Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「無為を為す」

2024年12月21日 18時24分52秒 | 読書

 退職者会のニュース原稿づくりも終了したので、二人で桜木町まで出かけてみた。風は少し強めでロープウェーは休止。もともと乗る気はなかいが喫茶店で軽食とコーヒーを注文し、外を眺めて取り留めもない話をして時間を過ごした。

 夕方になり、風が強まり、厚い雲も出てきた。野毛を一瞥してから地下鉄で横浜駅へ。夕食に弁当を購入。
 平日とは違い、16時過ぎのバスはとても混雑。道路も渋滞していた。団地の中の路面が少し濡れており、予報通り雨がわずかだが降ったようだった。

 老子に「為す無きを為し、事無きを事とし、味無きを味わう」という言葉がある。昔はこれだけが独立して教科書にあり、「為るように為る」、「無理な作為は不要」などという解釈が解説本にも載っていた。
 しかしこの先には「難(かた)きを其の易(やす)きにはかり、大なるを其の細(ちい)さきに為す。天下の難事は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細さきより作る。是を以て聖人は、終に大を為さず。故に能(よ)く其の大を為す」と続く。

 要するに「ものごとは大ごとになってから対処するのでは手遅れ、初期のうちに対処しよう」という意味だと教師に教わった(ような気がする)。

 こんな難しそうな話とは無関係な日である。特に難しい局面に遭遇しているわけでも、事前に何かの仕掛けをしたわけではない。エネルギーを費やした「仕事」がひと段落して、のんびりと夫婦で何事も為さずに、時間を経つのを愉しんだ。こんな日があってもいい。


「核と人類、共存させてはならない」 被団協・田中熙巳さん演説全文

2024年12月12日 17時28分01秒 | 読書

以下、オスロでのノーベル平和賞受賞に際しての被団協・田中熙巳さん演説全文を掲載。
私自身が、記憶しておきたい演説のひとつとして。

「核と人類、共存させてはならない」      被団協・田中熙巳さん演説全文

 国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいまご紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

 私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。

 この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として1万2000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚えます。

 私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。

 1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが一枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。

 長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。

 麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されている沢山の人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。

 一人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体とともに黒焦げの姿で転がっていました。

 もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。

 その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。

 長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ焼き殺されました。残りの15%は中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

 その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりと推定されます。

 生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の十年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。

 1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被ばくして急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。

 結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。

 運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。

 1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定され、数種類の手当を給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。

 1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。

 1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。

 これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被害者に対し、適応されていませんでした。日本で被爆して母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。

 私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。

 1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパに核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開催され、これら集会での証言の依頼などもつづきました。

 1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。

 核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

 2012年、NPT(核拡散防止条約)再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約交渉会議」に発展しました。

 2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。2017年7月7日に122カ国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。

 さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。

 想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

 原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています。

 一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきた「NPO法人・ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

 世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。

 人類が核兵器で自滅することのないように!!

 核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!


「鬼の研究」から その2

2024年12月10日 21時05分33秒 | 読書

   

 午前中に日吉で所用をすませ、横浜駅に戻る途中の駅で下車、静かな喫茶店で昨日に続いて「鬼の研究」(馬場あき子)の2章の第4節「牛頭鬼と羅刹女と地獄卒」を読んだ。
 昨日引用を忘れた箇所も再読。

水尾比呂志によればこの頃(930年代、醍醐・朱雀朝)の仏像彫刻に見られる邪鬼(四天王などに踏まれる)の姿勢はしだいに高姿勢になりはじめるという。反抗の姿勢をもちはじめた邪鬼について考えざるを得ないという着眼点は、説得力のあるものである。「踏鬼の形をとっていても、その性質には実は四天王を無視する不遜な性が育ってきた。不遜な性は反抗の姿勢となって表立ってくる。藤原時代にさらに強まったと思われる」という味方は、貴族に奉仕の形で作品を生んできた仏師たちの抵抗の姿勢を、踏鬼の反逆的な姿勢のなかに見られたものである。権力の鏡台が強調されればされるだけ、踏鬼もまたおとなしく踏まれてはいず、幻影の鬼はいよいよ具体性をもって来ざるを得ないというのが、この時代の風潮の中にあった」(2章第2節「鬼の幻影」)

