさらに嘲笑された。
 学年全体でやるダンスや集団の体操。これも大体他人とはあわない。特にダンスは「次に何をするか」がどうやっても覚えられないのだ。いきおい他人を見ながら演技するからどうしてもワンテンポ遅くなり、それが嘲笑の対象となり、教師の怒り・蔑みにさらされ、さらに一層緊張して覚えられない。この悪循環であった。
 運動会にない種目である鉄棒などの器械体操もからっきしだめであったので、何しろ体育の授業はどうしようもなく苦痛であった。
 私は小学校の学校体育にはどうしてもなじめなかった。教師とクラスの仲間にも親の反応にも、絶望と怒り・嫌悪感しか感じなかった。親からも決して具体的な指導をされずに、ただ「運動神経の悪いのは誰に似たんでしょう」という言葉を繰り返し言われた。親を恨んでもしょうがないが、「がっかりする」と他人や親族に言いふらしているのがとても嫌であった。学校で、今はどのような集団教育を実践しているのか不明だが、それほど進歩しているとは思えない。
 このまま公立の中学・高校に進めば、この体育の授業がそのまま延長になること、器械体操の比重が多くなることなどを教えられ、どうしても公立中学には行きたくなかった。通うようになったら地獄を見そうな気がした。ある私立中学・高校の案内パンフに「体育はバレーボール・バスケットボール・サッカーをそれぞれ中学・高校で1年続ける」とだけあったので、それを内心では受験動機として、その学校を希望した。その動機は親にも小学校の担任にもクラスの仲間にも打ち明けたことはない。しかしかなりの高いハードルだったので子供ながらに一生懸命勉強したことは記憶に残っている。
 志望の学校に入ったが、やはり体育の授業を行う教師には残念ながらとてもがっかりした。クラスの仲間に関しては、私のドンくさい運動を見て笑う者がいなかったのがとてもうれしく幸せであったし感謝しているが、教師は露骨に面倒くさそうな舌打ちをされた。それでも最初はいろいろ指導はしてくれた。しかしその指導も繰り返し同じことをやれというだけで、具体的にどこをどう改善するのか、は私には理解できなかった。私の身体的な特徴に沿った指導はなかった。そんなことは当時は指導の対象外であったのかもしれない。そして次第にさじを投げられたようだ。
 走ることだけは、毎朝のギリギリ通学のおかげで自信はあったものの、高校のときあれよあれよという間にどんどん体重が増加し、高校1年の後半のときからは肥満児といわれ、何をやるにしろ体が動かない。走ることだけはその割には早かったが、それでも体をゆすりながら走る姿はとても格好の悪いものであったと思う。
 肥満体型は大学の1年半でほぼ解消できたが、すぐに増加する体重に常に悩まされ、太めの体型の劣等感は20代の半ばまで続いた。球技や器械体操への劣等感は現在までも続いている。

 小学校時代、確かに他の生徒からワンテンポ動作の遅れる私を目の当たりにして、さらに体育授業の基本が身についていないような私に出会って多くの教師は面食らったと思う。そこは私も申し訳ないとは思うが、私の人格に対する蔑みにまで到っていた教師のあり様、体育授業のあり方には今も多大な違和感を抱いている。そしてそれが子ども同士のイジメに直結していたことも忘れようがない。「運動神経がない」(この言葉自体がおかしいのだが)と教師からも親からも蔑まれ続けたわたしでも、この年でジョギングやウォーキングや山登りをそれなりに、人並み以上にこなすことができるのは、私にはとても幸せな現状であるとともに、一方で学校体育への違和感はますます強くなる。
 あの時分、特に小学生のとき、わたしがクラスの中や教師に対し、あるいは親に対し、このことで暴力的な振る舞いに至らなかったことが奇跡であったように思い出すことが今でもたびたびある。

