Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

日比谷野外音楽堂

2010年01月31日 14時44分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は「チェンジ!日米関係、普天間基地はいらない、辺野古・新基地建設を許さない、1.30全国集会」に参加した。
 「民意」で自公政権から政権を奪取した、連立政権。日米関係がこれまで民意とりわけ沖縄の民意に耳を傾けることなく、「政府の外交交渉に基づき」履行されてきたことに対し、連立政権は、その出生の根拠から言っても当然にもこれまでとは違って「民意」を最大限尊重した日米交渉に臨まなくてはならないはずだ。
 むろんアメリカという巨大国家を相手にする以上、着地点や経緯、経過的で暫定的な合意などいろいろの結果があるだろうが、当該地の「民意」、日本の世論を交渉の最大限の切り札とするよう変革を望みたいものだ。
 戦後の歴代首相が「民意」をまったく無視をして日米関係をこなしてきたとは言えないだろう。多分「民意」を出しても一蹴され続けたのだろう。
 米ソ冷戦構造の最前線ともいえる極東アジアにおいて圧倒的な力を誇示しようとするアメリカ相手の交渉に「民意」を切り札とすること自体が無理難題、との立場でもあったのだろう。それは日本が「日米安保」という選択をしたときから強いられたものである。この体制を強引に選択した保守政党は口が裂けても、泣き言を国民の前に吐露するわけにはいかないだろう。結果、非核三原則も「密約」の中に密封されることになった。
 しかし冷戦構造が崩れた今こそ、また、力関係が大きく変化した今こそ、「民意」という切り札が浮上して当然であろう。その交渉の結果の検証はまた「民意」で行うしかない。そのことの決意が、鳩山政権にあるのか、いや持ってもらわねばならない。

 主催の実行委員会を構成する「フォーラム平和・人権・環境」はどちらかというと旧総評系の労組の平和運動の受け皿的な組織だから、当然日教組や自治労の組織動員者が多いが、きわめて幅広の参加者となった。
 私もこのような集会・運動は否定しない。労働組合としてこのような集会を積極的に参加すること自体は否定しないし、役割も大きいと思う。特に公的サービスを担う部門の人々にとってだけでなく、さまざまな労働組合にとって。
 しかし昔の総評のように政党の運動の下請け・代行となることだけは自覚的に避けてもらわなければならない。また参加者も、市民団体も、この組織に政治活動の「下請け・代行」を期待してもらっても困るし、それは自立的な市民運動や個人の運動とは位相が違うと思う。また市民団体を名乗る群小の政治的な団体も、そこに寄生しているようでは存在ものものが問われるだろう。
 なぜ労働組合がこのような運動に主体的にかかわらなければならないか、私にも解けないが、常に自問自答、疑いつつ‥かかわってほしいものだ。
 主催者発表の6000名。野外音楽堂公式情報では立ち見を入れて3100余名だが、通路も座りきれず、入り口から人はあふれ出し、舞台裏まで満杯。出入りを考えると主催者発表もあながち水増しとも思えない。しかしマスコミにはごくごく小さな扱い、短信記事程度というのもいかがなものか。

 集会の最後に「デモ行進出発ソング」として「沖縄を返せ」が舞台で歌われた。私たちの世代では、1972年の沖縄返還の闘いで、復帰運動そのものへの違和が前面に押し出された。歌っていた方もそのような潮流にいた方と勝手に推察した。40年も前の歌を政治的な課題で歌うときは、背景や時代の流れやを十分に検証しないと‥。歌っていた方が何の違和もなかったとしたら、また実行委員会の中で議論がなかったとしたら、それは残念である。
 (議論はあったようだ。昨日は「民族の怒り」を「琉球民族の怒り」に変えていた。だが、だが‥、やはり私はこだわる。)
 私も1972年当時そのような運動の中にいた。何しろあの「沖縄を返せ」という歌に含まれる「民族の怒りに燃える島 沖縄よ」という歌詞、20代はじめの私はどうしようもなく体の奥底から拒絶反応を示した。
 「民族独立論」「国民的歴史学」やらを声高に唱える共産党系の学生運動家がなにやら新宗教の伝道者のようにひたすら「沖縄を返せ」とやるものだから、余計いやだった。「民族」という言葉自体が政治的にはあいまいだし、琉球という歴史的な背景も捨象された「民族」概念、しかも日本で歌えば日本民族への同化の強要だし、沖縄では意味合いも違っていたろう。
 しかも沖縄現地の人々の思いと当時の私たち思いのズレもあったろう。また「本土復帰運動」そのものが時間の流れの中でさまざまな思いを飲み込んでいたこともあり、沖縄の人々の「本土復帰」「沖縄を返せ」の意味合いもさまざまであったろう。そこまで思いをはせるには、私たちの思想も未熟であったろうし、戦後反体制の政治思想としても「沖縄」はあまりに重過ぎたのかもしれない。
 どのように歌詞を微妙に変えていたとしても、メロディーに張り付いたイメージをどういい繕っても、苦い重いや、いたらなかった思いへの苛立ちもある。新しい時代の新しい運動には、あたらしいメロディーとあたらしい言葉による詩が必要である。
 そんな40年近い時間の流れに思いをはせた集会でもあった。


