3月11日~6月1日まで国立新美術館で開催予定であった「古典×現代2020 時空を超える日本のアート」展の内覧会に参加された方より、資料のコピーをいただいた。
現在は休館中であるが、会期については「未定~6月1日(月)」という表記に留まっている。
ホームページには次のように記されている。
【展覧会概要】
国際的な注目が東京に集まる2020年に、古い時代の美術と現代美術の対比を通して、日本美術の豊かな土壌を探り、その魅力を新しい視点から発信する展覧会を開催します。
展覧会は、江戸時代以前の絵画や仏像、陶芸や刀剣の名品を、現代を生きる8人の作家の作品と対になるよう組み合わせ、一組ずつ8つの展示室で構成します。古典側は曾我蕭白、尾形乾山、円空、仙厓義梵、葛飾北斎ら誰もが知る巨匠の作品や、鎌倉時代の仏像、江戸時代の花鳥画、刀剣の名品を選出。現代側は、川内倫子、鴻池朋子、しりあがり寿、菅木志雄、棚田康司、田根剛、皆川明、横尾忠則ら、今の日本を代表するクリエイターたちの造形を選びました。
現代作家たちの仕事と過去の名品との関係はさまざまです。展覧会では、世界観や主題、造形、制作方法の類似を示すだけでなく、先達から得たインスピレーションや、誰もが知るイメージに基づくパロディ、古い作品を取り込んだインスタレーションなど、過去の偉業に積極的に関与していく現代の作家たちの姿にも焦点を当てます。今日の優れた表現と、今なお私たちを惹きつけてやまない古の名品の比較を通じて、単独では見えてこない新たな魅力を発見する機会になれば幸いです。
【展示構成】
★仙厓×菅木志雄
インド仏教に由来する「空」の思想は、この世のすべての存在を否定するだけでなく、否定した先に見えてくる、あらゆるものが依って立つ「縁起」の世界を肯定している。禅における円相は、悟りの境地を表すが、その円相を食べて消そうという仙厓の諧謔には、絶対的存在や自らへの執着を捨てて新たな世界を志向する「空」の思想が息づいている。
菅木志雄もまた、「空」に共鳴してきた。虚構としてのイメージを斥け、ものそれ自体のリアリティーを探究した菅は、ものともの、ものと人との連関や相互作用を考察した。そして、石や木、アルミ、ワイヤーなど、身近な素材にできるだけ手を加えず空間に置くことで、ものと人の在り様に新たな存在の場を与え、空間を活性化してきたのだ。そこでは、物質も身体も意識も、相互に依存しあう相対的な存在としてある。菅の作品は、人間の精神を仮想から現実へと解き放ち、あらゆるものが依って立つ新たな世界を立ち上げる。「空」にもつながる深い思考は、不寛容がはびこる今日の社会に一石を投じてもいる。
★花鳥画×川内倫子
庭で鶏を飼い、つぶさに観察して描いたという伊藤若冲。ひたすら鶏に向き合い、そこに「神気」が見えたとき、鶏はもとより、すべての生きものを自在に描けるようになったという。若冲は、さまざまな表情を見せる動植物を、鮮やかな色彩で緻密に描写し、ときに枯れ葉や虫食いの跡までをも克明にとらえた。生命を賛美すると同時に、そのはかなさにも等しく目を向けたのである。
花鳥画に表れた、命あるもの、移ろいゆくものへの深い愛着と感受性は、写真家、川内倫子の仕事にも通じる。思いがけない瞬間で切り取られた花や木、昆虫、鳥、動物たちは、独特の光をともない、日常に裂け目のように現れた無常の感覚を突き付ける。川内は、身近な生きものから、世界各地の人々の生の営み、壮大な自然までを撮影し、イメージとイメージが対話するように写真集を編み、展示を構成してきた。本展覧会では、その対話に、南蘋派や黄檗画、琳派の系譜に連なる江戸時代の花鳥画を加え、生と死という抗いがたい運命を包み込む、自然の摂理と生命の循環を表現する。
