本日の読書は、午前中と夜とで「「川の字」文化の深層心理学 親子の添い寝と「見るなの禁止」」(北山修・荻本快編、岩波書店)を読み終えた。
やはり心理学というのは、もともと基本的な知識等がない中で、私には難解である。基本的な語彙などが解らずに読み飛ばした箇所も多数ある。
ただ最後の田中優子の文章と、北山修・田中優子の対談は私なりに理解できたと思われる。ただしどれだけ読み込めたかは、自信はない。
田中優子のように絵画を通して、その時代の文化を読み込むことは私にはとても惹かれる視点である。同時に江戸時代と明治維新以降の文化の断絶の深さと、同時に短時間での文化的な転換が為されたことへの驚きがある。そして私たちには江戸時代はもうなかなかイメージとしても手繰り寄せられることの困難さを提示されたようなものである。
この断絶はきっと、1945年の断絶にも当てはまるのではないだろうか。私たちの年代ですらもうそれ以前の社会なり、文化なりは遠く霞んでしまっている。こんな大きな断絶を体験した「民族」史は稀有なのかもしれない。
「春画には、男女や夫婦の性交を交えた「川の字」が描かれており、しかも、子どもを交えた濃密な関係が見られ、特に子どもが性交や性器をはっきりと目撃している様子も描かれています。春画は以外にも隠されたものではなく、むしろ多くの人が日常的に目にしていた可能性もあります。江戸時代の社会においては、性的な行為や関係は隠されていたのではなく、共同体ける一種の祭りに近いものとさえ感じられます。「見るな」と禁止されていたものではなかったのではないか。」(第9章、田中優子)
「文化交流的な場面において、相手の文化では広く浸透している習慣だとしても、自分の文化にとっては珍しかったり聞いたことがなかったりする場合には、私たちは驚いたり、衝撃をうけたりします。・・相手の文化が異常だとか、過剰だとか言って、忌避したしまうことも起きるでしょう。新しい文化と出会う時に、どうしても自分の所属する文化が清浄で理想的であるというバイアスが自然とかかってしまうのかもしれません。「川の字」で寝る文化というのは、そのような慣習のない文化からみれば異質なものとして映るでしょう。日本語圏で行われた「川の字」の臨床を国際的なコミュニティで発信していくときに、私たちは他国の分析家や実践家から向けられる奇異の目や蔑視に向き合う必要があります。」(「あとがき」、北山修)