Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

一年間のご訪問に感謝

2021年12月31日 17時22分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 今年もこのブログにお付き合いいただきありがとうございました。最近は日記風の、しかも愚痴が多くなってしまっている当ブログですが、ご容赦願います。

 コロナ禍で多くの美術館等が「事前予約制」となったことが、私を出不精にしてしまった感があります。コロナ禍は多くの人の行動パターンに大きな爪痕、傷跡を残したといえます。
 美術館や博物館というところは、わがままな私は思いついたときに、興が乗ったときにフラッと訪れたいもの。70歳となり頭が硬くなった今は、いっそう「見たい」いう欲求というものが、脳が刺激を素直に受け入れる用意が出来た、というサインだと信じています。

 しかし、美術館・博物館の事前予約制という対応に責任を転化するつもりはもうとうないし、この措置が良くないと主張するつもりもありません。混雑を避けてよりよい鑑賞環境を確保しようとする努力には敬意を表したいという思いすらあります。
 たまたま取られた措置が、私の性格とうまく合致しなかっただけだと思っています。
 新しい変異株で、私のフラッと訪れたいというスタイルはまたまた遠くなる気配ですが、出来るだけ早くに従来の対応に戻ることを切に願いながら、新しい年へと日付が変るのを待っています。

 美術鑑賞やら、読書などの感想・報告が来年はより充実するよう努力したいと思います。来年もまた訪問していただけることを願っています。

 


大晦日に思う

2021年12月31日 16時41分20秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 古稀といわれる70歳になった今年も私の身の回りにはいろいろなことがあった。私自身の体調もこれまでとは違う要素が出来し続けている。体内時計の進行速度が早いと思うか、短いと思うか、人それぞれだが、私はいつも早いとも遅いとも実感しない。体内時計の進行速度は、生理的時間と言い換えてもいい。日々の時間の長い、短いを繰り返しているうちに、365日つながった、という気分である。
 生涯を終えるときに、自分の一生が長く感じたか、短いと思うか、充足感があったかなかったか、今からは想定できない。
 今年一年は、ここ数年来つづく「老いの実感」をひとつひとつ噛みしめながらよろよろと歩いているうちに365日経過していた、というのもひとつの側面である。
 ひとつひとつの実感は、ブログ掲載してきた。振り返って思い出すのも苦労するほどたくさんあった。それらを自分に納得させていく時間は長く感じるものだということも実感した。一年たって振り返って、総体として長かったのか、短かったのか、今はわからない。
 65歳頃から強く実感した「老い」。この「老い」というものが、身体の持久力や瞬発力・気力の持続力・脳の活力の減退を着実に進行させていることだけは確かなことである。
 物事に対する興味も、その範囲は狭まっている。狭まっているとはいえ、その範囲ではその旺盛さに自分で手を焼いていることも確かである。
 「老い」の進行によって見えなくなったものもあるが、新たに見えてきたものもある。最後の最後まで、自分の体や精神力に抗い、もがき、そして社会との摩擦・軋轢を持続することだけは確実である。


毎年の大晦日の風景

2021年12月31日 11時45分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 デスクトップパソコンが立ち上がらないまま、モバイルノートで何とか年末年始を乗り切らざるを得ない。

 昨日までは妻は大掃除に力点を置き、正月用の料理の材料の買出しを少しずつ進めていた。本日の大晦日、大掃除はいちおう終わり、正月用のおせち料理に精を出している。
 この年末の「イベント」は例年同じようなことの繰り返しではあるが、それなりに企画力と体力と構想力が必要であることは、傍目から見ていてもよくわかる。他人がおいそれとは口をはさむのがはばかられる。
 もっとも私に協力を求められても、腰が痛い、膝が痛いと言われて、妻がイライラするのが手に取るようにわかる。
 「一人で抱え込まずにもっと計画的に私と事前に相談しろよ」とは昔から思っている。だが、この態度には、主体性がかけている。余計な摩擦を防ぐために私はずる賢く手をこまねいて、傍観している。

 


風呂釜もおかしくなってきた

2021年12月30日 23時18分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日はまた気温が下がるとのこと。日中も10℃に届かないらしい。
 風呂の準備をしていたら、風呂の操作盤の接触が悪いのか、温度設定や着火、自動設定などの動作がうまくいかない。年末押し迫ってからの不具合が、パソコンだけでなく、風呂にも生じてしまった。数回ボタンを押すとうまく作動した。とりあえず本日はなんとかなりそうであるが、明日以降の保証はない。この風呂釜、すでに18年使っている。そろそろ限界に近いのかと思ってはいた。
 しかし風呂が使えなくなると、お手上げである。歩いて5分ほどのところにあった風呂屋は7~8年ほど前に廃業してしまった。とても残念であった。