 私が少年期に教わった学校教育としての体育への違和感、そのうち、これをきちんと文章化してみたいと思う。しかしこのことを考え始めると感情が高ぶり、恨みつらみの感情から抜け出せなくなるのも事実だ。なかなか具体的な批判にはなりきれない。そしてそのまま子供を学校に通わせることになった時は、私のようにならないか大変心配した。しかし親の心配とは関係なく子供は学校によくなじんでいたようでホッとしたことを覚えている。


補足
 私が高校の1年の後半か2年の前半のとき、突然体育の教師がグランドに一周100メートルのトラックを描き、肥満体型のものが放課後に急遽呼び集められた。対象は中1から高校2年までの約1000名の中の「肥満児」という言葉で侮蔑的に名指しされたもの10数名。そして体操着に着替えさせられ何の予告も無しにいきなり「10週走れ」といわれ、タイムを計らされた。
 私はたまたま4分をきるタイムで2着で滑り込んだものの、どうも釈然としなかった。1着のものと2着の私は「早い」とほめられたが、大変嫌なことをさせられたと思った。当時は走り始めた段階では、いつもの遅刻ギリギリの小走りが実を結んでいるかな、俺も結構走れるな、という満足感があったことはあったが、それでもみんなの前にさらし者にされるという嫌な思いが先にたった。当然のことである。
 さらに教師のこの褒め言葉の背後には、とんでもない嫌味と悪意が込められていた。嫌味は1年余り後、悪意は10数年後に私に明らかになったが、これはここでは記さない。とても嫌な話である。
 直後に聞いたうわさ話では肥満が教育委員会あたりで問題になっていたらしい。しかし突然に「肥満」を抱えている生徒を対象に全力で1000メートルを走らせる、などというのは今なら極めて危険な強要である。それこそ事故がなくてよかったと思っている。タイムを計られれば誰でも無理をしても完走しようと思ってしまうし、それを実行する。「肥満」とならないために、あるいは「肥満」を解消するための地道な生活指導、食事指導、運動指導ではなく、こんな無茶なことがまかりとおる時代だったのか、あるいは教師の無理解だったのか、今となってはわからない。そして一定以上のタイムで走れば「肥満」についての指導はしないということだったのだろうか。肥満についてそれ以上学校で何か言われたことはなかった。
 クラスメートの幾人かは、何であんなことさせられたんだろう、といたわってくれたのをよく覚えている。最初は面白そうに各教室から顔を出してやんやの喝采を送っていた他の生徒も、最後の方の「肥満児」が必死にゴールする頃にはだれもはやし立てるようなことはしなかった。ただ最後のゴール者に各教室の窓から静かな拍手があったのは、私も息を切らしながら聞いていたのを覚えている。今の時点で考えると、生徒の質はとてもいい学校に在学していたものだと思う。生徒自身が「何かおかしい」と思ったのが、あの全体の態度の変化に微妙に反映していた、と思うのは過剰な思い入れだろうか。 
 その後、やはり高校2年のときだったと記憶しているが、文化祭の実行委員会か何かの打ち合わせのあと幾人かと取り留めのない話をしているとき、ある友人が「小学校のときのろまといわれ随分嫌な思いをした」とふと漏らした。「僕も体育がだめで、先生と友達にやられた」と私が答えたところさらに幾人かが「足が短いと‥」「体の特徴を‥」「音痴と‥」「成績が良いからと‥」とその場の過半のものが同調した。その話の結末で「だから今は他人の不得意や嫌と思われることはいわない」という話がでた。当時は「いじめ」という言葉はまだなかったと思うが、嫌な思いをしていた生徒がずいぶんと居たんだなぁ、と思うと同時に、「教師より生徒の方がよっぽど繊細で人として信頼できるんだ」と思った。「受験校」「エリート校」といわれた学校だったが、心に傷を負った生徒が多く集まっていたのかもしれない。

