10月末ともなると11月の酉の市の声が聞かれる。しかしこの暖かさでは実感が湧かない。今年は11日(土)と23日(木)とのことである。コロナ禍前には毎年ではないものの横浜橋商店街とその近くの金刀比羅大鷲神社の酉の市を見に出かけた。正月三が日に2度ほど親と子どもと一緒に「初詣」なるものに出かけたことはあるが、酉の市で境内に入ったことはない。
あの長蛇の列を見ただけで、「勘弁して」という声が出てしまう。熊手を売る屋台や、さまざまなものを扱う屋台の間を人混みにもまれながら一周して帰ってくるのがいつものパターンであった。娘がまだ小学生になるかならないかの頃、小さな熊手を手に入れて帰って来たことはある。私は屋台でビールか缶チューハイを購入して飲みながら人混みに身を任せていた。寒くなって人恋しくなる季節に相応しい人混み、という評価が出来そうである。
さて今年はどうするか。親を連れていくことはもう無理。娘夫婦はつき合ってはくれそうもない。多分、行かない、という選択になりそうである。
★くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 久保田万太郎
★裸火の潤みし雨の酉の市 松川洋酔
★二の酉の風の匂ひと思ひけり 佐藤若菜
今年は一の酉の前の8日が立冬、二の酉の前日が小雪。はて二の酉の風の匂いとはどんな匂いだったか。嗅覚が歳とともに消えてしまった私には、匂いは記憶の中にしかない。それも40歳以前のもう30年以上前のかすかな記憶しかない。強いにおいであるキンモクセイ、クチナシ、チューリップ、ユリなどの匂いは鮮明に覚えているが、かすかな匂いほど記憶にない。
また具体的な匂いではなく、「雰囲気としての匂い」も次第に頼りなくなっている。二の酉の匂いとは私にとってはどんな匂いだったか、いくら自問してもわからない。生理学的な嗅覚としての記憶だけでなく、歳とともに「雰囲気としての匂い」も忘却の彼方である。