Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

東京で震度3

2016年06月30日 23時28分21秒 | 天気と自然災害
 先ほど杉並区・吉祥寺市付近を震源とする最大震度3の地震があった。私の住む地域は震度1との表示が出た。深さ30キロ、マグニチュード3.4ということである。
 震度1といってもほんの少し縦揺れを感じた程度であった。パソコンラックの上部が微かに揺れた。最初はキーボードを操作する振動かと思った程度で、5~6秒で揺れが収まった。新道が縦揺れと横揺れ変わったので地震とわかった。

 明日は予定は入っていない。横浜の天気予報は、曇りで夕方は晴れ、最高気温は29℃となっている。湿度は高そうなので、熱中症にかかる人は増えそうな天気であるらしい。

 ウォーキングで汗をかきたいものである。同時に読書タイムも欲しい。退職者会のホームページもいくつかは更新したい。なかなか欲張りの予定をたてたが、すべて実現できるかはあやしい。

モーツアルト「ホルン協奏曲」

2016年06月30日 21時46分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日作業をしながら聴いている曲はモーツアルトの「ホルン協奏曲」。第1番から第4番までと、「ホルンとオーケストラのためのロンド」が収録されている。
 ホルンはペーター・ダム、指揮ネヴィル・マリナー、オーケストラはアカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ。録音は1988年。
 私が最初に聴いたモーツアルトはレクイエム。そして次にホルン協奏曲である。それぞれ5年間の学生時代の1年目、3年目に聴いたような気がする。
 それ以来何回も聴いている。私のベスト5にともに入れたいものである。ホルン協奏曲を聴いてから、ホルンという楽器の音色にすっかり嵌ってしまった。朗々とした透明な音を聴くと心持が雄大になる。
 近年の研究成果では、#2、#4、#3、#1の順に作曲されたということである。
 2013年4月24日にみなとみらいホールで松崎裕による全曲演奏の感想を記載した時に、このCDについては少しだけ触れた。学生時代に聴いたLPについてはやはり思い出せない。
 私はどの曲も優劣なしに好きである。一日中聴いていてもいい曲でもある。

      

「楽しい浮世絵ヒストリー」(横浜市歴史博物館)

2016年06月30日 18時28分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 横浜市歴史博物館で「楽しい浮世絵ヒストリー-丹波コレクションの世界-」展を見てきた。 展示のコンセプトは、

「丹波コレクション」(神奈川県立歴史博物館所蔵)は、横浜で貿易商を営んだ丹波恒夫氏が70余年をかけて収集したコレクションです。中でも浮世絵や広重の作品がよく知られていますが、他にも、初期浮世絵から明治期の浮世絵にいたるまで、さまざまな年代・作者・様式の作品が幅広く揃っています。
本展では、この「丹波コレクション」を所蔵する神奈川県立歴史博物館と連携し、浮世絵の歴史に沿って同コレクションの作品を紹介いたします。17世紀後半の浮世絵黎明期から明治時代にいたるまで、約6000*点に及ぶ作品から64点を厳選し、浮世絵の歴史を辿ります。
名品、有名絵師の作品はもちろん、あまり知られていない作品なども取り上げ、浮世絵と「丹波コレクション」の魅力に迫ります。

となっており、構成は次のとおりである。

序 丹波コレクションとは
1. 浮世絵黎明期-墨摺から色摺版画へ
2. 華やかな多色摺へ-錦絵の世界
3.北斎、国貞、広重、国芳
4.開港場・横浜の賑わいを描く
5.明治の浮世絵


 春信、歌麿、清長、豊国そして北斎の富嶽三十六景から5点、諸国瀧廻り1点、諸国名橋奇覧1点、広重の東海道五十三次の保永堂版から2点等、国芳、月岡芳年、清親、暁斎まで27名の64点が並び、浮世絵の歴史が一望できるようになっている。

 私の好きな北斎、広重の風景画、暁斎などはいづれも保存状態も良いようで、満足した。



 これらの作者以外では、まず、鈴木春信の「若衆煙中に恋人の幻を見る」に惹かれた。風景画ではないが、まだあの浮世絵独特の美人画の画一的な表情になる以前の作品である。
 すっかり呆けたような若い男の表情は魂が抜けてしまっている。この表情からすると、男から袖にした女ではなく、どう考えても亡くなった女の面影が燃やした恋文から現われた図と私は思う。中国由来の構図ということだけではない、物語性を持った作品であると思う。また幽霊画に通じる何かを感じた。



