Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日も早めの就寝

2022年02月28日 22時44分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の体調は良かったものの、読書タイムは確保できなかった。薬局から帰宅した後は夜の講演会に備えて、ベッドで寝ていた。読書をすると肩も凝るし、目もつらくなるという理屈をつけて、目をつぶっていたら、本当に寝てしまった。
 16時に起きて、17時過ぎに家を出たものの、ゆっくりと歩いたために18時半の講演会開始時間ぎりぎりに会場に到着。退職者会の出席者確認や講演会場の写真を撮影し終わったときには、講演会は始まってしまった。
 いつもなら途中で寝てしまうこともある講演会だが、本日は最後まできちんと聴いていた。

 明日は家庭の所用で横浜駅界隈をいくつか廻る予定。今晩も早めに就寝して眩暈予防。明日からは3月。
 


「沖縄本土復帰50周年」の講演会

2022年02月28日 22時22分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 夜の講演会は、沖縄国際大学の前泊博盛教授による「自立した経済・地方自治・基地問題を語る-脱基地経済と自力経済に向けて」と題した講演。主催は勁草塾。沖縄が本土復帰を果たして50年、しかし沖縄の基地問題、本土との経済格差など「復帰時」の課題はそのまま解決の糸口すら見つかっていない。そればかりか、本土との格差はより拡大している。そんな状況を踏まえて企画された講演会である。
 前泊博盛教授の講演は2回目、前回も今回も日米地位協定の問題点を中心に実に示唆に富み、勉強になる講演であった。
 講演といっても沖縄でのオミクロン株による感染が高止まりしている状況や、神奈川県も蔓延防止策が講じられている状況を踏まえてオンラインによる講演であったが、解りやすく語ってもらえた。

 講演会は20時に終了。講演会の後は退職者会の参加者で近くの居酒屋で食事を死ながら軽く飲み会を行うのだが、蔓延防止中ということで、店は軒並み20時で閉店、やむなくそのまますぐに帰宅。もっとももとより私は昨日まで眩暈で困っていたこともあり、おとなしく帰宅する予定であった。
 地下鉄とバスで家の傍までたどり着き、コンビニの弁当を購入して帰宅。薄いチューハイを飲みながら講演会の資料を読み直して復習。

 退職者会有志で実施してきた沖縄の戦跡巡りのツァーもコロナ禍で中止になって4年目、いつ再開できるであろうか。


本日の体調は良好

2022年02月28日 16時33分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日は調子はかなり悪かった。本日は朝は9時半まで寝ていた。午後は薬局まで薬を取りに行ったが往復バスを利用。眩暈は起こらず。右膝は前後の動きは痛みはないのだが、まだ左右・捩じりが加わるとピリッと痛みが走る。しかしそれほどの痛みではなくなってきた。
 夕方になったら出かけるが、早めに出てゆっくりの歩行に心がける予定。

 歳を取ると誰もが動作がゆっくりなるが、その理由というのが、こういうことだったのかと解ってきた。まさか自分が北アルプスを盛んに縦走していた5~6年後にこのような状態になるとは想像もしていなかった。
 悲しいものである。

 


講座が無事終了

2022年02月27日 23時05分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 Zoomはうまく作動し、眩暈もおこらずに無事にオンライン講座は終了。ほっとした。
 このまま眩暈が起こらずに推移してもらいたいものである。先週よりも眩暈の時間も短くなり、その予兆も頻繁には起こらなくなってはいる。処方された薬が効いているのか、たまたまそうなのかは、私にはなんとも判断しかねる。

 明日は、薬局に行って整形外科で処方してもらった塗るタイプの湿布薬を受け取る。その足で、夜は講演会に出かける予定である。むろん眩暈の予感がするときは講演会には参加せずに帰宅する予定にしている。

 先日歩車道の区別のない道路を歩いているときに眩暈が起きると怖い、と記した。本日狭い歩道を歩いているときに、歩道を歩いていても車道側を歩いていると怖いと思った。横断防止策などがあればいいが、それすらないと足を踏み外して車道側に倒れることも怖い、と感じた。当然のことながら、ホームドアのないプラットホームも怖い。さいわい、家の近所の鉄道駅はすべてホームドアがあるのが救いである。