 実は、私は2017年に東京国立博物館にて開催された「興福寺中金堂再建記念 運慶展」での感想で不思議に思ったことを記載した。
 この「鬼の研究」では930年代、藤原氏の覇権が確立される時期のこととして記述をしてる。運慶は平安末期から鎌倉時代にかけて、時代は下り、武士の時代へと移る時期のことである。一概に比較はできないが、混乱と新しい時代のうねりの時代という共通はある。
 康慶-運慶-運慶の後継者たちという一門の仏師の四天王像を見る機会があった。そこで踏まれている邪鬼の表情の違いが印象に残った。理由がわからず、そのまま宿題のように頭の片隅にこだわりがかたまっている。

  ②  ③  ④  ⑤

 まずは運慶の父の、①康慶による四天王像では、この増長天像(1186年作、興福寺)のように、踏まれる邪鬼は、踏まれてまったく抵抗できずにいる。増長天に降伏し、支配されている。それでも姿形は保っている。服従を強いられているが、「死」に至るほどではない。
 ②運慶の四天王像の毘沙門天像(1189年、常楽寺)では踏まれた頭・顔が大きく変形し、踏みつぶされようとしている。「死」はすぐそこに見える。
 ③運慶とその側近の仏師の手になると言われる多聞天像(東福寺)になると、踏鬼はもはや形をなさないほどに潰され、かろうじて息はしているようだが「死に体」に等しい。
 ところが、もう少し時代が下り1200年代の、④運慶一門による多聞天像(海住山寺)になると、踏鬼はひょうきんな顔に様変わりする。表情はゆとり溢れる笑っている顔になる。同じ⑤増長天像では邪鬼は「しょうがないな、増長天に花でも持たせてやるか」というような表情にすら見える。踏鬼は一方的に仏敵としてやられている様子はない。充分にしたたかな邪鬼である。
 この展覧会では子の湛慶の四天王像もあったが、表情は読み取れないほど躯体が劣化していたので、表情の差異は感じなかった。
 先の馬場あき子の指摘と合わせて考えると、古来の土着の信仰と仏教的な説話の世界とのせめぎ合い、そして仏師という集団と時代の支配者との関係など、考える糸口は多様なようだ。しかし7年も前の展覧会の印象を思い出させてくれた「鬼の研究」に感謝である。もう一度「運慶展」の図録を読み直す機会にしたい。


「鬼の研究」から その1

2024年12月09日 21時01分02秒 | 読書

   

 「序章 鬼とは何か」「1章 鬼の誕生」を読み終わり、「2章 鬼を見た人びとの証言」の半分ほどを読み終えた。

王朝繁栄の暗黒部に生きた人びとであり、反体制的破壊者というべき人びとであった。説話の世界にあふれる庶民的エネルギーは、破滅しつつ現実を生き抜いた〈鬼〉どもを支えたポテンシャリティであった。王朝期とは人間的な鬼と土俗的な鬼と、仏教的な鬼とが混然と同居した時代であり、数限りない妖怪譚と呪術合戦を生むにいたった時代でもあった。」(序章)

官職に何食わぬ顔で報じている一人の男が、ある夜ひめやかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」と案じつつ、静かに(堤中納言物語の「虫めづる姫君」を)執筆の墨をおろしている姿を思い浮かべるのは、まことに愉快である。こうした男こそ、かくれ鬼の一人であり、危うい反日常思想の一端をほのめかせつつ微笑んでいる姿がかいまみられる。」(1章第1節「鬼と女とは人に見えぬぞよき」)

鬼とは群聚するものであろうか。どうもそうではない。・・・孤独な切迫感が満ちている。祀られず慰められなかった死者の心は飢えており、飢えが或る時、怨みや憤りにてんかしないものてはない。その飢えはさまざまで、けっして他と同じくしうるものてはないゆえに、鬼はつねに孤独であり、時には孤高でさえあるのだ。」(1章第3節「造形化のなかの鬼」)

(今昔物語の朝庁に参る弁鬼のために噉(くわ)るるものがたり)は政治的にも重要な意味をもっていた朝庁の殺害事件であり、藤原体制醸成期の暗黒部を象徴す事件の一つであった。平安期鬼の出現は摂関政治とともにはじまるのであり、これらの鬼の惨事はすべて鬼の存在を肯定する立場から描かれている。不思議な期待の情が底流していることを読みとるのである。」(2章第1節「鬼に喰われた人びと」)

日本の鬼は、摂関政治の興隆繁栄とともに形象化をとげていった一面があり、鬼の性格の一要素になっている。・・(古来の)魔除けの信仰が支配力やその安定を守る力と一体化されるなかで、鬼や妖怪の制圧に一役買って出てくる。・・藤原一門の他氏を圧した擡頭と繁栄は、いちじるしく社会的な力のバランスを崩させ、力によって憤怒を解決しようとする無謀な叛意を低下させたので、表面的には一応の平和を保っているかに見えたが、隠然たる怨念がどす黒い底流となっていたことは覆うべくもない。」(2章第2節「鬼の幻影」)