 渓斎英泉は美人画だけかと思っていたら風景画も面白いと思ったが、この「日光山名所の内 素麺の滝」(1843-46)が目についた。やはりこれは北斎の諸国瀧廻り(1833)の影響というか、模倣と思われる。人物も北斎よりもおとなしいし、動きがなく、大胆なデフォルメはとなっていない。だが、滝が北斎のものよりもクローズアップされ、その効果が出ているように思われた。
 広重の「月に雁」は切手で有名だが、実際に見たのは初めて。切手で見るよりはやはりこの大きさで見るのが良かった。



 小林清親の油彩風の「鴨と蓮」も初めて見た。記憶にとどめておきたい作品に思えた。



明日は講座

2016年06月29日 23時16分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は午前中に「平家物語のこころに親しむ その10」の講座の日である。明日の回は「回想される平清盛-悪行人たることの意味」という副題が添えてある。「悪行人として描き続けられる清盛ですが、そのように造形されることの意味を考える」と記されている。
 お昼からは今のところ予定はない。明日も雨、午前中の降水確率は30%、午後は60%。傘は必携のようだ。

 退職者会のホームページの更新が4件ほど残っている。早急に処理が必要。2件ほどは是非更新しておきたい。

 あとは読書にいそしみたいものである。久しぶりにブラームスかモーツアルトも聴きたい。

「奇想の図譜」(辻惟雄)読了

2016年06月29日 21時32分04秒 | 読書
   

 本日ようやく「奇想の図譜」(辻惟雄、ちくま学芸文庫)を読み終えた。Ⅰの「浮世の眺め-舟木家本「洛中洛外図」」とⅡの「稚拙の迫力-白隠の禅画」に少し手間取り、また目の疲労で活字を追うのがつらくなっていることもあり、やっと読み終えた。
 本日すでに2回ほど記載しているので、繰り返さないように簡単な感想を備忘録として記載しておく。
 全体として日本の絵画を中国や朝鮮半島からの影響を踏まえて相対的にとらえようとする叙述の方法には好意をもてる。特に江戸時代、鎖国と云われた江戸絵画、特にここでは北斎や広重について、極めて小さな窓口だったかもしれないが、オランダを通して流入した西洋絵画の影響を見つけ出そうとすることには大いに惹かれた。
 またⅢの「「かざり」の奇想」では網野善彦などへの注目など私の関心の幅に沿うものでもあり、著者が貪欲にさまざまな方法論を模索しながら独自の視点を獲得しているように感じた。
 ただ、そのわりには「日本文化」「日本民族」という、国家・地域・民族‥等への考慮を経ない概念を無造作に使いすぎるのではないか、という違和感はある。世代的にはやむを得ないのかも知れないが‥。
 柔軟な思考や論述、幅広い知見には敬意と脱帽である。

一人呑みは安価に・・

2016年06月29日 19時48分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
17時半過ぎに本日の所用が無事終了し、18時に横浜駅に戻ってきた。
友人と別れ、居酒屋で一人呑みという贅沢をしている。
今朝ほどアップした記事に記した「奇想の図譜」を読み終わった。私にとっては、居酒屋で、喧騒を背にして意固地な雰囲気を持続する時ほど読書が進む。眼の疲労がアルコールで軽減するためかもしれない。偏屈な中年、そして爺さんであることは昔から変わらない。
3種の凝ったお酒の呑み比べが900円。美味しかった。しらすと豆腐のサラダも私の定番。
そろそろ会計をして帰宅をしないと、まずい。

車中で辻惟雄「奇想の図譜」

2016年06月29日 11時21分27秒 | 読書
朝から移動の車内で「奇想の図譜」(辻惟雄)を読んでいる。北斎からはじめて、洛中洛外図、動植綵絵、白隠、仙がい、写楽、かざり・模様と論理の展開はそれこそ「奇想」で楽しい。
特に写楽について、西洋画の影響を丹念に追っているのは、いい。
「かざり」も興味はなかったが教えられるところ大である。
本日中に読み終えそう。

中原中也の詩「骨」

2016年06月28日 23時32分50秒 | 読書
 高校生の時に印象に残った中原中也の詩がある。これも「在りし日の歌」におさめられている。これは読んでそのまま意味は通じる。難しいというか、判らなかったのは第2連にある「雨を吸収する」の意味。「光沢もない」「風に吹かれる」「幾分空を反映する」というから骨の表面のことかと思っていると唐突に「雨を吸収する」と骨の内部構造に言及するあたりがわかりにくいと思っていた。
 しかしこの詩の持つ言葉のリズムはとても気持ちがいい。このリズムが私には中原中也のもつ詩の最大の特徴だと思っている。

  骨

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある。
みつばのおしたしを食つたこともある、
思へはなんとも可笑しい。

ホラホラ、これが僕の骨--
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて
見てゐるのは、--僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