 明日の講演会場は山下公園のそば。鉄道はホームドア完備で特に心配はないし、歩道も広いので何とかなりそうである。

 


Zoomと眩暈と‥

2022年02月27日 19時41分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 帰宅後ブログをアップしたのち夕食までベッドで寝ていた。夕食時に起きたものの、食事直後に眩暈。ほんの3秒ほどの軽いものであったが、眩暈が起きると気分はとても落ち込む。また次が来るのではないかと、不安になる。幸い、3秒ほどの眩暈の後は今のところ落ち着いている。

 20時から21時半まで、前回Zoomの不具合で聴講できなかった「ドレスデン国立古典絵画館所蔵「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」(東京都美術館にて4月3日まで)」の解説講座。
 まずは再インストールしたZoomがきちんと作動してもらうことと、眩暈が起きないことが前提である。

 


大倉山の梅林

2022年02月27日 16時48分45秒 | 山行・旅行・散策

            

 本日は娘夫婦と大倉山の梅林を訪れた。しかし眩暈の予感が強く、さらに右膝が時々痛み、杖を突いてもごくゆっくりとしか歩くことが出来なかった。
 恐る恐る歩いたこともあり、通常ならば12分で近くの私鉄の駅まで歩けるのだが、本日は20分以上もかかった。
 さらによく知ってはいるものの、大倉山の記念館の先の梅林までの上り坂や階段がつらく、梅林の中の階段もゆっくりと歩かざるを得なかった。人出が多くにぎやかでいいのだが、小さい子どもの不規則な動きがとても怖かった。
 園内の梅の花は満開には少し早いがそれでも十分に楽しむことが出来た。日差しも暖かく、厚いダウンのコートをリュックに詰め込んでから歩いた。大きなしだれ梅や池の近くベンチ周りは子どもが楽しそうに駆け回っていた。私は近寄るのがつらいので、遠くからながめていた。


まだまだ続く杖突き歩行

2022年02月26日 21時46分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日は休み休みだったが約8千歩、本日はあまり休まずに約7千歩歩いた。二日続けてこれだけ歩いたのは、11月以来初めて。
 さすがに右膝が少し痛い。最後団地の入口の会談約100段を上るときは、杖だけでなく、右手を右膝にあてて上った。無理はいけないので、家についてはすぐに湿布とサポーターのお世話になった。
 昨日ヒアルロン酸注射の2クルー目が終了。整形外科医からは、痛みが無くならないようなので、しばらく理学療法士のマッサージを続けてみてはどうか、といわれた。一週間に一度のマッサージとその間の温熱療法と電気の低周波療法を行うというもの。
 今のところ私には他に選択肢は持ち合わせがないので、医師の提案を受け入れでしばらく様子を見ることにした。
 やはり当分杖付き歩行と湿布は欠かせないようだ。すでに杖を突いた歩行は3か月を超えた。あと2か月は続けざるを得ないと思われる。半年も杖を突いて歩くということは、これまでになかったことである。
 平坦な道だけを歩くならば、調子の良いときは杖はいらないが、階段や道路の凹凸が多いところでは調子が良いときでもつらい。
 特に階段の下りがつらいが、50段にもなると上りもつらい。

 60代になった時にはまさか自分がこのようになるとは予想も出来なかった。


「万葉の歌びとたち」から柿本人麻呂論

2022年02月26日 20時32分04秒 | 読書

      