 集会内容とは関係ないが、日差しも冬とは思えないポカポカ陽気で、日焼けした。
 そのためかどうか、朝から鼻を中心とした顔の中心部分範囲が重苦しい。風邪なのか、鼻炎なのか、日焼けなのか、なんとも情けない次第だ。


☆★☆参考までに集会決議★☆★

 1996年日米両政府は、宜野湾市の1/4を占める普天間基地の全面返還を合意しました。普天間基地は宜野湾市の中心部にあり、滑走路延長上のクリアゾーン(危険性が高い土地利用禁止区域)が市街地に張り出し、そこには保育園や小学校もあり宜野湾市民約3600人が生活しています。5年前には基地に隣接する沖縄国際大学に米軍ヘリコプターが墜落しました。現在も米軍ヘリが頻繁に飛び交う普天間基地は一刻も早く無条件に返還されるべきです。
 しかし、13年経った今も返還は実現していません。その理由は、普天間基地返還の見返りに米国は辺野古新基地建設を要求し、これまでの日本政府もそれを容認してきたからに他なりません。この背景には、新基地建設に絡み1兆円ともいわれる基地建設事業の利権が見え隠れしています。
 新基地建設で沖縄は豊かになるどころか、危険と生活破壊を増幅し、ジュゴンが生息するたぐいまれなる自然環境を失うことになります。
 辺野古がある名護市民は、24日の市長選挙で、新基地建設に反対する立場を明確にしました。全国の市民、労働者はこの民意を守るため闘わなければなりません。
のどかな島沖縄はかつて戦場となり、米軍に占領され、基地がつくられ、今も危険と基地被害にさらされる生活を余儀なくされています。
 日米安保50年、冷戦終結20年を迎える今日、米軍再編が進む中、旧来の核・軍事力を背景とした抑止力に頼る安全保障のあり方が根本的に問われています。日米地位協定や思いやり予算の根本的な見直し、米軍被害の徹底検証も取り組まなければなりません。
 安全保障に特化した日米関係を見直し、鳩山連立政権の東アジアの平和と共生に向けた基本政策を強めるべきです。
 鳩山首相は沖縄県民の痛みを受け止め基地問題の解決を図ろうとしています。これを孤立させることなく、普天間基地返還、辺野古・新基地建設反対、沖縄をはじめとする全国の米軍基地の縮小・撤去に向けより大きな闘いを目指そうではありませんか。
右決議します。
チェンジ日米関係!!
普天間基地はいらない辺野古・新基地建設を許さない1・30全国集会
参加者一同

長谷川等伯、予習‥

2010年01月29日 23時59分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
本日の購入
「別冊太陽 長谷川等伯」(平凡社)
「日本風景論」(池内紀、角川選書)
「週刊 江戸」(1、2、デアゴスティーニ)
 JRの駅に掲げられている東京国立博物館の長谷川等伯の「楓図壁付」、この楓の幹の後ろの青が何を描いているのかどうしても気になって、平凡社の「別冊太陽 長谷川等伯」を購入した。
 しかし流れをあらわす線があるように見えるので川かと思うが、切れていて右側にある青の部分とつながっているようで、つながってはいない。沼か池とも解釈できる。結局この画集でもわからず、解説文でもよくわからない。
 これは実際に目で見ての判断になるかと思う。
 しかも尾形光琳の紅白梅図屏風の大胆な川の曲線とよく似た曲線、幹のゴツゴツした印象と対照的に滑らかなカーブ、なかなか共通点もあり、違いもあり、興味深い。
 東博に行く前にぜひとも予備知識を仕入れていたいので手ごろの画集と思った。
 「日本風計論」は題名が気に入って、中身も読まずに即購入してしまった。
 「週刊 江戸」はまったくの衝動買い。

長谷川等伯にドキッと…

2010年01月27日 12時22分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 通勤電車の窓からホームの向こうに東京国立博物館の広告「長谷川等伯」が鮮やかに見えた。通勤時の頻繁な列車の往来や人の混雑の中で、ほんの一瞬の偶然だった。
 是非見に行きたいと思っていた企画であったので、その偶然に驚くと共に、雑踏の中での鮮やかな異彩に敬服した。
 「楓図壁貼付」という今回の企画展の目玉作品だが、太い幹の後ろの青い部分がよく目についた。あれは何か、実際に目にして判断してみたい。一瞬の映像だが、あの青い色が印象鮮やかに脳に張り付いた。
 桃山時代の作者としか知らないが、現在の喧噪と色の氾濫の中で負けずに自己主張している。決して際物ではないと思う。