★円空×棚田康司
古来、山や木、岩、滝などは、神の依代として信仰を集めてきた。奈良、平安時代に、一本の木から像の主要部を彫り出す一木造が隆盛した背景には、樹木に霊性を見出し崇拝する日本の伝統がある。
江戸時代の僧、円空(1632~1695)は、古代のアニミズム的世界観を彷彿とさせる独自の一木造を開拓した。全国各地を旅し、民衆の心に寄り添う無数の仏像を残した円空は、立ち木を仏に彫り上げ、丸太を割った断面の荒々しさを表現に取り入れ、一本の木から複数の仏像を彫り、自然木とその特性を生かしきった。棚田康司もまた、一木造にこだわり、木に向き合い続けてきた現代の彫刻家だ。その少年少女の像は、無数の可能性を内に秘め、好奇心と恐怖がせめぎあうなかで世界に向かい、頼りなくはあるが決意を持って身を起こす。いまだ神の領域の近くにいる人の精神の切迫と身体のぎこちなさが、素材である木の揺らぎに重なり、彼ら自身が樹木のようにも見える。円空仏、棚田の彫刻ともに、生命体としての木の揺らぎや振動が、神仏や人の像を介して私たちの心と身体に響く。
★刀剣×鴻池朋子
古墳時代から作られていた鉄の刀は直刀だったが、千年ほど前、武士階級が出てきた平安時代中期になると、そこに反りが施される。優れた武器でありながら、その姿に宿る曲線美、強靭な地鉄に現れた複雑な模様、意匠を凝らした刃文は、深い精神性や独特の美意識と結びつき、時間を超越した煌めきとともに人々を魅了してきた。
一方、鴻池朋子は、「切る道具」としての刀剣に立ち返る。そして、縫合した動物の皮に神話的イメージを施した《皮緞帳》(2015年)に、平安時代以降に制作された太刀や刀、短刀を組み合わせた壮大なインスタレーションを構想した。精神性の高い日本刀が、卑近な素材とも言える皮や混沌としたエネルギーに満ちた始原の風景と出会うことで、その研ぎ澄まされた様式美に潜在する、切り裂くという根源的な力が感じられるようになる。鴻池は、「食べる、食べられる」という自然との関係を模索し、近代社会が失っている生命力を取り戻そうとしてきた。芸術と生をつなぐ刀剣と皮の出会いは、さまざまな二項対立に陥った世界を架橋する試みでもある。
★仏像×田根剛
太陽と月を象徴するという日光菩薩、月光菩薩は、それぞれの光で人を導き、癒すとされる。滋賀県にある天台宗の古刹、西明寺の本尊である薬師如来像の脇侍として今日に伝わる二像は、全身を金箔で覆われ、神々しい光を放つ。本展覧会では、国際的に活躍する建築家、田根剛が、鎌倉時代に由来する、この二軀の菩薩像にふさわしい光のインスタレーションを試みる。
田根は、綿密なリサーチを通じて場所の埋もれた記憶を掘り起こし、それを未来につなげる建築で注目を集めてきた。その手法はまるで考古学の発掘のようであり、記憶、時間、光は、田根にとって重要なインスピレーションの源である。数々の受難を潜り抜け、人々の祈りを集めてきた日光菩薩、月光菩薩に魅了された田根は、この像と静かに語らい、深い内面の経験を得られるような空間を作り出す。過去に想いを馳せ、自らの今を見つめ、そこで得られた気づきを明日に生かす。記憶を通じて明日を生きるためのレッスンがここにある。
★北斎×しりあがり寿
いつの時代も人は、遊びや諧謔の精神を通じて、生きる力を活性化させてきた。葛飾北斎(1760~1849)の鋭い観察眼に支えられた軽妙な人物描写は、この希代の浮世絵師のユーモアの感覚を、ことのほか豊かに伝えている。北斎は、自ら「画狂人」と号し、天真爛漫に描くことに没頭して長寿を全うした。北斎を敬愛するしりあがり寿は、かつて自作のなかで、踊る北斎のキャラクターに「絵を描くのが好き そして北斎は生きることが好き」と歌わせた。この言葉が示唆するように、遊びは、生を肯定し、創造力を高める基本的な態度である。