 他の箇所も含めて何年かのうちには全体のリフォームを考えなくてはいけないとは覚悟はしていた。悪くなる時は不意に、全体がおかしくなる。

 頭が痛い。 


パソコンが再び起動しない‥

2021年12月30日 20時44分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 

 一昨日からのくしゃみ・鼻水はずいぶんと楽になった。昨晩はお酒を飲まずに我慢した甲斐があったのだと自画自賛。このまま回復してほしいものである。

 喜んだのも束の間、本日再びパソコンが起動しなくなった。もう限界なのだろうか。いつも修復をお願いしている方ももう年末で休業になっている。年明け早々に見に来てもらいたいが、連絡がつかない。いつものとおり、モバイル用の小さなノートパソコンで代用している。
 やはり新規購入を考えなくてはいけないのだろうか。とてもショックである。購入するための前提となるものの算段もできていない。困ったものである。


正月用のお酒

2021年12月30日 18時14分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

正月に飲むお酒を購入し、届けてもらった。

   

 日本酒は「楯野川」という銘柄で、山形県酒田市の「楯の川酒造」となっている。初めて購入したと思う。
 日本酒は並んでいるお酒をどれにしようかと悩んでいるうちにたいていは東北か北海道のお酒になってしまう。
 温泉地などの旅行先を選ぶ時も、食べたいと思う食材も、東北・北海道のものを選んでしまう。育ちが東北・北海道であったことや、妻の出身地ということもある。どうしても惹かれてしまう。
 純米大吟醸ということだが、値段は4合瓶で1600円ほどでそれほど高くはない。もったいないが、1.5合は屠蘇散を入れて飲む。残りはこのお酒の味をじっくりと味わうことにする。

   

 焼酎は「白猿」という銘柄で、鹿児島県日置市の「小正醸造」となっている。焼酎は普段は芋焼酎が多い。または泡盛か壱岐焼酎、黒糖焼酎を注文することも多い。今回は鹿児島の麦焼酎でしかも、ワイン酵母を使用、となっている。これも初めてのお酒である。

 早速「試飲」しようとしたが、「待て」という指示が出て、元旦までお預け。本日は缶チューハイで我慢である。


「図書1月号」から  その2

2021年12月29日 22時55分15秒 | 読書

 先ほどまで、「図書1月号」の後半をめくっていた。読んだのは次の2編。
 今月号は16編のうち合わせて11編で終了。

・心のアトリエ         岡村幸宣

・一月、おめでたい動物たち   円満宇二郎

 「図書1月号」読了後は、ふたたび「世紀末美術」(高階秀爾)を読み始めている。

 明日はかなり気温が高くなるらしい。最高気温は本日よりも5℃も高い15℃の予想になっている。
 昨日はヒアルロン酸注射を受けて、風呂禁止と言われていた。昼間シャワーを浴びたものの寒くもあり、さっぱりとした気分に離れなかった。本日は浴槽に入ってゆったりとしたいものである。くしゃみとはなみずが出ているので、入浴後はすぐに布団にもぐりこみたい。

 


くしゃみ(嚔)とはなみず(洟)

2021年12月29日 20時39分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中に、追加で購入した年賀状を20枚を印刷し、短いひとことを添えて完成、すぐに投函したが、午前中の集配には間に合わなかった。

 3日ほど前から風邪様の症状で、くしゃみと鼻水がよく出る。用心して午後はベッドの中へ。熱はいつもの平熱の上限内。上限といっても36℃半ば以下で、人より低い体温である。
 これを理由に年末の買い物にも同伴させてもらえなかった。本日外の空気を吸ったのは、郵便局の往復と、ポストまでの往復だけであった。乾燥注意報の出ている横浜市域。確かに空気は冷たく乾燥していたので、鼻には良くない影響を与えたと思われる。
 これより再度ベッドの中で読書タイム。


「図書1月号」から  その1

2021年12月29日 20時18分45秒 | 読書



 ベッドの中で目を通したのは「図書1月号」(岩波書店)の9編。後半は今晩。

・[表紙] シェイクスピア      杉本博司
私は写真術を操る技術者として、真を写すとは如何なることかを探求してきた。真は手強い。迂闊に手を出すと深傷を負う。私は真を炙り出すために虚を使うという手法を編み出すことにした。虚の向こう側にこそ真は垣間見えるはずだ。私はこれからの二年間、二四回にわたって虚像を披露したいと思う。第一回はシェイクスピアにご登壇願った。“無心の花と見せかけて、そこに潜む蛇におなりなさい”(『マクベス』より)

