本展のチラシには
「宮崎進は1922年に山口県徳山市(現周南市)に生まれ、20歳で日本美術学校を繰り上げ卒業し出兵、敗戦後1949年までシベリアに抑留されました。戦後、取材に基づく写実的な作品を展開し、1967年には《見世物芸人》で安井賞を受賞します。1974年には、神奈川県鎌倉市にアトリエを移し、そこで旺盛な創作活動を展開します。
布のコラージュは1950年代から用いられていましたが、とくに1980年代以降、それらの作品の規模は大きくなり、抽象的になっていきます。
宮崎の創作の根底には、敗戦と抑留の飢餓的状況の経験から見つめ直された人間の生命への強い想いがあります。」
と記されている。
展示カタログや著作である「鳥のように-シベリア記憶の大地-」を見ると、1988年位から宮崎進の作品はシベリアの体験をもとにしたものが中心となってくるように思える。少なくとも今回の展覧会では、1988年の「ラーゲリの壁」と「絶望」が始まりの作品である。
<ラーゲリの壁(コムソモリスク第3分所)> (1988)
<絶望>(1988)
そして始まりは具象的であり、前回取り上げた1950年代の北海道や東京の風景を描いた手法に近いといえるかもしれない。暗い空と土に囲まれた収容所の壁と、記念撮影のように並んだ人間の形態とが描かれている。壁が白く塗りこめられてのしかかるように世界を区切り、人間存在の確かさを示すように白く微かに光っている。
画家は「ここにあった絶望こそ、私を何かに目覚めさせるきっかけとなった。生死を超える‥人間を人間たらしめている根源的な力こそ、私を突き動かす」とも述べている。
ラーゲリの壁はいくつかのバリエーションがあるらしく、画家にとっては重要なモチーフとなっている、と図録には紹介されている。
<冬の鳥>(1993)
しかし次第に具象的な描き方から抽象的な表現に移行していくようだ。また風景ではなく、よりクローズアップしたように限られた平面の中に対象物のような形態が閉じ込められていく。
この<冬の鳥>もかろうじて鳥のような形態が見える。形態よりもそこにある絶望と希望という想念が、この素材とモノクロに近い色彩に変換されているようだ。
「そこでの悲惨な生活は写実的に描くことでは絶対に表現できない」と言い切っている。
こうなってくると、画家自身による言語表現が補足のように加わってくる契機となるのかもしれない。引き合いに出すのが適切かどうかはわからないが、香月泰男の絵画も作者自身の言葉が重要になっている。
<ナナエツの少女>(1996)
画家にとってはは同時にトルソも重要な表現であるようだ。収容所生活の中でもシベリアの地に住まう人々との接点は、彼らへの共感・親和となっていたようだ。ここには微かな平安が感じられる。
<黒い大地(泥土)>(1998)
<壁>(1999)
この頃から顔を大きく描いた作品を除いて、具象的な表現からはどんどん遠ざかっていく。そして大地(泥土)と壁が画面一面にはみ出すように、クローズアップされて描かれる。
大地(泥土)と壁の関係。壁は視界を遮り、人の自由を奪い、世界を区切る象徴として描かれている。画面の下には大地に接するように土の部分と思しき空間がどの絵にも描かれている。
大地は黒一色に描かれていてもその下に生命の息吹があり、希望と生命力の象徴して扱われていると断言できそうである。壁は黄土色や白っぽい色であり、大地ははじめのうちは黒ないし黄土色で描かれる。題名を見なければその違いが判らないまでに酷似した印象になってくる。ここは作者の思いを聞きたいところである。私には疑問として残っている。
大地も壁も素材の麻袋等の形がそれぞれの模様の区画線のように見え、その隙間から何かしらが覗いているように思えるのは穿ちすぎであろうか。大地からは植物相がその隙間からエネルギーを放出するように芽が出、壁からは区切られた外が垣間見られるかもしれない期待が、囲われた者たちの希望が存在しているようにも思える。
<生きるもの(2004)>
写実的表現は不能との表明を先に紹介したが、同時進行で盛んに絶望や虚無の人の顔を画面いっぱいに描いた絵やトルソを制作している。
そのもっとも力ある作品と思えたのがこの赤黒い人物像である。私はこの絵を見た時キリスト像それも死後聖衣に浮かび上がったという聖顔を思い浮かべた。
諦念のような表情であるとともに、人間の存在を根底から見てしまった観察者の相とはこのような表情かもしれないと思った。血のような赤黒い色が、かえって死相に見える。
