昨日は阪神淡路大震災から30年、神戸をはじめ各地で追悼の集会が催された。
私は退職者会の資料作成やスマホの不具合などで慌ただしかったので、30年前のことを思い出すゆとりもなく過ごした。
本日もニュース印刷の直前に少しばかり手直しをしたい箇所を見つけたら、全体の構成まで手を入れる必要に迫られ、100部の印刷に9時から13時過ぎまでかかってしまった。
しかし本日印刷している間に、モーツアルトのレクイエムを聴きながら、30年前に自分が何をしたか、反省がてら思い出していた。
今更70歳を超えた自分が、当時出来たこと、出来なかったことを列挙しても今後に生かすことなどないかもしれない。しかし「災害」というものに関わった自分のことが「懐かしく」思い出された。
当時第一報は横浜で聞いた。30年前のこの日、政令指定都市の建設部局の労働組合の代表者の集まりが仙台を当番都市にして開催されることになっており、朝7時に家を出て、新幹線で仙台に向かった。
仙台で関東以北の仲間は定刻通りに集合、テレビで深刻な被害状況が少しずつ明らかになるのを見ていた。名古屋の代表者がかなり遅れて到着。そこで名古屋が把握した関西の状況が報告された。
議題は最低限の合意で決め、支援体制をどのようにするか等を議論した。会議を早めに切り上げそれぞれの都市に戻り、支援活動の最前線を担うことを誓い合ったことを覚えている。
自治体の労働組合、とりわけ建設部局の組合として何が出来るか、頭と体を駆使して、組合員と議論を重ね、労働組合・行政側の現地支援への組合員の派遣、支援物資やカンパの取り扱いなど今考えるといつ眠ったのか、不思議であった。仕事をしながら、議論と会議、当局交渉などなど。当時の手帳を見ると隙間がない。この活動の先頭で力を発揮してくれた組合員の顔が未だに思い浮かぶ。
仙台での会議に参加できなかった神戸、そして大阪・京都の3都市の建設部局の仲間の顔がいつも浮かんだ。
30年前は、私の属していた労働組合の再建がひと段落し、ごく少数ながら組織が一応整ったばかり。不遜で被災者には申し訳ないが、この過酷な支援活動を通して組織人員が3倍増したことで、少し報われた気分になったこともある。
「災害」というものの法整備の問題点、災害時対応の問題点、労働組合の役割、支援のあり方、自身と家族の災害対応、そして自分の働く横浜市の災害対応、さらに日常業務を災害対策の観点から見直す視点など、実に多くのことを学んだと思う。「災害」対応、というものが行政にとっても、そこに働く者にとっても、労働組合にとっても大きなキーワードとなることを実感した。
私の人生にとっても大きなエポックであった。