 就職して職場単位での野球やテニス、バレーボール、駅伝が盛んだったが、野球の場合を除いて、そのスポーツのリーダーには職場のチームをいかに和気藹々と楽しくそして長く続けるかということについてとても皆敏感だったと思う。得意な人もそうでない人も混じってそのスポーツを楽しみながら続けるには、参加者に失敗があったり、調子の悪いときでも笑いあって、傷を後々まで引きずらない場の作り方が大切であることを学んだ。
 学校での体育と職場でのスポーツ、当然場面の設定は違うが、学校のクラブではなくクラス全員を対象にした授業からみると、この職場でのスポーツの体験はとても異質であり、そして好ましいものに私は思えた。

 「通りがかり人」様の指摘のとおり「笑われちまったほうが早い」という楽しい集団をきちんと作ることの大切さを、高校生の仲間うちの話や職場での体験から思い出した。

 
 

 
 

渋谷での句会投稿句

2012年09月27日 23時52分26秒 | 俳句・短歌・詩等関連
渋谷での句会投稿句

★源流は今涼新た風起こる
→沢の音に風生まれおり涼新た
★秋刀魚の目凛々しき藍は始原より
→秋刀魚の目凛々しき藍をそのままに
★新たなる息吹始まり秋の雲
→沢の水掬えば山の秋始め


本日の夕食調理

2012年09月25日 20時42分55秒 | 料理関連&お酒
 本日は定年後4回目の夕食調理。前回は少々少なめでさびしい食卓であったのを反省し、本日はちょっと多めに4人前で3品+味噌汁としてみた。

1.椎茸シュウマイ
 材 料:椎茸12個、豚挽肉150グラム、木綿豆腐4分の1、
     タマネギ小1個、かたくり大さじ3杯半、塩・胡椒適宜
 作り方:① 豚挽き肉、木綿豆腐、タマネギみじん切り、かたくり、塩・胡椒を一度
      にボールにいれ、よく混ざるまでこねる。
     ② 椎茸は軸をとり、軽く水洗いする。
     ③ ②の傘の裏側に①を適当な量を詰め込む。
     ④ 電子レンジで約5~6分過熱する。
 
2.赤魚の干物
 材 料:赤魚の干物
 作り方:そのまま直火で焼く

3.冷奴
 材 料:1の材料の木綿豆腐の残り、葱・みょうが適宜
 作り方:葱・みょうがを薬味としてみじん切りにする。

4.味噌汁
 材 料:かぼちゃ適宜、1の椎茸の軸の薄切り3本分、煮干小4本、長葱1本、
     味噌適宜
 作り方:① かぼちゃは3~4ミリほどの薄切りにして適当な大きさに切る。
     ② 冷奴の薬味として使った長葱の残りを約3センチの長さに切る。
     ③ 以下省略。




 1の椎茸シュウマイは本日の朝のNHKの番組で紹介されたものを早速真似した。
 魚の塩焼きを作ろうとしてスーパーの魚売り場を覗いたが、先日売っていたカマスが本日は売っていなかった。ちょっと残念。そのかわりおいしそうな鮎を1尾240円で売っていた。この鮎と赤魚の干物、どちらにしようか最後まで悩んだが、安い赤魚のの干物398円に手が伸びた。今では鮎の塩焼きの方がよかったかと、悔やんでいる。
 ただし、この赤魚の干物、小田原産寒風干しということであったが、薄塩であっても魚にとてもよくなじんでいて大変おいしかった。他の魚の干物もあったので機会があったら是非また購入しようと思う。
 椎茸シュウマイと赤魚は、量的には4人分の量であったようだ。味噌汁はちょうどお椀2杯分であった。
 椎茸シュウマイは思った以上にうまく出来た。豆腐が入っているので食べやすく、くどさがない仕上がりに満足。これはまた挑戦しようとおもう。今回は酢醤油で食べてみたが、醤油だけでもおいしいと思う。辛子醤油でもいい。さらに具材に生姜のみじん切りを入れると味にアクセントが出たかもしれない。
私は絹ごし豆腐は好みではなく、豆腐は基本的には木綿豆腐しか食べない。残った豆腐を冷奴に出来たし、椎茸の軸も味噌汁に使うことが出来て、材料を使い切った気分になった。
 薬味といってもかなり大量につくり、野菜の補給というか、豆腐サラダのような具合にするが私流である。
 長ねぎとかぼちゃの味噌汁は取り合わせとしては珍しいと思うが、ありあわせの材料ということで勘弁してもらった。しかし結構いい取り合わせだったと思う。