 通勤電車の中で、最近は出版社や博物館・美術館のメルマガに目を通しているとつい、30分が経ってしまう。読書なら時々眼をあげて社外の風景をみるが、携帯のメルマガはイヤホンと同じく社会からの関係やを自ら断ってしまっているのかもしれない。
 一心不乱に携帯のメールやゲームに熱中している人々と自分が同じことをしているのかと思って、反省した。


 いつも不思議に思うのだが、聴覚をイヤホンで遮断し、においのきつい化粧品で周りからの嗅覚を遮断し、目を閉じれば、あとは触覚しか残らない。味覚はこの際省く。
 感覚は刺激が強いほど、長時間さらされるほど麻痺して強い刺激を求めてしまう。
 迷惑なイヤホンの音も、悪臭そのものの化粧の匂いも、声高な会話も、自己と他者の関係の重大な危機、岐路の証左に思えてならない。
 少なくともこれでは危険を感知することもできない。車内での化粧の可否もいろいろ言われているが、マナー云々では話は脇道にそれてしまう。他者との関係を遮断して、一心不乱に自己の所作にのみのめりこむこと、自己を無防備に曝け出すということの可否を喚起することの方が必要な気がする。

緊急地震速報

2010年01月25日 23時42分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は6回目の新年会。いやはや、メタボに拍車がかかりそう。と愚痴をいっても、現役から退けば招待されることも、主催することもなくなったり、極端に数が少なくなるわけで、それはそれでまた愚痴の種になってしまう。
 本日何気なくアクセス者数を見たら7500、アクセス数13000と言う数字を超えていた。むろんブログを設定していく月も放置してあったために、その間にのぞいた方の数も含まれる。が、それにしても昨年の8月にブログを本格的に初めて本日97回目の投稿だが、これだけの数になるとはびっくり。
 のぞきに来られた方、定期的に見ていただいている方、感謝。

 「ブログは帰りの電車の中で読んでます。「ものごとを哲学的に考える人」がいるということは、とても刺激になります。あまりにも精力的で、少々心配です。くれぐれも年相応にお願いします」という感想をいただいた。うれしくもあり、恥ずかしくもあり、ただただありがとうございます。同時に「年相応」に行うことも誓います。

 本日16時過ぎに「緊急地震速報」、携帯電話を切ってあわてて気象庁のホームページを見たら大隈半島とのことらしい、との判断はできた。しかし「16時12分に地震発生」の後に緊急地震速報が出て、「16時16分」に発生の一報も掲載されていた。私は二度同じ場所でほぼ同じ地震規模かな?と思ったくらい。そして正しい情報は少なくとも17時15分までは掲載されていなかったと思う。ところが今は、ホームページに「16時25分発表」という情報が載っている。
 できうる限り正しい情報が発信されるのが必要だが、混乱した不確かな情報が独り歩きするのもきわめてまずい。
 確実なものだけが掲載されたり、携帯電話に情報として送られることも大切なことだろう。難しい問題が多いだろうが、気象庁の発表のあり方、改善の余地はまだまだありそうだ。

昨日の購入
「天武朝」(北山茂夫、中公新書)古書店にて
「柿本人麻呂」(北山茂夫、岩波新書)
「政治家の文章」(武田泰淳、岩波新書)