 本日の読書は「万葉の歌びとたち」(中西進)の柿本人麻呂論といえる第2章の「韜晦の歌聖――柿本人麻呂」、「梅原猛「柿本人麻呂論」と虚実」、「御用歌人ではなかった柿本人麻呂」の3編。
「万葉集にのせる歌から年代を推測すると、持統三年(689)がもっとも早く、文武四年(700)がもっとも新しい作で、この十年間に宮廷で作歌したことははっきりしている。」
「この時期とぴたりと重なって朝廷に第一の座を占めるのが丹比(たじひ、丹治比)島(しま)で、人麻呂は彼の庇護を受けて朝廷の人となり、彼の退場にともなって朝廷を後にしたと思われる。」「宮廷歌人と称される人にはつねにかかる高官がついて廻る傾向がある。奈良朝の山部赤人‥左大臣の長屋王が存在する。‥田辺福麻呂‥左大臣橘諸兄のもとにおいてである。」
「すぐれた歌とは、その場の大衆に広く、深く、激しい共感をおこさせるような歌であった。そのためには、迎合の気味もけっして否定すべきものではなかった。‥虚構の作をも歌い、架空の死者との離別や旅での訣別を歌うといったことをトネリとしての奉仕の中に行っていくことは、おのずからに自己をまぎれさせてしまうだろう。知らず知らずの韜晦が人麻呂にあったとしても、不思議ではない。正体のわからない人麻呂が、ますますその謎を深めることにもなった。」
「人麻呂を刑死せしめるような生涯のできごとが何かあった。伝説とはしばしば諷喩なのだから、刑に身を滅ぼしてゆかなければならない人麻呂の生涯の、激越な何物かがあった。実像とか生身とかは個別的な人間像をいうのだから、むしろ個人の暗さにこそ、白鳳朝廷の歌人人麻呂の真実のあり方があった‥。‥生前において自他を区別しない懐の深さは、死後における人麻呂世界の拡大となる。このスケールの大きさに準じて、人麻呂伝説は膨れ上がっていった。‥やがて歌聖に到達するのである。」(以上「韜晦の歌聖」)
「重要なものとは、近代以前の人々のもっていた、ある心性といつたものである。人麻呂がこのような生涯をもち、その果てにかかる死をあたえられた、そして死後の人々がそれをいかに考え、どのように行動したか、そういった事柄を通して見えて来る人々の心性こそ、梅原氏のもっとも訴えたかったものにちがいない。事実はそのために不可欠だが、すべてではない。」(梅原猛「柿本人麻呂論)」

 非業の死を遂げた人々の鎮魂のために怨霊思想が形作られる以前にも、聖徳太子、長屋王、橘諸兄‥本人や子孫が非業の死を遂げると鎮魂のためにさまざまな伝承が、それらの人々を伝説の中で祭り上げられ、神聖化・神格化させていく後代の人々の心性が語られている。これらの分析と解析を経て、薄紙を剝がしていっても「事実」は浮き上がっては来ない。浮き上がってくるのは、それらを伝説化する周囲や後代の人々の権力との距離、権力への批判なのであると私は思っている。


暖かい日差し

2022年02月26日 16時57分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

                        

  暖かい日差しに誘われて、近くの公園と緑道まで歩いた。暖かいが風が少し強め。いつものように妻は自転車で、私は杖突き歩行でまずは喫茶店で落ちあいサンドイッチの昼食。昼食後また別行動で妻は買い物、私は公園と緑道まで。私はバスを利用せず往復ともゆっくりと歩いた。
 不思議なことに帰宅時間はほぼ同時。これが43年半経つということなのだろう。

 公園ではサクラの並木をつぶさに見て回ったが、ソメイヨシノの花芽はまだ固い。スマホのカメラでは小さなものにピントが合わない。一眼レフを持ち歩くには、面倒であった。しかしそろそろ杖を突いても一眼レフを持ち歩きたいものである。ものぐさはいけないと反省。

 緑道ではまだ冬の様相。水仙が寂しげ。しかしナンテンの赤い実が少しずつ皺が見え始め、黒ずみ始めてきた。またジンチョウゲの花芽もだいぶ膨らんできた。サクラの花芽よりは春の様相といったところであった。

 


「私」から「私たち」という怖さ

2022年02月25日 22時56分18秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 私が10代の頃、ことばはいつも発したとたんに自分の身に帰ってくるものだということを強く言われた。それをいう教師はどの教師も私が一目おいていた教師である。尊敬できる教師だったと思う。或る時、どの教師だったか覚えていないのが悔やまれるが、「「私」という主語が「私たち」に変わる時が「怖い」のだ」という趣旨のことばを聞いた。