 ようやく順調に読み進められるようになってきた。文章にも馴れてきた。この本のような力技のような断定が私にはとても心地よい。


読了「図書12月号」

2024年12月05日 20時52分45秒 | 読書

 本日も二人で近くのスーパーまで買い物に出かけ、妻はバスにて帰宅。その足で私は横浜駅まで歩いた。いつものとおり喫茶店で読書タイム。「図書12月号」を読み終えた。
 夕刻に帰宅。西の空には五日月と金星がすぐ傍で輝いていた。確か金星は月とは光っているほうが背中合わせになっているはず。スマホではそこまでは撮影できなかった。

 図書12月号で読んだ記事は、

・大人にもサンタクロースを          暉峻 淑子

・今、編み物をするということ         山崎 明子
                       佐久間裕美子

・生成AIは良いエッセイを書けるのか     岡野原大輔

・「第九」その「のっぴきならなさ」に寄せて  小宮 正安

・出会いと絡み合いのフィールドワーク     山口 徹

・「三島由紀夫とドナルド・キーン」展に思うこと キーン誠己

・能登・輪島を想う               眞木 啓子
震災から九か月余もすぎた今も復興の物音もしない輪島市就寝部・・。抗議する気力も失せ、単眼は虚しく頭上を通り抜け。今はかえって行政の窓口の人たちに対しては、あまりの仕事量の多さに同情的にすらなっています。

・「源氏物語」とプルースト           吉川 一義

・狂い終わる女                 中村 佑子

・ケインズとシェイクスピア           前沢 浩子


休肝日に毒のある童話を

2024年11月29日 20時46分49秒 | 読書

 午後から陽射しの中を歩いて横浜駅まで。
 喫茶店に入って本を読もうとしたら、読書用のメガネも、そして読みかけの本もリュックに入っていなかった。そういえば、家でリュックを背負ったとき、軽さに驚いたが、気にしなかったのが敗因。
 スマホでニュースなどを見ながら過ごしていた。読書ができないならば、もう少し美味しいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店に移っても良かったのだが、すでにコーヒーを一口飲んでいた。また財布が軽すぎて電子マネーが使えない店には入れないこともあり断念。
 喫茶店を出たのち、書店で新潮文庫のコーナーに倉橋由美子の名を見つけた。「大人のための残酷童話」。昭和という年号の最後の年のころに単行本で立ち読みした記憶があるのだが、確かな記憶ではない。数ページないし1編ほどと思うのだが・・・。
 著者のあとがきには「昭和59年」とあり、文庫の初版は「平成10年」となっている。悪い癖で思わず購入。近頃の文庫では珍しく安価で本体460円を支払った。
 著者はあとがきに「古いお伽噺に倣って、論理的で残酷な超現実の世界を必要にして十分な骨と筋肉だけの文章で書いてみよう、という気になった・・・」と記している。さて26の掌編にどんな毒がちりばめられているのだろうか。
 倉橋由美子の作品を購入して読んだのはデビュー作の「パルタイ」のみ。それも内容はもう忘れてしまっている。
 休肝日とは何の関係もないのだが、童話に込めた「毒」を嘗めてみたい衝動にかられた。衝動買いは、最後まで読んだものはほんどない。この本はどうだろう。

 


本日より「鬼の研究」(馬場あき子)

2024年11月21日 21時51分00秒 | 読書

 本日から読み始めた本は「鬼の研究」(馬場あき子、ちくま文庫)。以前から読みたいと思いながら、読む機会に恵まれずにいた。
 初めて刊行されたのが今から33年以上前の1971年、私が2年目の学生生活を始めたころだった。ずいぶん話題になっていた。しかし当時は手にとっても、読み切れず、そして理解は乏しかったと思う。現在も理解できるか、甚だ疑問であるが、少なくとも読みとおすことはできそうである。
 53年ぶりの宿題の提出というところか。

 本日は昼間の喫茶店と夜の居酒屋にて、「序章 鬼とは何か」、及び「一章 鬼の誕生」の「1 鬼と女とは人に見えぬぞよき」を読み終えた。

 


読了「トウガラシの世界史」

2024年11月20日 19時40分46秒 | 読書

   