コーヒーの木

2010年01月24日 11時17分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 2年半くらい前だったか、200円くらいで小さなコーヒーの木を購入した。手のひらに載る黒いビニールのポットに楊枝のような幹が2本寄り添うように刺さっていた。
 カーテン越しの南向きのベランダ側においておいたらあれよあれよという間に大きくなった。2本、ほぼ同じ大きさに育ち、葉が重なるようになってきたため、昨年夏前に二つに分けた。同じといってもやはり微妙に大きさが違う。このままに放置をすると、差が大きくなって一方は淘汰される運命だったかもしれない。
 大きい鉢の方はさらに大きくなり高さが90センチを超えた。古い鉢の方の伸びは鈍化し、高さは75センチほど。鉢が小さく窮屈そうだ。
 花が咲くのか、楽しみではある。
このコーヒーの木、葉が旺盛に出てくるが、葉と枝の生え方は面白い。すべての葉は枝に対象に対生で出てくる。枝の先端から葉が2枚出てくると、それを左右に従えて真ん中から目が出て枝が伸びていく。そのうちに葉のすぐ上に棘のようなものが1本葉の主脈部に平行に伸びていく。
 葉の上を伸びていく枝にはやはり対生でつぎつぎと葉が出てくる。我が家のでも11対22枚の葉が出てきてまだ先には新芽がある。
 中心の枝の先からは次の対生の葉が2枚、下の葉とは直角に出てくる。この葉のすぐ上からも棘が1本でて、葉の主脈に沿って伸びていく。対生の葉のすぐ上に対生の枝が横に伸び、中心の枝も次々に葉と枝を出しいてく。対生の葉と枝が交互に直角に交わっている。ところが、この幹のすべての対生の葉のところからすべて枝が出ているかというと、違うのである。我が家の場合、下から3つ目まではすべて枝が出た。その後二つ分の対生の葉のところからは枝が出ていない。そしてまた2つないし3つ目までは枝が出てくる。何とも不思議な枝の出方である。
 しかも幹以外の枝の葉からは、枝となる棘は決して出てこない。
 不思議なものである。この幹と枝における、枝発生の規制は植物の成長過程を律する遺伝子に組み込まれているのだろうか。ウリ科の巻きひげのように物理的な必然性で巻かれていくのではなさそうだ。
 対生の葉と枝、確かに日の当たりを十分受けるような形ではある。だが、枝の下の葉にとっては、枝はとても邪魔であると思われる。この幹から直接出ている葉は、葉の先端を幹につけるように垂れ下がり元気はなくなる。しかしかなりしぶとく生きている。日当たりは悪いがそう簡単には落葉しない。
 木は左右に大きく伸びやかに枝をはりながら、上にも旺盛に昇っていく。このエネルギーには、圧倒される。この歳になるとエネルギー旺盛なものからエネルギーをもらうというよりも、圧倒されてしまいそうな気持ちになることの方が多い。どうも50代というのに、情けない話ではある。

炎を見る

2010年01月23日 12時59分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩も新年会、こちらは当方が主催者。45名もの参加者が足を運んでくれて感謝。18時半から20時半まで。主催者としてほとんどお酒も料理も口にしなかったが、最後のほうでいくらか。
 帰り際、突然の激しい腹痛で途中で二度ほどコンビニに駆け込んだ。日付の変わるころには回復したが、心配になり他の参加者に問い合わせたが異常のあった方はなく、私一人の症状のようだった。
 帰宅後、風呂で温まりテレビをつけたら、NHKの「美の壷」で暖炉を放映していた。西洋の暖炉、明治の近代建築に取り入れられた暖炉、現代の暖炉、なかなかうらやましいものである。
 ログハウスと暖炉、雪に埋もれながら炎の前でお酒を少量傾けながら、揺り椅子でくつろぐ夢を持っている。個人所有ではとても実現できない夢だが‥。
 暖炉に限らず、ほのおを見ること、ほのおに安らぎを覚えることは、人間の種(しゅ)としての誕生と生存の背景として火が位置づけられるほど、人間の原初からの習いなのだろう。
 和風の囲炉裏、焚き火、北海道に住んでいたころの薪ストーブや石炭ストーブの空気穴からのぞいた焔、小学校の教室の大型石炭ストーブ、灯油ストーブの炎、どれもじっと見ているのが好きだった。小さいほのおでも決して同じ形になることはなく、それゆえに見飽きることはない。
 いくつかの印象的なほのおを思い出すままに。

 まずは山小屋での火。営業小屋での石油ストーブの周りでタオルや靴下を乾かしながら炎に見入っているのは不思議と体も気持ちもやすらぐ。願わくば周囲の静かな会話を願うばかりだが。ある小屋では石油ランプを明かりとしていた。就寝までの間、壁に待たれてランプの炎を見るともなく眺めながら、翌日のコースを想定し反復するのは快かった。明るさもまぶしすぎず、目に柔らかかった。

 もうひとつは、ある民間の労働争議の支援で、幾晩か、労働再建としての社屋と敷地の防衛のために徹夜で見張りの手伝いをした。昔の労働争議の多くのパターンだったが、そんな形態の争議が技術の最先端をになう企業でつい30年ほど前におこった。それ以降こんな形態の争議はめったに聞かなくなったような気がする。
 徹夜で待機をしながら、一斗缶に無造作に投げ込んだ木片の焚き火を見つめ続けた。同じ組合の仲間と支援のローテーションを組み、所属する組合のあり方をいろいろ議論しながらすごした。ほのおをみながらの話は、不思議と本音をじっくりと語ることができたように思う。日中、太陽の下、あるいは人工照明の下だと、威勢のよい他者批判、建前の論議がが飛び交い結局のところ、これからどうしたいのか、はっきりしないまま終わる会議に比べ、薄暗い中で温かみのあるほのおを見つめながらぼそぼそと語るほどに、お互いの本音が出たような気がする。
 