 夫婦2人では2回分の量となった。明日以降のおかずとして椎茸シュウマイ・赤魚それぞれを再利用できそうだ。

山行でコケてから1ヶ月

2012年09月25日 11時36分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 前穂高岳で転んで臀部を強打してから1ヵ月、整形外科で低周波の電気治療と痛み止め、湿布薬(スティック状の塗布するもの)を続けている。痛み止めは1日3回だが、これはウォーキング前に1回飲むだけにしている時々軽く鈍痛があるときはその都度服用しているが、基本的に1日1回にとどめている。また処方されているスティック状の湿布薬はなかなかいい。液垂れもなく、においもほとんどない。実際に痛みに効いているのかどうかは判然とはしないものの、多少スーッとするのが心地よい。
 一昨日ウォーキングの途中で200メートルほど軽く走ってみたがまだ腰の筋肉が痛い。また、信号などでちょっと小走りに走る出すときも痛くて不便なので、昨日診察してもらって今後の見通しと、かなり早目のウォーキングの可否も含めて医師の判断を聞いた。すると「あと3ヶ月位は痛みが続くのではないか、走るのは無理だがウォーキングで痛みが出ないならばそれは続けても差し支えない」とのことであった。痛みが取れないので、椎間板ヘルニアにでもなったのではないか、と一抹の不安があるので、レントゲンでの診断も求めようとしたが、取り立てて医師はその辺のことは心配していないようだ。
 強引にその辺のことを聞きづらい感じなので、そのままにした。もうしばらく様子を見て変化がなければ他の病院にでもかかってみようかと判断した。

俳句誌12月号投句

2012年09月24日 07時05分05秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日は雨の音を聴きながら静かな一日を過ごした。夕方から4時ごろからは、雨の中銭湯&サウナに出かけて、雨にあたりながら露天風呂を楽しんだ。露天風呂といっても四方は壁に囲まれ、天井だけが吹き抜けている構造。それでも雨は落ちてくるし、かすかだが外の風を感じることが出来る。岩風呂の形態となっていて、露天風呂の趣きは十分感じることが出来る。都会のど真ん中でこれだけの風情で600円で味わうことが出来れば満足である。
 雨は夜の9時過ぎには上がっていたようだ。深夜には注意報も解除となった。

 銭湯に出かける前の1時間ほどをかけて、私が会員となっている俳句誌12月号への投句をまとめた。印刷の上そのまま封筒に入れて郵送。

俳句同人誌12月号投句
★生きて来し孤独の叫び秋の蝉
★蟷螂や父の顔して夕日影
★残暑かな吽形像の力こぶ
★托鉢の眉間の皺や葉鶏花
★桃を剥く老いの日いとおしむように
★残暑かな仏は御身をはだけおり
★病葉の落ちて時間の動き出す
★萩の花そこだけ風の見えていて
★秋茄子の畝に夕日や石仏
★夕映えの土の香りや唐辛子

やっと秋の雨の音

2012年09月23日 11時41分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はある会で予定されていた地引網の行事が雨のため中止となった。一日おきに3回の飲み会となる予定で、少々きついなと感じていたところなので、ちょうど良い雨の日となった。

