一昨日に岩波書店の広報誌「図書2月号」が届いていた。いつものように覚書としていくつか引用してみたい。
・[表紙]夢遊 司 修
「白鳥が、シベリアを目ざすのは、地軸が30度傾く前の、温暖緑地帯へなのだ、という詩人・吉田一穂の仮説に、夢を膨らませました。」
地球史から見た当否はさておいて、どんな文章でどのような文脈なのか、興味がわいている。詩の作品としたら何という作品なのか、探してみたい。
・超えなくして人を呼ぶ 川端知嘉子
「くず箱の中から拾い集めた色糸をひたすらくっつけて、途方もない時間の果てに生み出された鮮烈で美しい衣。‥それは「余白の美」では片づけられない世界だ。美術教育からは生まれない、どこまでも自らの心にのみ忠実な世界に思わず見入ってしまう。‥教育、広告宣伝、流行、そうした情報は外へと向かう俤を掛けるが、一人で黙々と内へ内へ奥へ奥へと降りたところで生まれたものには時間を超えた不思議な力が宿っている。」
「不思議な力が宿っている」ことはそのまま同意をするのだが、そして多くの過去の芸術作品もまたそのようなものに強く惹かれるのだが、果たしてそれだけが「普遍性」を獲得する力なのか、というところが私にはまだわからない。「内へ奥へ降りる」ことは、その実、もがいて ももがいても他者が見えてこない、他者との関係がますます希薄になっていく、そんな矛盾に今の時代の芸術はもがいているのではないだろうか。目立つことを目的として、これ見よがしに他者を押しのけろと言うのではない。
意識の上で「世界を獲得する思惟」への指向が感じられないと、普遍性だとか、他者の獲得はできないのではないか、そのような思いが私にはある。
・シェイクスピアの史劇八作品連続上演を終えて 鵜山 仁
「歴史劇としては、絶対王政という国家統合システムの建設にあたって、古い制度、思弁、人間関係、地域性、これら雑菌繁殖の温床になるようなものをできる限り排除し、ノイズを除去する、その効率化のプロセスがえがかれているのだと考えてもいい。しかし例えばフォールスタッフのように、最後にはお払い箱となって抹殺されてしまうノイズの、なんと魅力的な事か。のわたりがわれわれ芸能の出番である。国家が不要不急と切り捨てたものを、劇場という汚水処理施設が引き受け、これを芳醇な飲料水として、もしくはワクチンとして社会に還元する。芸能やアートの役割というのは結局そんなものだろうという気がする。」
「「言葉」は目に見えるものの交換に役立つばかりではない。実に様々な現象、感情、観念等、目には見えないものをも取り込んで他者との、そして「宇宙」との交換、共生の道を開く貴重なツールだ。そこにできるだけ豊かな温度、色彩を吹き込み、「声」として、「表情」としてライブの時空に解き放つことこそが、アートの役割だろう。」
・分断を超えるハンセン病文学の言葉 木村哲也
「ここ数か月の新たな感染症の流行によって私たちは、新たな分断による境界が引かれる体験をした。いまもそのさなかにある。その分断を超えて人々が結び合うには、文学の言葉、詩の言葉が必要だ。大江満男とハンセン病療養所の詩人たちの交流の軌跡が私たちに教えてくれるのは、このように豊かな世界なのである。」
・サロンという登竜門 青柳いづみこ
・子どもらしさ 畑中章宏
・孤独なものたちの行き場 寺尾紗穂
「(『かあさんは魔女じゃない』という作品で)、「はっきりしないことば」でことわる。「それが魔女狩りの始まりさ」自分がそうしたいか、したくないか、あるいはなぜそうしたくないのか、という理由もはっきり言えないまま、漠然と人は集団の文化や常識の中で自他を比較し、バランスをとりながら生きている。集団が穏健なうちはそれでいいだろうが、その常識が偏向していったときには、ひはや手遅れであることが多い。」
本日は、7編を読んだ。