岩波書店「図書7月号 」から

2016年06月28日 20時17分09秒 | 読書
 本日岩波書店の図書7月号が夕方にとどいた。午後からの打合せと所用が終わり、ちょうど家に付いた時に郵便局の配達人が直接私に手渡しをしてくれた。こういう事態は現役の頃には無かったことで、退職後にあらためて配達してもらえることのありがたみと、直接手渡されるということの嬉しさが湧いてきた。人との接することで、あらためて制度というものの重みをいろいろな場面で実感する。このような制度が働く人の労働条件の悪化に伴って希薄になっていくことや、「愛想」の強制による形骸化、末端の職員への責任の押し付けが違和感として私には敏感に伝わってくる。
 さて先ほどまでに読んだ記事は、
「偏光板」        伊知地国夫
「死の再発見」      二ノ坂保喜
「理解できないことども」 高村薫
「よい眺め」       三浦佳世
「邂逅への衝動」     若松英輔
「大岡信と和歌の伝統」  池澤夏樹
の5編。
 特に「死の再発見」と「理解できなことども」「よい眺め」の3編は心に残った。
 「死の再発見」では「在宅ホスピス」20年の実践に裏打ちされた重みを感ずる文章であったと思う。在宅での死が1970年代に病院死が在宅死を追い越したこと、筆者の考える「良き死」は、
1.それまでどういう生き方をしてきたか?
2.家族や友人と良い関係を築いてはきたか?
3.悔いのない介護ができたか?
4.最後がおだやかだったか?
5.思い出を残す。
と定式化できるのではないか、ということが心に残った。
 その中で「(死の体験は)息子や娘はもちろん、孫たちにとって「死の体験」「死への準備教育」として重要な意味を持つ」ということには全面的に賛同したい。
 以上の指摘は私も実感したし、確か1970年代に「病院死」「自宅死」のことは当時もニュースになっていたと思う。
 実は私の父親の死の時、私の娘はまだ小学校4年生であった。娘に「死」というものを身近に体験させることが出来たことについては、私は父に感謝している。その体験をもう20数年たった今もすっかり成人した娘ではあるが、心に刻んでおいて欲しいと今でも思っている。



 高村薫氏の「理解できないことども」は、毎回ではあるが、そのままここに貼り付けておきたい。


 三浦佳世氏の「よい眺め」はモランディの試みを丁寧に解説してくれている。いつもながら勉強になる。

 残った記事では、
「終焉のない「戦後」」  M・モラスキー
「永遠の未完」     小川 隆
などについてはこれから眼を通す予定。


中原中也の詩「春の日の夕暮」

2016年06月28日 12時02分55秒 | 読書
 ふと何の前触れもなく中原中也の詩をまた読みたくなった。
 「山羊の歌」の冒頭に「春の日の夕暮」という詩が掲載されている。

 春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏やかです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです

吁! 案山子はないか--あるまい
馬嘶くか--嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトポトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです


 高校生のころ、この詩を読んでまったく理解できなかった。「トタンがセンベイ食べて」という最初の一行でもう立ちどまってしまった。イメージが全然わかない。意味が頭の中で再構築できなかった。そのまま詩集を読むのをやめてしまった。しかしいくつかの中原中也の、「汚れちまった悲しみに‥」などいわゆる有名な詩は好んでいた。国語の教科書や参考書に出てくる詩にはずいぶんと惹かれたものである。
 大学時代にも文庫本の詩集を買ってときどきめくって読んでいた。しかしまだどこか違う世界にある詩のようで靄の中をさまよったいるようだった。
 手元の資料だと1978年に「吉本隆明歳時記」が出版され、中原中也を取り上げてこの詩の解釈をしていた。私はこの論がとても気に入った。そして中原中也の詩がすっと頭の中にはいってくるようになった気がする。
 「景物が植えた心を満たそうとする素因として働いてしまう」「この詩人のうす靄のかかった温暖で静かな春の夕方の気分的イメージだけがあって、言葉は行きあたりばったりでいきなりはじまっている。「トタンがセンベイ食べて」は音連鎖の気持ちよさからきた意味のない枕言葉としてみてもいい」からはじまるこの論で私はようやくこの詩のイメージを掴むことが出来たように感じた。
 自分の周りの景物がふと頭の中にあるイメージをつくる。それが心象風景として次のイメージをさらに呼び込む。次に外界にそのイメージが溶けだしていくことで最初のイメージの変容と飛躍がもたらされる。周囲の景物と、それに触発された自己の心象風景とが浸食しあってあの独特の世界を作り上げるのか、と思う。
 中原中也は、4連の詩をつくり、起承転結をきちっとつくる人である。特に転と結が嵌らないと公表されない未完として残されたようだ。しかしその未完の詩の中にも私なり気に入ったものはたくさんある。