 そのことばを本当に実感したと感じたのは、学生時代だった。学生運動にかかわっていると、「政治家・革命家」志向の活動家がいつも「我々は‥」とアジテーションしていた。私も無意識うちに「私は‥」と言わずに、「我々は‥」とアジっていた。はじめはその「我々は‥」はクラス討議の結果やサークルの仲間うちの合意を前提としていたが、いつの間にかその前提は無くなり、その前提が無いことにうしろめたさを感じなくなり、「我々は‥」と語っていた。党派の人間は党派内の合意を前提にしたという隠れ蓑はあったろうが、大衆討議の場である「クラス」や「サークル」や党派を組まない活動家仲間の合意の前提という意識がどんどん希薄になっていた。
 運動が一番高揚して大きな転換点に差し掛かった時、私はふと中学・高校時代の教師のことばを思い出した。「私」から「私たち」に主語が変わった瞬間というのは、こういうことか、と直感した。
 党派に属した人間とは別に、大量の無党派の活動家仲間とともに議論しているときに、私は自分のことばが空疎で、「願望」がいつの間にか「決意」に変わり、世の中がその「決意」に沿って捻じ曲げられて認識されている、と自覚した。この瞬間が、私たちは「大衆性」を喪失する瞬間ではないか、と心底理解したと思う。

 もう一度自分を見つめなおしたいと心から願った。それが大学に入って3年目の後半だった。政治運動ではなく、社会運動に携わりたいと、考えた瞬間でもある。その社会運動の一つとして労働運動が具体的に見えてきた瞬間だったと思う。
 労働運動の先に革命や政治改革があるという幻想などないほうがいい、とも思った。労働運動にかかわるとしても「私」的な契機と必然を手放して「我々は」とか「労働者とは‥」と説教を垂れる存在にはなりたくないと思ったからである。
 その思いは多分連合赤軍のあさま山荘事件を突きつけられたからだと思う。私たちの運動がもっとも高揚しかけたときにかけられた冷や水のごとき事件であり、反体制運動が一挙に後退局面を強いられた出来事でもあった。私はあの事件とその後の「総括」事件の経緯を聞くにつけ、「私」が「私たち」に展化し、「わが組織」や「革命」になり、いつの間にかその空虚なことばに「私」が操られるロジックの恐ろしさを突きつけられたと思った。連合赤軍の問題と当時の党派間の内ゲバとは同質だと思えた。
 当時はそこまでは論理展開は出来なかったが、少なくとも「私」の立脚点を手放したらあのようになってしまう、と直感したことは確かである。多くの仲間が暗中模索ながら、いろいろな紆余曲折は経てもそのように感じたと思う。

 「私」にこだわるこだわり方はいろいろある。それこそ人の選択である。私は「私」と「集団性」の危うい細い稜線を歩いてみたいと考えたに過ぎない。稜線から滑って落ちるにしても「私」の側に滑り落ちるつもりで歩きたいと考えつくまでにさらに1年半かかって、就職した。「卒業」という免許がないと就職できないということで、悩んでいたら「さっさと卒業して大学から居なくなれ」といわれたに等しいような「卒業証書」(名前の漢字が間違っている)を手渡された。卒論と称する課題を計算するためのプログラムも満足に作れないまま、卒論の単位だけは「A」評価の成績表も一緒に配布された。本当にいい加減な大学だったのだと思う。そこまで邪険に扱われたというのは、私になりに存在意義があったのかも知れないと誇りに思うことにしている。
 70歳になっても「私」から「私たち」にことばを変える場合も一歩立ち止まってから使っている。「私たち」ということばを使う時は念入りな討議と合意が欠かせない。そして「私たち」が独り歩きしないことも常に念頭にある。「みんなで決めた」からといって個人の思いを縛るのではなく、最後は「私」を優先して判断する。「決めたから従え」ではなく「多数決で決めても、従わないことも自由」そんな組織こそが柔軟性があり、しなやかで強い連帯感を維持できるのである。「軍隊」組織とは相容れない、そんなしたたかな組織の理想を今も追いかけている。
 こんな偏屈な人間でも歓迎し、迎え入れてくれる組織があるのはうれしいものである。