 最後にろうそくのほのお。小学生のころはよく停電となった。停電のたびに備え付けのろうそくを灯して、そのまわりに家族が集まった。便所に行くたびに家のただひとつの明かりが移動し、壁に不気味な黒い人の影が大きく映った。ろうそくの明かりで風呂に入った記憶もある。
 暗がりの便所も風呂も、むろん居間も不気味だが、ろうそく1本でこんなに安心が手に入っていたのかと、今思い返している。隙間風のある便所や風呂場は時々ほのおが大きく揺らいで消えそうになり、黒い煙が細く長く立ち上がると不安が増した。そして元の安定した形に戻るとほっと安心が戻ってきた。
 高島野十郎のろうそくの炎を見て、こんなろうそくのほのおの記憶がよみがえった。高島野十郎の絵のカタログに従って漢字で蝋燭と記すと、野十郎のほのおのイメージに近いかもしれない。何点もの蝋燭の絵があるが、私の見た展覧会やカタログでは、ほのおは細く長く立ち上がっている。不安定なほのおになった瞬間か、それが収まろうとしている瞬間かはわからない。不安な気持ちになる瞬間か、不安が安定に向かう瞬間かがわからない一瞬ということだ。しかしじっくりと見つめ続けていると見ている我々の心のありようによってさまざまな表情も見せてくれる。
 野十郎の絵は、昔私が蝋燭のほのおを見つめていたころの気持ちを思い起こしてくれる。そして実際に蝋燭を見続けたように、絵を見続けてしまう。
 昨年武尊山のふもとの小屋に泊まったとき、蝋燭に火をつけてみたがランタン仕様のろうそく立ての不具合で消えてしまった。それでちいさなガラスの器(厚手のぐい呑み)にろうそくを溶かし手ごろなろうそくを作成した。次の山行に携行したい。

 下痢と腹痛と吐き気が治った直後に、21日のことを記載した昨日のブログ「星を見る」は、誤字脱字が多く、本日訂正。

星を見る

2010年01月22日 23時58分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜、新年会終了後約7㎞を歩いて帰宅。気温が下がり風も強く、身をすくめてしまう。姿勢をたださなくては、と胸を張るが、いつの間にか前かがみで、つんのめりそうになりながら歩いている。
横浜のみなとみらい地区の合間はいつもに増して強烈なビル風が吹き荒れていた。出たばかりと思しき半分の月が高層ビルの間からのぞいたのには気付いたが、星はビルの明かりに消されて探す気もおきなかった。
星をじっくり見たのはいつだったか。山の頂上付近で宿泊した時はいつだったか。一昨年の早池峰山の小屋では、天空の半分以上は山の影で北極星の周囲しか見ることが出来なかった。
 その前の蔵王縦走では曇って見えなかった。もう7年も前、山での星空は2003年の夏の乗鞍岳で見たのが最後か。その時の夜空は雲ひとつ無く、星空を満喫した。
 寝転べは峰から峰へ天の川 (Fs)

 山での星空はいくつか思い出があるが、勤めてから35年、都会での星空の記憶はまったくといっていいほど無い。仕事とそれに関連する日常に追いまくられて、空を見る機会を失ってしまっていると断言できる。
 俳句を2002年にはじめたときから身の回りの自然、特に植物や動物や気候には目が向いたが、星の俳句は上の俳句ぐらいだと思う。夜は闇であり、花の匂いをそれとなく感じるだけとなっていた。
 五月闇水の匂いのその先に (Fs)

 わが団地の西側は丹沢と富士がよく見える。仕事の帰り際、西の空に宵の明星、オリオン、シリウス、木星・土星などの雄大な眺めを見ることがあっても、立ち止まってじっくりと眺める心の余裕はこの30余年無かった。
 学生時代、サークルで仙台の冬の空の下で流星観測や、暇なおり、ただひたすら星空を見ることをよくした。星空の観測は寒気が身に沁みて、外気に体の心まで侵食されて始めて「星を見つめた」という気分になるものだということを体験した。凍えた体で部屋に戻ると、暖房の効いていない安アパートの中も暖かく感じた。
 この歳でそこまですれば風邪をこじらせること間違いはないが、せめて外気をいっぱいに体に沁みさせるように深呼吸をしながら、星座を20個くらいは同定するまで、星を見ていたいものだ。
 そんな心のゆとりが痛切にほしいと思うようになった。
 夜のウォーキングにこんなに精を出していながら、星座のひとつ、惑星のひとつ、一等星のひとつ見つけないで、1時間以上も歩いているなんて‥。 