 詩がふとわかったつもりになる時というのは、不思議なものである。ほんの些細なきっかけやことば、心持ちの違いでそれが起きる。ただしそれはあくまでも「わかったつもり」である。「わかった」とは程遠いと思っている。

 この詩、冒頭の「トタンがセンベイ食べて」と最後の「瓦が一枚 はぐれました」まではイメージの連鎖として飲み込める。しかし最後の1行の「自らの 静脈管」が作者の身体なのか、生命体になぞらえられた都市のことなのか、未だにわからない。「自ら」が作者なら「私の」の方が私にはスッキリスのだが‥。都市という生命体の持つ「静脈管」というイメージの飛躍として読みたい気分の方が大きい。

箱根では携帯で撮った写真

2016年06月27日 22時18分04秒 | 山行・旅行・散策
スマホでとっても上手に撮影する人もいるが私はどうもうまく撮れたためしがない。
やはり腕とセンスが悪いようだ。

小田原城のアジサイ



宿から見た二子山



宿の庭



芦ノ湖



芦ノ湖から駒ヶ岳



仙石原から大涌谷



ガラスの森美術館

   

メアリー・カサット展夜間特別鑑賞会

2016年06月27日 21時12分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ブログのメンテナンス以降の不具合が続き、いらいらが続いているが、とりあえず雨飾山山行は晴れ、昨日・本日の箱根も上々の天気、そして申し込んでいた横浜美術館の「メアリー・カサット展夜間特別鑑賞会」の当選通知は6月8日にとどいた。届いた時には気がついたのだが、忘れていて昨日旅館の布団の中で「そういえば当たってたんだ」とにやにやと喜んでいた。
 7月2日(土)の18時30分から鑑賞タイムを含めて2時間。

 イライラばかりだと精神衛生上かんばしくない。このようなものは素直に、少し大げさに喜ぶことにしよう。


メンテナンス以降の不具合が未だ回復しない

2016年06月27日 20時40分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど横浜に帰着。仙石原にあるガラスの森美術館に寄って、強羅・箱根湯本・小田原経由で横浜に戻った。昼食はガラスの森美術館、夕食は横浜駅と、昨日昼からホテルの食事を含めて5回連続で外食。さすがに家での食事が恋しくなった。
 昨日スマホからのブログへの写真のアップデートができずに困っていたが、本日の昼に試しに再度挑戦したらとりあえず復旧はしていた。しかしメンテナンスから2週間経ってもこのありさまである。未だにコメント通知は復旧していない。19日に問い合わせをしてから3回ほどやり取りをしているが「現在担当部署にて確認を行っております」との返信しかない。先ほど催促のメールを送信した。
 またPV数が半減、IP数も2/3位に激減している。まだ不具合が続いているようだ。対応の仕方全般からは誠意ある対応とはとても感じられない。記事だけでなく写真など膨大なデータが蓄積されており、いまさら他のブログのサイトに引っ越しが出来ないこちらは、ひたすら待つだけなのか。


双子茶屋傍の宿

2016年06月26日 15時49分27秒 | 山行・旅行・散策
二子山が目の前にある県民共済の宿に到着。

小田原城の紫陽花を見て、昼食。箱根登山鉄道でも紫陽花を見ながら、小涌谷で下車。バスがすぐに来た。
大分前に来たことがあるそうだが、私はまったく記憶にない。
空は雲は無く、梅雨とは思えないほどの快晴。

パソコン前で草臥れた梅雨の一日

2016年06月25日 22時52分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 朝から19時までかかって二つの美術展の感想をアップした。とてもくたびれた。パソコンの前に坐って作業をしているといつの間にか時間が経ってしまう。ただし90分に一度位はお茶を飲んだりするためにパソコン前を離れた。それがなければ肩が凝ってつらい目に遭う。それでも本日は肩がだいぶ凝った。
 明日から一泊で出かけるので、本日中に更新したかったのでとりあえずホッとしている。

 本日は朝から湿気を多く含んだ風が強く、またパソコンの前に一日座り込んでいた。ウォーキングに出かけたかったが諦めざるを得なかった。最高気温は予想は30℃だったものの13時くらいに28.6℃でとどまった。風は朝6時に記録した12.5が最高値であった。感覚としては朝よりも夕方の方が風が強かったと感じたが‥。
 南東の方の空に一部雲の切れ目があるが、9割り方は雲が空を覆っている。星は残念ながら見ることが出来ない。
 明日・明後日は晴れてほしい。

★梅雨の蝶妻来つつあるやも知れず    石田波郷
★抱く吾子も梅雨の重みといふべしや   飯田龍太
★荒梅雨や山家の煙這ひまわる      前田普羅
★またたきは黙契のごと梅雨の星     丸山哲郎