 先日のブログで長く静かに降り続く雨の日が最近ないような気がすると書いた途端、本日は1日雨が降る予定となった。風もない。気温も20度少しと涼しいくらいだ。こんなにも残暑が続き、ようやく本格的な秋の訪れを告げる雨だと思う。
 私の住む団地にある池には周囲の木々の葉をつたって落ちる滴が、静かな水面に波紋を広げている。南側ベランダの正面にある大きな欅や柘植などの太い幹全体が雨に濡れ、昨夜からの雨量の多さを物語っている。北側のプラタナスの並木の幹も深い緑色にぬれている。ベランダの中央を上下に貫いている屋上や各階からの雨水を流す排水管からは雨水の音が心地よく響いている。雨脚の強弱はその音の強弱・高低で判断が出来る。この音の変化を時間をかけて聞いているのもいい心持だ。
 私は山行か好きだが、雨がひどくて山小屋やテントに1日閉じこもった記憶がない。ただ10月の南アルプスの荒川岳の頂上の避難小屋で宿泊したところ、朝からひどい雪となり1日小屋に閉じ込められたことがある。翌日ようやく曇りになったので氷でつるつるの岩の道をアイゼンも無しに恐る恐る下ったが、振り返るとほんの頂上だけに雲がかかり、周囲はかんかん照りの好天であった。麓の山小屋で聞いたところ、やはり昨夜は1日中頂上だけに雲があり、他は晴れていたとのこと。その小屋で明るい日差しの下で手足を伸ばして暖かい布団で熟睡したのをよく覚えている。あの頂上の避難小屋はとても小さなものであったが、まだあるのだろうか。
 友人からは山小屋で雨に閉じ込められて1日雨を聞くのもなかなか風情があるといわれていた。私もそんな体験をしたいと思っているが、そんなゆとりも感じられる山行は今の所まだ体験していない。その昔、ある登山雑誌に雨に降り込められたときに何をするか、という記事があり、登山ナイフの小さな錆をサンドペーパーでひたすら磨くのが心を落ち着かせると書いてあるのを読んだことがある。確かに雨が降る山のキャンプ場で、鳥の声など雨以外のさまざまの音を聴きながら、ナイフを磨くというのも面白い時間のつぶし方かとは思った。しかしちょっと怪しげな仕草かもしれない。

 今、雨の音が少し強くなった。今日は強くなったり弱くなったりしながら1日降り続くようだ。雨の音をじっくりと楽しもうと思う。

横浜での句会投稿句

2012年09月22日 20時42分17秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日は都内の平河町で気の置けない友人たちと遅くまで飲んでしまった。友人の親族が開いているということで案内してもらったが、おいしくて静か、品のあるお店であった。刺身の盛り合わせと私はいわしの干物が印象に残っている。半蔵門の駅から半蔵門線に乗り東横線で横浜駅経由で自宅に着いたのが、23時50分過ぎ。辛うじてその日のうちに帰ることが出来た。
 そして本日、句会があったが午前中は起き上がれず、11時過ぎにようやく布団から這い出し、シャワーを浴びて句会場に向け家を出た。ぎりぎり時間に間に合った。
 明日もまた飲み会である。少々アルコールを控えないといけない。反省。


 昨日の句会での投稿句
★秋暑し行き交う人の眉間皺
→残る蝉行き交う人の眉間皺
★秋茄子や畝に夕日の香り満つ
→秋茄子の畝にも夕日石仏
★夕映えの土香り立ち唐辛子
→唐辛子夕映えの土香り立つ