プリンターがようやく退院

2010年01月20日 12時42分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日ようやくプリンターがメーカーの修理から戻ってきた。結局1ヶ月もかかった。個人使用だからこそ、保守点検契約もなく、バックアップの代替えも無く、お手上げ。
 原因はリサイクル品のトナーカートリッジが、駆動部分とうまくかみ合わなかったため、との指摘だが…、その程度で本体の方が壊れるというのは、素直には合点がいかない。純正品でもカートリッジの方が頑丈なのだろうか?
 取り敢えず、別のカートリッジに替えて順調に再スタート。トナー2本が無駄になった。
 22日のイベント用の印刷物50枚と、式の進行表などを20枚印刷。整理したりして、就寝は朝3時。
 昨日は背中の鈍痛を抱えたまま出勤、午後からようやくおさまった。
 今朝はまた鈍痛がひどくなった。寝不足がいけないこととは重々承知をしているが、なかなか実行できない。やむなく午前中、血圧の薬を服用したものの、最低血圧がさがらない。
 本日も深夜までかかりそう。

本日はダウン

2010年01月18日 21時07分21秒 | 読書
 朝から血圧が高そうな気配(経験からすると、最高値か最低値のどちらかが一定の数値を超えるといつも背中の心臓の後ろ辺りがだるく、鈍痛がする)ので、計測すると最高値がその数値を超えていた。
 薬も明日切れるので、午前中休暇をとって通院。ストレスを溜めるな、ゆったりしろ、といつも先輩や同僚にいわれているが、今回は心当たりはない。昼過ぎになっても鈍痛は治まらず午後も休暇を取る。
 病院からの帰途、本屋で「ユリイカ」が白川静の特集をしているのを発見して、即購入。楽しみ‥だが、先に北山茂夫の「大伴家持」を読み終わらなくては収拾がつかなくなる。
 ようやく夕食前に読了。

ということで本日の読了
「大伴家持」(北山茂夫、平凡社ライブラリー)
 あせらずゆっくり読んできたが、なかなかの評伝だとおもった。岩波で現在手に入るのは、「柿本人麻呂」「万葉群像」「女帝と詩人」「日本古代内乱史論」「柿本人麻呂論」。他には「天武朝」(中公新書)あたりが手に入いりやすそうなので、順次読もうかと思う。
 ライフワークの「萬葉集とその世紀」は古書店で検索するしかないようだ。しかし1985年の本が絶版で、発行元の新潮社のホームページで検索しても「検索結果0」との表示は何ともさびしい限り。

第24回MICHI展

2010年01月17日 21時28分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 寒い日が続いて太ももと背中が風邪模様のような‥。この一ヶ月、一晩寝ると治ることを3度ほど繰り返している。

 さて本日は、中・高時代の友人の属している「吉崎道治(一水会)門下生絵画展「道展」」に馬車道まで出かけた。毎年拝見させてもらっている展覧会。友人の絵(カラフルなベールと衣装で全身を覆った砂漠の3人の女性像)はなかなか強い色彩の絵。出色だったような気がする。しかしこんな強い色彩の絵を書いていたかな?とちょっとびっくり。他に、3点、強い日差しの壁画の前に座り込んでいる人物を描いた作品、湖の朝の釣り船を描いた作品と、烏瓜の作品が印象に残った。
 この道展の絵にいつも感心するのは、背景や壁や雲の無い空、海・湖の遠景など、単一の色調の大きな画面を塗りこめるとき、とても丁寧に微妙な筆遣いや色の微妙なニュアンスをつけていること。他の展覧会にいってもそのようなところの描写では単調になったり、筆使いが他の描写と不釣合いになったり、塗り込めに破綻が生じるのが通例のようだ。
 絵については、特に技法についてまったくのど素人、門外漢の私の感想ではあるが‥。今回の友人の絵も背景は何の景色も無く、砂漠のような色に地面も背景も塗りこめてあるが、これが微妙な変化があるので、赤・黄・緑の色の色彩の衣装が際立ってくるように見えた。
 受付にいた友人に帰り際に声をかけようとしたら、いなくなっていたので記帳のみで帰宅。

昨日の購入本
「新物理の散歩道 第5集」(ロゲルギスト、ちくま学芸文庫)
学生時代も岩波から出版されていたものは知ってはいたが読んだことはなかった。本屋で目に付いたので衝動買い。もうすでに活動というか執筆は終了になっていたように思っていた。内容は1979年から1980年にかけての物。


「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から ⅩⅢ表紙とあとがき

2010年01月16日 00時08分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 冊子からの転載は今回で終了。今回は、絵は表紙、文章はあとがきを転載してみた。

 趣味で始めた切り絵ですが、幸い福島市内で飾ってもらえるお店が見つかり、その上、福島.県新地町の海辺のギャラリーで個展までさせてもらいました。
 横浜の近代建築にも挑戦してみました。声点か二点のつもりが、Fsさんの口車に乗って、九点にもなりました。とりあえず一区切りです。本人としてはなかなか気に入ってます。
 こんな形で冊子になるとは考えてもいませんでした。これを見て私の切り絵が気に入:ってもらえたら幸せです。(さとうてるえ)