 「トウガラシの世界史 辛くて熱い「食卓革命」」(山本紀夫、中公新書)を読み終えた。本日読んだのは、第7章「トウガラシ革命 韓国」の後半と第8章「七味から激辛へ 日本」、ならびに終章「トウガラシの魅力 むすびにかえて」。
 15世紀初冬に南アメリカから大西洋を渡ってヨーロッパへ、太平洋を渡って東南アジアへスペイン・ポルトガルによってもたらされたトウガラシが短期間で世界に広まった経過が分かりやすく叙述されていた。時には饒舌に、面白く書かれている。

 お隣同士の韓国と日本の受容の仕方の違い、中国での受容はかなり遅いこと、なども興味深く読めた。
 朝鮮半島では日本とは違い肉食の香辛料として高価なコショウ(日本からの輸入)にとってかわった。しかしこれだけではトウガラシの多用の理由として不十分であるとして、辟邪信仰説に一定の説得力があると記載している。
 「(韓国の李盛雨氏は)半島では病の神が赤い色を忌み嫌うと言われています。・・病の神を追い払うと考えたのでしょう。また非情に辛いものですから、病の神が近寄れず、体の中に隠れていた病の神が逃げ出すと考えました。
 この指摘の当否はわからないが、民俗学的にあり得ることと理解しておこう。
 そしてキムチにトウガラシを使用するようになるのは18世紀半ば以降という資料があるとの指摘である。
 「日本では(食欲増進作用は分かっていたが)トウガラシの強烈な辛みをあまり好まず、七味唐辛子のなかの一味程度で充分に満足したのである。・・・トウガラシが園芸植物としての価値が認められていたことを物語る。
 「日本での食用の歴史(七味唐辛子を除いて)は浅く明治・大正と食生活が洋風化してくるにつれてカレー粉にソースにと用途が広がった。主要生産地である栃木、茨木でその生産が始まったのは1932年(S六)であったとされる。
 朝鮮半島にしろ、日本にしろ、トウガラシの利用の歴史はきわめて浅いことが分かる。

 終章ではトウガラシの辛みの成分であるカプサイシンの生理学的な効能が述べられている。概略を記してみる。

カプサイシン①→舌の痛覚刺激→身体の消化促進・無毒化反応→胃腸の活性化→食欲増進。
      ②→エンドルフィン(鎮痛作用)分泌→疲労・痛みの緩和→快感
      ③→ストレス解消・体内の脂肪分解促進
      ④→副腎よりアドレナリン分泌→興奮作用
      ⑤→カビや一部細菌に抗菌作用→品質変化抑制・腐敗防止
      ⑥→抗酸化作用
トウガラシ ⑦→ビタミンA・C・Eの大量含有


読了「古墳と埴輪」

2024年11月15日 22時02分25秒 | 読書

 「古墳と埴輪」(和田晴吾、岩波新書)を読み終えた。本日読んだのは第7章「日中葬制の比較と伝播経路」と「おわりに」。
 長くなってしまうので、結論部分についてだけ覚書として引用してみる。

(六世紀後葉に)王権全域では群衆墳とよばせる円墳や横穴群がつくられていたが、前方後円墳は王権下全域でほぼ同時期に消滅する。それとともに「天鳥船信仰」も衰退し、埴輪も見られなくなる。古墳から他界表現が無くなったことで墓は単なる遺体や遺骨を葬った墓標のある場所に近づいた。代わって仏教文化をはじめとする新しい文化や社会制度が積極的に取り入れられ、国が定めた法制的原理が集団関係を律する社会が動き出した。・・・・「古墳から寺院へ」時代を反映した巨大な構造物が古墳から寺院へと変わっただけでなく、人びとの他界観も仏教的他界観へと変わった。」(第7章)

「古墳の儀礼」は弥生時代に水稲農耕文化の源流である中国江南の新石器時代の船棺葬をはじめ、経由地の朝鮮半島南部で加わった要素からなる基層の上に、黄河や長江の中流域の春秋末・戦国初期~秦・前漢にかけてての要素、および東晋・南北朝期の要素、さらに朝鮮半島諸国で変容した要素などが絡み合いながら列島に伝わり、列島内でも九州・機内など地域差をもちながら独自に発展した。古墳の儀礼は基本的に文字を持たない古墳時代社会でもそれなりの死生観・他界観のもとで独自の祖先崇拝が育まれた。古墳の儀礼はヤマト王権全域において、長期にわたり繰りかえし行われ、当時の社会の人・もの・情報の流通を促す最大の原動力となったのであり、古墳づくりは国づくりそのものでもあった。」(おわりに)