酒飲み話

2012年09月20日 19時57分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩は退職者会の幹事会終了後、横浜駅の2軒で飲んだ。あわせて1人3000円程だったから随分と安い飲み代だったと思う。
 1軒目で私が注文したのはホッピー1杯と日本酒1合、つまみは枝豆と鮭のハラス焼。あわせて2000円に少し欠ける値段だった。これで2時間位居たろうか。随分と安く上げた。店には迷惑だったかも。
 2軒目も横浜駅で、私は豚足と焼酎1合。あわせて1000円チョイ。これで1時間半ほど。これも時間を考慮しても随分と安い飲み代。これも店には迷惑な客だったろう。
 私にとってはこれだけ飲めば十分過ぎるアルコール量である。話も十分弾んだし、お互いに言いたいことは言った。ただしはじめから言いたいことがあって飲んだのではないので、ほとんど話の中身に記憶はない。酒飲み話はそんな程度でいい。それでなければ酒を飲む楽しみなどなくなってしまう。深刻な話はしらふでしなければ意味はない。
 よく勘違いしているのが、酒を飲みながら深刻な話をしている輩。そういう輩に限って酒を飲んだ石で絡むし、話が長いしくどい。さらにしらふでは真剣な話が出来ないし、と人の迷惑などお構いなしの傾向があるようだ。
 お酒を飲んでの会話ほど短く要領よく、そして笑いあえなくてはならない。普段の会話より難しいのかもしれない。コミュニケーションの技術がいるのかもしれない。そういった意味では昨晩は楽しく飲むことが出来た。歳をとって、現役を離れた時こそこのコミュニケーション力が大事なのだろうと思う。

 しかし昨晩の居酒屋でも隣の席では、声高に勤め先の同僚や上司の悪口、人の噂話を「真剣・深刻」にしゃべり続けていたグループがあった。2軒共。これほど端で聞き苦しいものはない。酒飲み話で不満解消なのか、あるいはその場は職場でのコミュニケーションの延長なのか、酒場で職場のあり方が決められるのか、単純なガス抜きなのか、聞いている限りひどい職場に勤めているのだなぁとあきれてしまう。結構名のとおった企業の社員らしかった。自分の職場や会社の「不適合」な側面を社外に公表しているようなもの、あるいはその人の人格の程度の低さを自ら表明しているようなものである。
 そしてこのような話の中身で共通しているのが、社内・職場のギスギスした言い合いが必ず、個人対個人のやりあいであることだ。決して集団としての自己解決能力を発揮するような雰囲気ではない。究極の解決策は批判の相手を批判する個人の力で相手を追い出すか、その上の上司を説得して当の批判される人を職場から追い出すか、辞めさせるかしない限り解決の道はないような勢いである。職場の共同性や集団の意志として、集団内部での自己完結的な解決策がそもそも提示されることのない、出口のない批判である。職場・企業内での集団性自体にもはや自己解決力は無いのであろう。
 いつごろから酒場談義がこんな風になったのだろうか。私は同一年齢同一賃金の原則が大きく崩れ、直属の上司による部下の査定が賃金に大きく反映するようになり、成果主義が当然のようになった時期と重なるように思っている。企業や職場の中での共同性や連帯意識の解体と期を一にしていると思っている。1970年代前半がその画期のような気はする。

 こんな不満を隣の会話に対して持ちつつ、私たちはおだやかに、記憶にある限りでは、趣味や歳の取り方や地域活動や家族のことをゆっくりと話をした。無論かつての職場での問題も話したとは思う。会話は、具体的に覚えていなくとも、何かの折にふと記憶の底から表面に浮かんできて、思い出すくらいがいい会話、いい酒なのではないか。
 そんなことを思いながら、40分ほどかけて徒歩で帰ってきた。

大雨洪水警報のち晴れ

2012年09月19日 11時27分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では、昨晩から大雨洪水警報が出されていたが、先ほど大雨洪水注意報に変わった。明け方から朝の内にかけて多少降ったようだが、思ったほどではなかった。