 さとうてるえさんは大学時代から細かな手仕事をコツコツとこなしていました。クラスやサークルの文集などガリ版で、きれいに作ってくれました。
 突然切り絵を送ってもらい、横浜の近代建築の資料を求められました。写真だけを頼りにこんなに立派な作品に仕上げる力量に感心しています。
 私の発行する労働組合の機関紙の一角に、私の文章を添えて利用させてもらいました。切り絵の水準に見合う文章ではなく邪魔かもしれませんね。(Fs)

 約10年前のきり絵と文を8年半ほど前に、100部ほど自宅のプリンターで印刷して20ページ余の冊子として、友人に配布したり、さとうさんは個展の会場で販売したようだ(売れたのかどうかは確認していない)。
 そのままになっていましたが、今回こんな形でオーブンにしてみました。皆さんの目に留まり、目を通していただければさいわいです。

「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から  ⅩⅡ花歳時記(抜粋)ゆうすげ

2010年01月15日 23時15分52秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ユウスゲは山歩きを楽しむ人には馴染みだ。葉は少し黒っぽい、というより光を反射する小さな毛がなく、しなやかで落ち着いた色合いといったほうがふさわしい。
 分かれた茎の、重さのためかちょっと曲がった先に、尖ったつぼみと花が並んでいるのは、なかなか見飽きない。茎と花の重さが微妙なバランスを保って上向きに花が咲いている。かすかな風に敏感に反応するつややかで、そして不規則な動きが、見飽きない要素のひとつだ。一方で、かなりの風に揺れても倒れることはない。
 花びらは6枚。タ方開いて、翌日の午前中には萎む。一株でかなりの花が咲く。植物にとっては多くのエネルギーが費やされる。その豊穣を生む力が恋の歌の源となる。
 深夜に咲いているのを見たことはないが、人目に知れず夜露と朝露に晒されることで、あのあでやかな黄色が生まれるのではないかと思う。

タ焼けに黄色の波は揺れ止まず
黄すげの原に俤(おもかげ)騒ぐ (Fs)
夕風に黄の頭を廻らせて
ゆうすげたたずむ尾根の下 (Fs)

 今回のゆうすげでこの冊子の転載は終了となる。次回は表紙とあとがきを掲載する予定。

丹沢の眺め

2010年01月14日 04時06分28秒 | 山行・旅行・散策
 横浜では昨日の朝、丹沢が白く雪化粧。嵐の時のような低い黒っぽい雲を従えていたが、しだいに速度を増して晴れ渡って行く途中と見受けた。くっきりと近くに見える丹沢を私はとても美しいと感じる。
 神奈川県の各地域からの丹沢は、その位置によって大きく姿が変わる。横浜市内からもずいぶんと違う。大山が塔の岳、鍋割山、三の塔などとの位置を変えて見える。時には独立峰の様に、時には他の山と区別無く。
 まだ小学5・6年生だったころ横浜のもっとも西に近いほうから毎日丹沢とその向こうに富士山を正面に見ながら毎朝近くの駅まで15分通った。そのときは丹沢という名も知らなかった。冬の間少なくとも12月から2月までの大半は雪をかぶっていたように思う。また秋と春の雁の渡りを丹沢と富士をバックに見飽きることなく眺めていた。
 横浜に戻ってきて、横浜駅の近くから眺める丹沢と富士を毎朝見るようになって、「やあ久しぶり」という声をかけたくなった。しかし少し遠めになり、しかも富士と丹沢が離れて見える。この見え方の差、そして丹沢と富士の距離の微妙な差が面白い。横浜は坂が多い。坂を上りきったところに、丹沢と富士が微妙な距離感を持ちながら鎮座しているのを見るたびに、その微妙な差を楽しむことにしている。港から、根岸の山の上から、権太坂の上から、上大岡の高台から‥。横浜・川崎あたりからの眺めが遠すぎず、近すぎず良いのかもしれない。
 富士が大きすぎても、小さすぎても良くない。高くつんと澄ました富士、頂がつらなり横に広がる丹沢。丹沢はどの峰もしゃしゃり出ることはなく、全体としてどんと構えている。ゆったりと豊かな水と森とそこに生息する動植物を抱えている豊かさを感じる。
 丹沢は褶曲で海から持ち上がり、富士は火山。太平洋の海底とともに海溝まで来て、列島の下にもぐりこめずに列島と衝突しのし上げられた丹沢、列島の下にもぐりこんでからマグマとなって噴出してできた富士。出生の差がそのまま形の差となり、気象の差となり、人の暮らしの差となった。
 先日東北新幹線を北上したとき、大宮のあたりで富士が後方に見えた。あわてて振り返り見たが、富士が大きすぎて丹沢は前衛の山、富士の飾り物、あるいは付属物のように見えてしまった。遠くから眺めると富士が圧倒的にその存在を主張する。生まれも育ちもちがうのに、その飾り物、付属物では丹沢にとっては不本意だろう。つい同情してしまった。
やはり横浜・川崎あたりからの眺めが丹沢には良い。この差が信仰の差となっている根拠かもしれない。大山信仰は江戸・相模だ。
 最近では2月の数日しか、雪をかぶることはないように思う。しかも数日で雪は見えなくなってしまう。実際に山に登ると雪はあるのだが、横浜からは白くは見えない。小学5・6年生の時は幾週間も連続して白かったように記憶しているのは、間違いだろうか。そして雁のわたりは見ることはなくなった。
 しかし街中で、季節による気温の差や景観の違いを感じながら丹沢を見ると、山の表情に微妙な差を感じる。山の色の差が実際に見えるほど近くは無いのだが、春から秋にかけて変化しているように見てしまう。
そして雪をかぶるとその劇的な色の変化、透明度の変化に身がきりっと引き締まる。そんな交流を楽しみながら一年を通してつきあえる丹沢である。