 時々はこのような考古学的な入門書・啓蒙書にも目を通したい。

   



「図書11月号」から その2

2024年11月04日 20時59分40秒 | 読書

 午後は二人でサイフォンで美味しいコーヒーを飲ませてくれる喫茶店に久しぶりに出向いた。オープンサンド1人前を二人で分けて食べた。

 さらに近くの駅の商業施設で衣料品を購入後、私は再度別の喫茶店で「図書11月号」の読書。妻は食料品の購入。

 本日目を通したのは次の2編

・欲望の対象としての狂女     中村 佑子
・ヘビダコの顔          川端知嘉子
・大帝国のシェイクスピア     前沢 浩子
北米植民地が独立すると、イギリスの植民地支配の重心はインドに移った。・・・イギリスの支配地域の拡大はシェイクスピア作品の世界的な拡散の歴史でもあった。
このようにしてシェイクスピアを中心とするイギリス国文学の正典は、大英帝国の支配構造が整備されていく過程で定まり、アカデミズムのなかに組み込まれていった。

 お疲れモードのような私の頭は、今月号の内容は響かなかった。今月号はこれで終了。

 帰宅後は、昨日に続いて田中一村の図録の解説に目を通した。
 


秋晴れの日

2024年11月04日 12時46分59秒 | 読書

 気持ちの良い秋晴れの日。午前中は「田中一村展」の感想のまとめの準備作業。展覧会の図録や、東京美術の「もっと知りたい田中一村」を読みながら多少の知識を得た。
 胃腸の具合が今ひとつなので、2時間ほどで作業は中止。昼食は控えることにした。

 一昨日は具合が良くないので、寝ながら「図書11月号」の3篇に何とか目を通した。

・ある図像の流転      西山 克
・言霊の迷宮        板東 洋介
・いい星の下に生まれて   遠藤 泰子

 昨日は喫茶店で
・海辺の美術史       徳田 佳世
・情熱と運に導かれて    辻  美船
の2編を読んだ。

 特に引用したい箇所や面白いと感じた個所はなかった。

 本日の午後は喫茶店で残りを読んでしまいたい。

 


「図書11月号」から その1

2024年11月01日 21時50分30秒 | 読書

 本日より11月、曇り空だったがときどき日が射し、湿度が高かったこともあり、意外と寒くはなかった。夕方からはときどきポツポツときたが傘を指すほどではなかった。深夜から明日以降は雨が強まる予報になっている。

 午前中は親の通院の付き添い。午後から家電量販店で買い物をするために出かけた。横浜駅までかなり早い速度でウォーキング。新しいノートパソコンの周辺機器を複数購入。ポイント清算のため、費用はかからず。
 いつものとおり書店に立ち寄り、いくつかの書籍を立ち読み。配布されていた「図書11月号」を手に喫茶店で4編ほど読んでから帰宅。



 本日目を通したのは、

・反逆者も国家のために死ぬ      将基面貴已
反逆罪の歴史とは、中世末期に勢いを得た政治権力が近代国民国家へと成長するとともに聖なる存在へと変貌した過程である。聖なるものは人を殺すことで聖性を主張する。それが忘れられがちな国家の本姓の一面である。

・私よ 母の車椅子を押せ       原田 宗典

・数学と本              河東 泰之

・清盛と港・船            髙橋 昌明
清盛は新しがり屋のハイカラ人間だから、帆船の優雅さに惚れ、いわば高級外車の感覚で、愛用したのかもしれない。清盛の宗船には中国の船乗りたちが乗り組んでいた。・・清盛は中国語の片言を話せたかもしれない。確信に近い筆者の夢想である。

 バスを二つほど手前で降りるとポツポツと降っていたが、傘は必要ない程度。少し遠回りして3000歩程のウォーキング。

 帰宅後は「田中一村展」の図録から画像をいくつか選択。そろそろ感想を記さないと忘れてしまいそうである。

 


「古墳と埴輪」 第3章

2024年10月30日 21時03分37秒 | 読書

   

 ウィンドウズ11へのアップグレードしている間に30分ほど歩いて、喫茶店へ。横浜駅とは別のターミナル駅の商業施設にある喫茶店は空いていた。
 喫茶店では「古墳と埴輪」の第3章「埴輪の意味するもの」を読み終わった。