 一昨日から本日にかけて断続的に短時間強い雨が降った。秋の長雨という言葉があるが、私の記憶では最近は長く降りこめる雨ということがないような気がする。きちんと記憶しているわけではないので、間違っているかもしれないので、断定は出来ない。
 一日中家の中で降る雨を眺め過ごした記憶は小さいときのものしかない。そういうときの雨は、風はそれほどでもなく、軒からの雨垂れも、降る雨の軌跡もまっすぐに地面に向かっている。地面の水たまりの水面が規則正しく雨を受け入れ、丸い紋を同心円に広げている。そんな雨が待ち遠しい。
 ひょっとしたら、団地のベランダから眺めるようになったために、そんな雨の印象が最近はなくなってしまったのかもしれない。団地のベランダからの眺めは、確かに昔の平屋の庭に面した景色よりも視野が狭く、景色に広がりがないことと関係しているのだろうか。
 ただ、小さな庭の小さな木々に降りこめる雨の景色もいいが、今のように団地に植わっている大きな木々の幹を伝い落ちる水のあとを見ているのもそれなりの風情はある。しかしこれも長雨でながめた記憶がない。短時間のゲリラ豪雨のような激しい雨風の時の記憶しかない。
 本日も時々のザァーっと降る雨であった。

 本日は午後からは天候が回復するとのこと。みなとみらい地区と石川町まで所用で出かける予定。夜は遅くなりそう。


追記
 午後晴れるという昨晩の予報ははずれた。昼過ぎの予報では午後も夜も雨模様とのこと。確かに午後はずっと雲がたれ込め、暗い鬱陶しい天気となった。ひさしぶりの天気だ。降らないのはもどかしいが・・

雷が鳴り始めた

2012年09月18日 23時21分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では不気味に雷鳴がなり、稲妻もないのに電気がちらちらしはじめた。雨の予想のメールが届いたが、時間雨量15�・30ミリの予想。たった今降り始めた。こんな大雨の予報メールは初めてだ。
 地響きのような雷鳴が続いている。風も出てきた。
 電気がチラチラついたり消えたりしたので、パソコンは電源を落として、スマホで記事を書いている。
 しかし雷鳴というのは、恐ろしいが反面豪快でもあり、家の中など安全な場所で聞く分には気分的にはスカッとする、と言明しては顰蹙を買ってしまうかもしれないが・・。
 暗い部屋の中で雨の音と雷鳴を神経を研ぎ澄まして聞いているのは、なかなか得難い時間だと思う。
 今停電の影響で市営地下鉄が運転見合わせとのメールが届いた。私も現役ならば、仕事で招集がかかって職場に駆けつけなければならなかったかもしれない。事故の無いことを祈ろう。

 雷と言えば、むかし針ノ木岳を目前にした登山道の鞍部で突然の雷雨に襲われ、小さなピークを駆け下りハイ松の中で「もうだめか」と観念したことがある。ほんの4~500メートル先で連続するいなびかり。あの時の目の目の光と音の圧倒的な凄まじさと、恐怖感をとおり越した諦念は忘れられない。最初にわいてきた恐怖をあじわっているとき「自然に対する祈り」というのはこんな感情からわくのかと思った。それが諦念に変わったとき、自然に対する畏敬の念、ということが飲み込めたような気がした。チョット違うのかもしれないが。
 次の山行では、水晶岳から水晶小屋への下りで雨が降り出し、小屋に入ろうとした瞬間に後ろで衝撃が走り、ものすごい音が響いた。衝撃にしばらく呆然としていたが、小屋の人も口をあけて言葉を失っていた。小屋のそばに落ちたらしい。またしても九死に一生の体験だったようだ。私は小屋の人と思わず笑ってしまった。笑うしかなかった、というしかなない。そのあと足がブルブル震えはじめ、なかなか止まらなかった。次の小屋めざして歩き始める気力が出てくるまで約2時間もかかった。2時間も休まざるを得なかった。

 こんなことを書いているうちに、雷と雨はおさまってくれたようだ。
 

「ドビュッシー、音楽と美術」展

2012年09月18日 14時00分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日ブリヂストン美術館に出向き、「ドビュッシー、音楽と美術-印象派と象徴派とのあいだで-」を鑑賞した。ドビュッシーの音楽はこれまでどうも私の耳にはあわないようで、敬遠していた。