 司修の絵画作品が終了し、今回から始まった表紙は杉本博司の写真作品。

・「晩年」とはいつのことか?    関川夏央
回想には寂しさがともなうが、やむを得ない。‥では晩年は? 自分の晩年はいつからだったのか。‥いつからが自分の晩年だったかは、死ねばわかる。そのときまでは、同時代を生きて、その全盛期と晩年を送った人たちの人生にふれて、たのしむのがよい。

・〈対談〉近代小説の文体、そして文学の可能性  兵頭裕己 松浦寿輝
前近代以来のメディアの慣習を引き継いだところに、作者の輪郭の曖昧な鏡花物(泉鏡花の作品)もある。主体の輪郭が曖昧だから、言葉の暗喩的な連鎖がそれ自体でストーリーを紡いでしまったり、なにか変な「もの」をこちら側に呼び入れてしまったり、そんな独特の小説世界も生まれる‥」(兵頭)
「それ」(エス)があった場所に自我が生成する。――「それ」がかつてあった(過去形)とところに自我が成立する(現在形)とフロイトは言ったわけですが、いったん自我という主体の輪郭が明確になるや、「それ」は抑圧され、意識の外に放逐されてしまう。何かそういうものプロセス自体を「ものがたり」に乗せられたらおもしめいだろうかと思いました。創作者として、言文一致的な秩序からどうやってのがれようかと、あれこれ試行錯誤しています‥」(松浦)  

 この対談はよく理解できないので、キーとなるであろう所をとりあえず書き写してみて理解できれば、と思ったが結局理解できていない。

・沖縄との五〇年      柳 広司
2015年9月8日に「私は戦後生まれなので沖縄の歴史は良く知らない」と平然と嘯いた菅官房長官(当時)を恥じ入らせる歴史小説を書くことはできるはずだ。逆にそうしてこなかったのは歴史小説家の怠慢といわれても仕方がない。(「週刊ポスト」連載の「南風(まぜ)に乗る」)。1952年から72年までの20年間。

・ルッキズム        栗田隆子

・自伝的グラフィックノベルの愉しみ    原 正人

・キリンの斑と雪と土器   阿部成樹
(寺田寅彦は)‥浮世絵の色彩を白黒に還元し、画面に残った黒斑と線の配置や相互関係だけを論じるという奇手に出る‥。同時に、彼が飼い猫の黒斑模様を細胞分裂のパターンに(強引に)比較していたことが頭をよぎる。モノクロームの線と面への還元が、寺田流のかたちの分析作法なのかもしれない。とはいえ猫の斑点を見るときとは違って、彼は浮世絵に精妙な線の音楽を聴くことを忘れない。そうした音楽的な線の存在が、歌麿以前と以降の浮世絵を分かつものだというのだから、この分析は単なる批評ではなく様式史の試みともいえる。(浮世絵の曲線、寅彦随筆集第2巻)」
また寺田に言わせれば、当代の未来派の絵もまた斑点と線の構成に賭けている点で比較可能なのであり、その分析の適用範囲は広い。

 何十年も前に随筆集のこの部分は読んだが、私はまったく記憶がない。読み飛ばしていたのか、理解できずに頭から消えていたのか、多分両方であろう。

(寺田寅彦、中谷宇吉郎、中谷治宇二郎は)は、かたちの解釈学とでもいうべき思考の系譜を紡いでいる。その根本には、かたちを内容とは別個の単なる器ではなく、むしろ意味の泉と見る姿勢があった。そのかたちの読解のある次元においては、科学の武器である分析の歯が立たないという難問も見えてきた。寅彦によれば、科学の思考と芸術に見出されるかたちの思考には、重要な共通点がある。それは、両者が「思考の実験」に支えられているということである。

・北杜夫と躁うつ病とZ旗     髙橋 徹
北は、躁うつ病というものは、天然自然の現象で、環境に左右されるものではないとも述べており、自身の躁うつ病(双極性障害)が内因性の病態(心因性ではなく、より生物学的な素因に基づく精神疾患)であることを強調している。北が躁うつ病を公にしたことが、精神疾患の啓蒙に一役買ったことは間違いない。
 


本日の年賀状作成終了

2021年12月28日 23時58分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 とりあえず妻と私の120枚の年賀状をこれより投函する。なんとか日付の変わる直前に投函出来そう。
 明日は25枚を購入・印刷することになった。

 年内にしなくてはいけない作業は一応ひと段落。私がしなくてはいけないことは、正月用の日本酒を買うことくらいであろうか。


一人一人の顔を思い浮かべながら

2021年12月28日 23時12分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 年賀状は裏面の印刷に時間がかかり、日付が変るころまでかかりそうである。それでもまだ20枚ほどハガキが足りないので、明日また購入してこなくてはいけない。数を数え間違ってしまった。しかも出来上がりが、例年よりも二日ほど遅くなっている。

