二度見ることができて、しかも時間を気にしなくていいとは、贅沢。
ということで、昼少し前に家を出て、改装なった東京都美術館へ。上野駅を出ると西洋美術館の入口には「ラファエロ展」の大きな看板。ドキッとしたがよく見ると「予告」と書いてある。
会場は人はそれなりに来ていたが、それほどの混雑でもなくゆっくりと2時間半ほどかけてまわった。昨日の講座で説明のあったいくつもの作品を思い出しながら、説明を思い出しつつ、また音声ガイドも活用しつつ堪能した。個々の作品については別項の予定。
私はこれまでは印象派以降の西洋美術はそれなりに見てまわった。特に美術史の勉強はしなかったが、自分の目だけを頼りに、それこそ独りよがりの解釈や鑑賞も含まれていようが、気にせずに自分なりに楽しんできた。
実は中学・高校とミッションスクールだったので、キリスト教の絵画を見る機会は多かった。しかしそれは中学生向けのちゃちな子供っぽい、それこそ幼稚園生向けの一般の絵本よりも見劣りのするカードであったり、新約聖書の物語絵だったりと、いづれも「美」とは程遠いものであった。
しかしヨーロッパの教会の外観の写真や内部の写真が飾ってあることもあり、またそのような本が備え付けられてあったりして、実際の絵を見てみたいという思いは継続していた。もっとも当時は、仏像の写真を月間「太陽」の立ち読みで見るのが趣味で、キリスト教絵画には背を向けていた。印象派の絵は心惹かれるものがあり、印象派の成り立ちからは否定されるべき存在だった宗教画という勝手な思い込みがあって、ますます敬遠してしまったように思う。
30歳を過ぎてからだったと思うが、どういうきっかけかはまったく記憶に無いのだが、ふとミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井壁画の、神とアダムの描写で両者の指がつかず離れずのわずかな距離で呼応している絵を見て、何故か頭から離れなくなった。いつか見に行ってみたいと思ううちに、ルネサンス絵画の図録を本屋で立ち読みするようになった。
印象派以降の絵の場合も、キリスト教的教養がないと理解できない印象派以降の絵もあり、いつかは勉強したいとは思っていたが、それが少しずつ頭の中で膨れてきて、最近勉強しようと思い立ったのだ。
ヨーロッパのキリスト教絵画は、特にルネサンス以降の絵画の歴史は、ヨーロッパ全体の歴史の厚みのほどに厚みがある。下手に踏み込むとこれはミイラ取りがミイラになるように抜けられなくなるとの恐れもあるが、やはりのぞいてみたい。私の側の救いは、一応この歳になって文化を総体的かつ相対的に見ることができるようになったいると思う。のめりこんでしまって他の文化に思いがいかないようなことはない。そんな気持ちのゆとりを常に持っていたいと思う。
取りあえずは昔から興味が続いているものや、今興味を持ったものは何しろ一旦は首を突っ込んで経験してみようという貪欲さを保持するのは悪くないと考えるようになった。二の足を踏むのは出来るだけ少なくしてみたい。
そんなことを考えながら帰途についた。
その前に、上野駅で千葉県の物産展をしていた。先日購入した焼酎がなくなっていたのを思い出し、かますの干物と「ぶっかけ浜めし」というものと「腰古井」という勝浦市のお酒を購入した。「ぶっかけ浜めし」というのは原材料の欄を見ると、焼黒ばら海苔、青混ぜ海苔、かつお節、糸青海苔の乾燥したものを混ぜたものらしい。醤油をたらしてご飯にかけたり、納豆に混ぜたり、が紹介されている。何とかお酒のつまみにならないか考えてみようと思う。
電車の中では、冷やして売っていた4合瓶と冷凍してあったかますの干物ですっかりカバンが冷たくなっていた。