 ドビュッシーの絵画や彫刻、舞台芸術関係の人々との交友関係からドビュッシーの音楽を紐解こうというもので、それらの関係する人々の絵画作品が展示されている。またジャポニスムの影響を具体的な作品を列挙している。
 印象派や象徴派の芸術運動とのかかわりから音楽家を見るという展示は新しい視点とは思いつつ、何分知識不足というか肝腎のドビュッシーに対する思い入れが少ない身には、少々難解・理解不足であった。あくまでも鑑賞者である私の方に難がある。
 ただし図録を2500円にて購入したので、購入した分の勉強は今後する決意をした。

 しかしよりによって、わざわざ会期末の3連休の混雑する日にいかなくても良さそうなものである。私も会場に足を踏み入れてから、反省した。もともと人ごみが嫌い(好きな人はいないか)で、根っこにはどうしても人間嫌いな核というものが心の奥底にある私には、とても耐えられない混雑であった。他の人には耐えられる許容範囲の混雑であろうが、私は逃げ出したかった。もっと人出の少ない日、会期末とはいえまだまだいくらでも都合がついたはずなのに、これも迂闊であった。
 そんなこともあり、後半はただあるいてどんな絵が展示されているのが、一通り確認した程度で早々と会場の外に出た。
 これから図録を見て、おいおい勉強していこう。

日比谷公会堂及び神奈川県立歴史博物館

2012年09月16日 00時39分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は退職者連合主催、連合共催の「全国高齢者集会」に参加のため、日比谷公会堂に出向いた。集会後東京駅までデモがあり、八重洲地下街の居酒屋で一息ついてから帰宅した。

 さて、この日比谷公会堂、かつて学生時代の1973年6月に吉本隆明氏の講演がここで開催され、訪れたのが始めてであった。その後、組合の動員で2~3回ほど中に入った。しかしここの1階エントランスホールが「アーカイブカフェ」となっていることは今回初めて知った。1973年の時、このエントランスホールはどのようになっていたか、まったく記憶にない。確か今と同じく2階から入場したような記憶があるが、その記憶も不確かである。
 本日この1階ホールに入ってみたが、1929年以降の主な歴史的集会の一覧などが展示されていた。喫茶店にもなっていたが、コーヒーが500円ということなので、これは高いと思い、遠慮した。ただこの歴史をしるしたパンフレット500円は購入してよかったかな、と反省している。またの機会に購入してみようと思う。




 もうひとつ書き忘れていた。一昨日の金曜日、午後に神奈川県立歴史博物館を訪れた。特別陳列「夢窓疎石と鎌倉の禅宗文化」を見てきた。
 展示物で印象に残ったのは、「菩薩半跏像」(神奈川県指定文化財、南宋時代)。左足は下に座り、右足はその座った面まで高く上げ、その右ひざに右手の肘を乗せ、をすっと伸ばした姿勢が何ともリラックスした菩薩に見える。表情も人間的な表情で、とても親近感のわく顔である。(パンフレットの裏面中央参照)。しばらくこの像と対面していたが、しかしこの説明がよくわからない。どこの寺のもので、中国の南宋からどのような経緯・経路で神奈川県にもたらされたのか、説明ではちんぷんかんぷん。ネットで調べてみたがやはりよくわからない。残念である。同時に見ていて飽きないすぐれた仏像であるので、また見ることのできるのはいつ、どのようなときなのか、という情報も記されていなかった。
 そして肝腎の疎石関連の展示であるが、頂相(ちんそう)や疎石の絵画像、筆跡などがいっぱい並べられているものの、私のように名前は知っているが、「夢窓疎石」の思想や業績などの基本的な知識がまったくない者にとっては、理解しきれないものばかりだ。
 自分の不勉強を棚に上げての感想だが、疎石の業績や思想との関連から、展示物の説明書きを作成してほしかったと切に思う。
 疎石の手紙類も多数展示してあったが、私には残念ながら「馬の耳に念仏」状態。もう少し展示の説明の工夫がほしかった。