本展覧会では、しりあがりが「ゆるめ~しょん」と呼ぶゆるいタッチの映像の新作を、北斎へのオマージュとして捧げる。また、北斎の代表作〈冨嶽三十六景〉とともに、これに着想を得たパロディ、〈ちょっと可笑しなほぼ三十六景〉(2017年)が出品される。富士山を望む巧みな構図に庶民の姿を生き生きと描いた浮世絵版画の傑作と、奇想天外な現代風刺画が並ぶことで、時代を超えた笑いの創造力が伝わってくる。
★乾山×皆川明
尾形乾山は、陶器を芸術にまで高めた江戸時代の陶工である。京都の鳴滝に窯を開いた乾山は、花弁をそのままうつわの形にするなど、斬新で卓越した造形感覚を発揮して作陶に励んだ。この鳴滝窯に参加した実兄の絵師、尾形光琳は、その華やかな琳派の意匠や、手描きの自由で伸びやかな線で乾山焼を彩った。
現代のデザイナー、皆川明は、主宰するブランド「ミナ ペルホネン」による服や家具、うつわなどを通じて、良質なデザインを身近なものとするライフスタイルを提案しつづけてきた。花や鳥、蝶、森などの自然に着想を得たモティーフや幾何学模様を手描きしたデザインは、有機的な温もり、シンプルな華やかさに特徴がある。それは、乾山が光琳とともに開拓した乾山焼の意匠をも彷彿とさせる。
本展覧会では、乾山のうつわや陶片に、皆川のテキスタイル、洋服、ハギレを組み合わせて展示する。
用と美の世界を融合したふたりの世界が、ひとつのインスタレーションとして示される。
★蕭白×横尾忠則
横尾忠則は、すでに1970年代から蕭白に魅了され、何度もオマージュを捧げてきた。奇想の絵描きとして強烈な個性を放つ二人に共通するのは、横尾が言う「デモーニッシュ(悪魔的)な」絵画の魅力である。それは、生命の高揚はもちろん、不安や恐怖、いかがわしいものや奇怪なものへの好奇心など、生きることに避けがたく付随するあらゆる感覚を画面に解き放つ。
蕭白と横尾は、イメージのアナクロニズムを創造力に変えてきたことでも類似する。蕭白は、室町後期に活躍した曾我蛇足の古めかしく豪放な画風にあえて倣い、中国絵画や狩野派の高尚さを卑俗に転じて換骨奪胎した。横尾もまた、古今東西の美術や、横尾個人の経験、社会の集団的記憶に由来するさまざまなイメージを、特定の時代や空間に縛ることなく画面に横溢させる。過去のイメージは過去だけのものではなく、今も享受され生き続けている。本展覧会で横尾は、蕭白に基づく新作を発表する。それらは、人類の遺産として蓄積されたイメージの宝庫が、どの時代にも開放されていることを証している。
作品リストも送ってもらった。さらに図録に収録されている小林忠氏(國華主幹)の「伝統と想像」、長尾光枝氏(国立新美術館学芸課長)の「時を超えた対話-古典と現代」という論考のコピーもいただいた。
ホームページやチラシ、論考や解説を、実際に会場にいる自分を想像しながら読んでいる。しかしやはり実際に展示を見ないと分からない。残念である。
チラシや解説を見ると、花鳥画×川内倫子、北斎×しりあがり寿、円空×棚田康司、乾山×宮川明、蕭白×横尾忠則はじっくりと見てみたいものである。
特に、私はどちらかというと敬遠しがちな、だがとても気になる曽我蕭白を、横尾忠則がどのように感じ取っているか、私の感覚に何か刺激を与えてもらえるか、期待をしたい。
これを本日・明日とじっくりと目をとおしたい。引き籠りの友を貰って気分は上々。