先週の購入
・「万葉集」全4冊(伊藤博 角川文庫)
 これまで万葉集の歌に言及したものを読むときは角川文庫の万葉集上下を傍に置いていた。これは現代語訳はないが二巻で手元に置きやすく重宝していた。こんど現代語訳をつけて四巻になったのが、手ごろであることには違いない。訳のついていない評論などを読むときには便利だろう。
 伊藤博氏のものは集英社文庫の10巻本もある。伊藤博という方、どのような方かは存じ上げないが、大変世話になっていること間違いない。7年ほど前になくなったとのこと。感謝の気持ちを込めて、哀悼の意を表させていただきます。



「きり絵 横浜西洋館&花々の四季」から  ⅩⅠ花歳時記(抜粋)  あさがお

2010年01月13日 01時26分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 朝顔は俳句の季語では秋。立秋以降に花期を迎えるということらしい。今年(2001年)の立秋は8月7日、入谷の鬼子母神の朝顔市は7月6日から。朝顔は小学生の夏休み観察材料として利用されるほど育てやすくて、すがすがしい印象で人気がある。紫陽花が散り始める梅雨末期にもう咲き出すものも多い。
 垣根に絡まる蔓と三つに割れた葉、割れ目のある花弁、振れた蕾、葉の表面の産毛のような微かな毛、見飽きることはない。とじた花は丸まってそっと消えてゆく。
 同じ色合いの紫陽花が梅雨にあでやかに色を変じながら咲くのとは、随分と印象が違う。水をやると垣根からわずかに涼風を呼ぶ。
 朝顔には乾いた夏の土と、明るい入道雲がよく似合う。

 朝顔のかきねに立てばひそやかに
        睫(まつげ)にほそき雨かかりけり(長塚節)
 朝顔の垣根の隙(ひま)にひとのかげ(Fs)

 もう昨日になったが、12日(火)は寒かった。山形県北部に2泊して仙台経由で11日夜に帰宅したものの、こんなに寒くは感じなかった。
 職場自体が3連休で冷え切っていたためか、お昼過ぎにようやく室内は暖かくなった。職場の窓から外を眺めると低い雲、どんよりとした薄暗さから十分想像できた。午前中仕事で外回りをしたが、帰ってきて熱いコーヒーを2杯立て続けに喫した。底冷えという言葉がぴったり。
 さて肘折温泉、帰宅してからネットで検索したところ、肘折温泉と東北芸術工科大学のコラボレーションによるアートプロジェクトと称してさまざまな取り組みが紹介されていた。これは注目かな、ということで肘折温泉再訪を画策することとした。

東根温泉

2010年01月10日 23時58分55秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 東根市にある樹齢1500年以上という特別天然記念物の大けやきは小学校の敷地の隅にどっしりと腰を据え、細い繊毛のような枝先を冬空に差し込んでいた。
★大けやき雪踏む音は校舎より
 普光寺の鐘は1356年作の銘。5㎝を超える厚みの鐘に触れると、その冷たさに手を離しそうになった。そっと触れ続けていると、さまざまな振動を内に秘めているのか、かすかな振動を感じた。650年を越す年月、人々の思いを受け止めてきた温もりを感じる振動と言ったらおかしいか。陰刻の字は読めない。
 すぐ横には雪に埋もれるように6地蔵。正月らしくひとつずつみかんが鮮やかに供えてあった。傍を中学生のロードワークの声が通り過ぎた。
★釣鐘に寒さよつどえ子等の声