 明日は年賀状の作成を午前中で終わらせ、午後は家でのんびりと過ごしたいものである。妻に任せてしまった大掃除は終わったようだ。だから家にいると邪魔、と言われることはないと思われるのだが‥‥。

 プリンターが印刷している単調な作動音を聞いていると、眠気が襲ってくる。いまある枚数の半分は完成した。残りの裏面印刷が間もなく終わる。宛先印刷と手書きの「ひとこと」が終われば本日の作業としては終了。
 ひとりひとりの顔を思い浮かべながらの「ひとこと」は、年賀状作成にあたっての楽しみである。
 


年賀状作成

2021年12月28日 21時16分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は5回目のヒアルロン酸注射。これで1セット終了。次回は1月11日に診察をしてから、「今後の治療方針について、相談しましょう」と言われた。
 2週間後の1月11日までにどのような状態になっているのだろうか。本日も杖を突いて歩いたが、急な下り坂、下りの階段では右膝には痛みが伴う。平坦な道、傾斜のきつくない上り道、登り階段でも少し足を引きづって歩いた。1カ月前ほどの痛みは消えた。しかし少しでも捻じると鋭い痛みが膝に走る。
 年末・年始は膝を使わずにおとなしくしていたいものである。

 本日中に年賀状を書き終わって明日の朝には投函したいが、20枚ほど足りなかった。明日買い足して急いで印刷をしないといけない。妻の分も裏面を印刷終了。妻の年賀状はシンプルで見やすい。私の字が多くて、読む人には迷惑かもしれない。毎年反省しつつも改善は出来ていない。

 


引き続き低温注意報

2021年12月27日 21時58分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 横浜市域には本日も「低温・乾燥注意報」が出ている。本日の最低気温は5時前に-0.7℃と氷点下となり、今冬で最低の気温となった。最高気温は14時前で8.4℃で、これは平年よりも3℃低い。
 膝を悪くしてから、運動量が減っており、寒さがひときわ身に染む。
 日没後、外にいるととくに寒く感じる。いつもなら20分も速足で歩くと汗が出てくるので、寒さを感じることなく、逆に気温が低いほうが心地よい。早く杖無しで、歩行が自由になりたいものである。一方でこのまま杖無しでは歩くことが出来なくなるのではないか、という不安を抱えながら毎日を過ごしている。

 夕食後、本日の動きをメモでまとめて、妻に説明。明日は親に説明。逐次まとめておかないとなかなか前に進まない。

 本日は読書はあきらめた。これより私の分の年賀状の仕上げ、出来れば少しでも印刷に入りたい。今年は喪中ハガキはあまり来ていない。


薄紙を剥がすように‥

2021年12月27日 20時09分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日も寒い一日、この2週間ほどいろいろと振り回されてばかりいる。本日も杖を突いて外出、帰宅してみると6千歩近くも歩いていた。なかなか膝の養生をすることがかなわない。読書タイムの確保や、年賀状の作成など、今晩から多少は自分のペースを取り戻したいものである。
 本日は膝の痛みに対する保険金の請求書が届いた。実際に請求書を投函するのは来年になってから。

 本日も夕方に整形外科でリハビリ。明後日から年末・年始の休みになるので、混雑しているかと思ったが、待合室はいつものとおりであった。明日は5回目のヒアルロン酸注射、一応右膝に対してはこれが1セットの最終回である。来年からは左膝に注射する予定である。
 少しずつではあるが、痛みは薄らいできている。しかし左膝に関しては、いまだに少しでも捻ると飛び上がるほどに痛い。また階段の下りや急な下り坂はつらい。杖は手放せない。

 


横浜にも低温注意報

2021年12月26日 23時51分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 風呂の水を取り替え、浴槽の内側と床のタイルを清掃。膝が痛いので、しゃがめない。浴槽の内側はきれいにできるが、床のタイルはつらい。モップを使って腰高のまま石鹸をつけてなでるような洗い方しかできなかった。
 排水口も洗いたかったが、蓋を取って水道水を強く吹き付けて汚れとゴミを流してしまう程度で終了。風呂場の床と壁のタイル清掃は、年内に妻がするという。腰が痛い、膝が痛いという私に愛想が尽きるというものであろう。

 本日は横浜駅の近くにある喫茶店で短時間の読書タイム。帰宅後には本を開く時間的余裕はなかった。「世紀末美術」(高階秀爾)を25頁ほど読んだのみ。
 明日はもう少し読み進めたい。年内に読み終わるというのは無理だろうか。

 現在横浜市域には、「強風・乾燥・低温注意報」が出ている。気温の低い地域に住んでいる人からかれば、最低気温がマイナス1℃程度で低温注意報、というのは違和感があると思う。しかし都市というのは人工的な度合いが高ければ高いほど災害に対して脆弱になり、影響範囲が広くなるという側面もあるのではないか。