 飛躍するが「軍隊組織」や「国家」の論理が最近は日本だけでなく、国際政治でも前面に出てくることで、世界はどんどんきな臭くなっている。ロシアのウクライナ軍事侵攻をはじめ、戦争が大手を振っている。それに対抗する論理もまた「国家」が主語である。国民、民衆のひとりひとりの顔が見えないまま、戦争が大手を振って人々を恐怖に陥れ、殺害している。個人の「私」が見えないまま、「国」の論理なき論理を振り回すプーチンはじめ「各国首脳」の宣伝ばかりが目に付く。その言葉からは血の通った戦争の被害を受ける人々の顔が見えてこない。


「万葉の歌びとたち」から「笠女郎」

2022年02月25日 18時41分09秒 | 読書

 本日はのんびり。正午に印刷会社に原稿を持ち込み、担当者と相談しながら、校正刷りの作成と印刷を依頼してきた。
 昼食は何か月かぶりで関内駅で下車。駅の傍の喫茶店でサンドイッチとホットコーヒーと読書と睡眠。恥ずかしながら一番長かったのが睡眠時間だったろうか。

      

 読んだ本は「万葉読本Ⅱ 万葉の歌びとたち」の「笠女郎の恋」の僅か7頁。

笠女郎の恋心は、十分に激しいのだが、その激しさには、一種の暗さがつきまとっていることを感じるのは、私だけであうか。(587~610の)二十四首の中には夢が二度歌われているが、‥第三段の夢は‥具体的であからさまにエロチックである。願望の要請した夢とも見られるし、希望的に判断したしもいえる。‥願望的情念は、けっして無邪気に明るくはない。女郎には、こうした性情があって‥激しくもまた暗鬱な情念に縛られてしまった姿を示している‥。ところが相手の大伴家持は、成就しない恋なら逢わなければよかったという合理性、言ってもせんないことなら黙っているほうがよいという論理性が家持にはある。この両者のかみ合う余地は、果たしてあったろうか。‥おそらくは自分自身にとってもどうしようもなかったこの性情のゆうに、彼女が『古今集』にも連なってゆくように漸進的な、優れた歌々を読みだしたという、そのことが私の今をとらえている。文学とはそのようなものであろうか。


自己コントロール

2022年02月25日 09時55分28秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日から暖かい日が続くという。ベランダから差し込む日の光からは確かに温かみを感じる。風もない穏やかな日和である。枯芝には小鳥が多数集まって何かをついばんでいる。

 昨日に続いて朝からパソコンとにらめっこ。印刷所に持ち込むデータをUSBメモリーに移し終わった。他の資料などと一緒にファイルに入れて出かける準備が完了。出かけるまでにはまだ1時間半もある。

 このようにゆとりのある準備がいつもできるといいのだが、人間はそういう生き物ではないのだそうだ。私だけがいつもおたおたとするのかと昔は思っていたが、周囲の人間を観察するとどうもそうではないことが解ったのは就職してから。
 おたおたしない人間には二種類あることも知った。
 事前の準備がきちんとしている人と、準備が出来ていなくても泰然自若として自分は決して傷つかない人。
 後者の人は周囲の人間がフォローしてくれるのが当たり前だと思っているらしい。後輩にこのような人間が配属になってとても迷惑をしたことが幾度もある。
 かといって神経質なほど事前の準備にこだわる上司というのもまた、はた迷惑だということもよく理解した。
 程よくことを進めることは難しいが、そういうものだと悟れば、それはそれでまた楽しいものでもある。あいつはここをフォローすればいい、この上司はこう扱えばご機嫌で役に立つ、という学習もまた楽しいのである。
 今は退職して、大半のことを自分でしなくてはならなくなって、一人何役もの人格を演じている。心の中でせっかちに焦っている自分と、のんびりと構えている自分と、細かに自分に課題を押し付けてくる自分と、いろいろな自分が混在しているのが解る。
 そんな分裂している自分をどう統括するか、それが今は愉しみである。この統括がうまくいかなくなると、ちょっと精神的な危機として休養しなくてはいけなくなる。休養を自分で自覚して自分を回復することにも自覚的になっている。