古墳の築造状況からは共同体の構成員は首長の私民となりつつあったと推測している。古墳出土の人骨の調査より、この時期より大型古墳の被葬者から女性首長が消え男性首長が中心となったとの指摘もある。・・被葬者の組み合わせが家長である第一世代の成人男性と家長を継承しなかった子に変化したことから、この頃に強い父系イデオロギーの流入があったの見解も示されている。

 


「古墳と埴輪」 第2章

2024年10月28日 21時07分18秒 | 読書

   

 明け方まで雨が降っていたようだ。再び降りそうな厚い雲のなかを、横浜駅近くまで歩いた。一応退職者会ニュースの原稿もできあがり、他の役員に送信した後なので、気分的にはずいぶん楽になった。
 短時間であったが、いつものオフィス街の傍にある喫茶店でも周囲の騒音に惑わされこともなく、また眠気に襲われるわけでもなく、「古墳と埴輪」(和田晴吾、岩波新書)を40頁余り。すでに読み終わったところを思い出すため10頁ほどさかのぼって読んだ。

 ちょっと面白いと思った指摘があった。

棺の多くが船棺となると、死者と船との関係は船が使われる場面によって次のように整理できる。
 a 死者を入れ埋葬する陽気としての船、または船形のもの
 b 死者を古墳へと運ぶ乗り物としての船
 c 死者の魂を他界へ運ぶ観念上の乗り物としての船
 d 死後の世界で死者が使う観念上の乗り物としての船
 船形の棺も、遺体を運ぶ船も、いづれも船が他界への乗り物であるという観念の上に成り立っている。古墳の儀礼が完成していく過程で、遺体を運ぶ船や他界への乗り物としての船が重視されると、据え付ける棺そのものは船である必然性がなくなっていった。古墳には死後の世界で死者が用いるといった発想の船は内容である。」(第2章「他界としての古墳」)

 古墳の段階では魂と肉体についての死後の世界でのあり様に、両者が未分化なままの他界観であったことがうかがえるようだ。当時の人にとってはそれは特にこだわることではなかったのだろうが、時代の推移とともにその未分化であることが人びとの間に意識されるようになったのではないだろうか。
 先日までの「日本霊異記の世界」の問題意識を忘れずに追って行きたい。

  次回は第3から読み始める。


読了「日本霊異記の世界」

2024年10月27日 20時24分23秒 | 読書

   

 15時過ぎに家を出て、いつものとおり値段の安い喫茶店で「日本霊異記の世界」を読み終えた。

「日本霊異記」が見出した心と表現、また山上憶良が題材とし表現しようとした「志」は、その後の文学史のなかでどのように展開したかということについては追跡と検証を行うことができないままである。そこに描かれ歌われた家族の生活や心の傷みや生きることの苦しさは、どのように文学史の中に根づいたのであろうか。あるいはどこかで消えてしまったのであろうか。山上憶良の作品と思想を受け継いで、平安以降の和歌世界はどのような歌や歌人を生みだしたのか、残念ながら思い浮かべることができない。のちの説話集のなかには、霊異記説話が抱え込んでいた泥くさい生活が見えにくくなっている。・・・文学史の主流が貴族たちを中心として宮廷社会に入り浸ってしまうということと関わるのではないか。和歌にしろ物語にしろ、宮廷と貴族社会に占有されて平安という時代は続いた。日々のくらしの中に生じる貧困や病の苦しみが取りあげられるはずもなく、個々人の心は埋没せざるをえない。」(補講2「文学史のなかの「日本霊異記」)

古層の伝承世界と新たに列島に根付いた伝承世界と、二つの世界を覗けるところに霊異記説話の魅力がある。」(選書版あとがき)

天皇賛歌をうたい、類型的な相聞歌を交わす男女の傍らに、人間に向き合い社会の矛盾に苦悩する山上憶良が生きた時代、銭に執着し政争に血眼の貴族たちの傍らに、奉仕活動に身を投じ人びとを導こうとした修行者が生きた時代、それが、極東に位置する島国の八世紀だった。これだけをみても、八世紀と現代とは瓜二つだ。山上憶良を異端のようにみなす研究者や歌の愛好者は今もいるように思うが、実は、憶良の歌や文章に共感し同調する人は八世紀にはたくさんいたはずだ。憶良は地域も時代も超えうるグローバルな人だが・・。」(文庫版あとがき)

 この最後の引用は心に止めておきたい。
 著者の意を充分汲み取れたのか、自信はないが、問題意識は理解できたと思う。同じ著者の「平城京の家族たち 揺らぐ親子の絆」(角川ソフィア文庫)もできるだけ早めに読みたいと思っている。