 


ニュース原稿がようやく完成

2022年02月24日 23時40分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 23時半を過ぎて退職者会ニュース3月号の最終原稿がようやく出来上がった。他の役員に送信。明日の正午に印刷会社に持ち込む予定。
 手直しは校正刷りの最終版が出来上がる来月の1日か2日までならば何とかできるが、それは数か所の訂正にとどめたいものである。
 いつもは入稿もメールの送信で済ませてしまうのだが、先月に続いて他の用件もあり、直接持参というかたちになった。私などの年齢のものには、仕事は直接顔をあわせながらするのが当たり前のような気がしている。メールの送受信で済ませるのは、確かに効率的であるのは間違いがないが、どこか寂しい。
 顔をあわせて意思疎通を図ったほうが、間違いは少ないと思える。こちらの意図を組んでくれた割付にしてもらえる確率も高いようだ。あるいは今後に生かせるプロのアドバイスももらえる。自分にとっても勉強になることもある。

 本日は実にあわただしかった。午前中は家庭の所用で横浜駅まで出かけて、すぐに自宅にもどり原稿づくり。このとき妻は買い物に出かけていた。13時半に再度家を出て、友人と打ち合わせ。家を出たときにちょうど妻が買い物から戻ってきたが、まったくすれ違い。昼に到着した原稿を流し込んだり、訂正などをして過ごした。
 夜は以前から予定の入っていた飲み会。おいしいつまみが出る小さな居酒屋で8人ほどで楽しい飲み会であった。
 しかし原稿がまだ出来上がっておらず、お酒はハイボール2杯でとどめた。酔ったまま作業を継続。出来上がったときはすっかり酔いが覚めていた。
 今回はなかなかいい出来、という自画自賛。


あたふた

2022年02月23日 22時26分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 予定外の所用で出かけなくてはならなくなり、あたふた。明日は30分単位で動かなくてはいけなくなった。明日と明後日は、なかなかつらい二日間になりそうである。
 明日の夜に予定していた友人との飲み会は、ゆっくりと飲めそうもなくなった。悲しい。
 本来ならば、本日の日付の変わるころ、遅くとも明日の11時までには編集作業が終わっているはずであった。一部の原稿が明日の朝でないと手に入らなくなったことも重なった。

 編集作業というのは、こういうものであることは承知はしている。しかしここまであたふたするのも久しぶりである。それも編集作業以外の用件の出来が原因である。明日もまた読書タイムが消えてなくなった。

 本日はこれ以上パソコンとにらめっこしても編集作業は進まない。とりあえず明日の早起きのために早めに就寝。


西空の定点観測

2022年02月23日 18時46分34秒 | 思いつき・エッセイ・・・



 多くの人は茜色に染まった日の出の光景や、日の入前後の光の変化に癒される。私の場合は、登山で朝日を見る機会は多くて、それも良かったと思うが、総じて夕刻、夕焼けの色の変化が好みである。

 これには朝がまったく弱くて、日の出を見ることが日常ではほとんどない、ということも大きな原因である。
 朝焼けよりも夕焼けのほうが色の変化がいいというほどの比較研究はしていない。東と西の景色が知らないところでは、どちらかの写真を見せられても、区別は出来ない。
 そして夕焼け時間になると最近は家に帰ってくるようになった。現役の頃は朝焼けも夕焼けも自宅の傍では見たことなどほとんどなかった。
  最近は惑星、特に宵の明星をはじめ土星や木星、火星などをながめながら富士山・丹沢・箱根の山を背景にした夕焼けを見ると、心が癒される。気分が和む。
 特に本日はZoomがちゃんと作動せずにイライラしていたので、わざわざ夕やけを見に、出かけてみた。少しは落ち着いた。