顔に対する執念のようなこだわりもこの画家のひとつの特徴といえるのではないだろうか。
<「ヒロシマ」この大地の上で>(2006)
作者は、2006年に広島市より「ヒロシマ」の制作依頼を受ける。この作品と<「ヒロシマ」VOICE>と<「ヒロシマ」Land>の3作を出品している。
20歳で広島の部隊に入隊し、外地勤務を希望しなければ原爆により消滅した部隊に残っていた可能性があった作者である。この体験をもとに制作をしたと推量される。
シベリア抑留体験と原爆惨禍、こんなに重い体験をふたつながらに自分の内に抱えている人生の重みというものは、なかなかないものであろう。
しかしこの体験も体験にこだわり、自分の内に抱え込むことを意図的に追及しない限り、それは忘却という時間の流れに委ねてしまうだけである。体験は表現しない限り、拘り続けない限り、それは空虚である。私もせめて小さい体験であったことであってもこだわり続けたいとあらためて思った次第である。
<立つ人>(2006)
この<立つ人>は見た目には何かわからなかった。確かに2本の足のようなものが画面中央下部に何となく見えるように感じる。しかし灰色の丸っこい長方形のかたまりは顔に見えた。
そのような具象的な解釈は不要なのだろうが、顔と足で人間の全体像の象徴なのかと思った。そしてひょっとしたら「ヒロシマシリーズ」と連動して想像すれば、原爆で壁に焼き付けられた人間の跡を暗示しているのかもしれない。あるいは人体の骨の化石のように、シベリアとヒロシマに生きた人間の痕跡なのかもしれない。
同時に少し緑がかったこの灰色の周囲の青みがかった明るい色からは、救いのシンボルにも思える。
この絵はいまだに私には謎の絵である。
<花>3点(2004、2005、2007)
<花咲く大地>(2012)
<花咲く大地>も繰り返し描かれる重要なモチーフである。
「シベリアの春の到来が表現されています。ストラヴィンスキーの≪春の祭典≫のあの大騒ぎの音響そのまま‥。氷のあいだから小さな花が芽吹いてくる。それがある日大地全体が赤くなってしまうほどいっせいに花咲くのです。そのとき人間も‥気が違ってしまったかと思うほどに喜ぶのです。大地に宿った奥深い生命力。人間が生きること、そして、死ぬことの意味をわたしは、さまにシベリアで知ったのです。」
と作者の言葉がカタログに記されている。
この<花咲く大地>シリーズでも、大地や壁のシリーズとともにこの麻袋という素材がとても生きていると私には思える。
この素材無くしては、この赤黒い血のような色も、隙間の大地の色と思われる黒も生きてこない。作者が見つけた素材へのこだわりが「花開いた」と感じる。
この赤黒い色は、戦争と抑留という体験下で流された血、そこで死んだ者たちの生命の象徴として大地より顔を出した花なのであろう。だから赤い花でなくてはならないのであろうとも思った。
<立ちあがる生命>(2003)
この像の題「立ちあがる生命は今回の展覧会の副題にもなっている。
このような明るい青はこの作者は絵でもトルソでも過去には使っていないようだ。「立ちあがる」という題名から推察されるとおり、これは大地から明るい空に向かって植物が旺盛な生命力を発揮するようなエネルギーを表現しているのだと思う。
しかしちょっとこの作者には唐突な色である。このように輝く色は少なくとも展覧会ではない。随分思い切った、あるいはこれまでの作風からの転換を意図した作品に思えた。
この年の前年に作者は横浜美術館で「よろこびの歌を唄いたい」という展覧会を開催、平面・立体の大作80点を出品したとある。80歳での展覧会である。
シベリア・ヒロシマという戦争体験、そして戦後体験のどちらかというと暗い状況、人間の強いられた極限状況にこだわってきた作者のある意味の転換であるのかもしれない。
私はどうもこの「転換」にこだわり過ぎているかもしれない。もともとこのように明るい方への指向があるにもかかわらずそれを見抜けていない私の限界なのかもしれない。しかしこの「転換」(マイナスイメージで使っている言葉ではない)に見える作風はどこに潜んでいたのだろう。
しばらくはこの像が頭から離れない時間が続きそうである。
(追記)
先ほど、香月泰男の画集を復習がてらめくってみた。香月泰男のシベリアシリーズは黄土色と黒を基調とした絵である。人の顔は黒く塗られ、印象的である。
その中でも青は、空、海という希望の象徴としていくつかの作品にだけ登場する。赤は朝陽で2点、燃える兵舎の描写で1点、青は明るい色合いで空と海で各1点のみ使われている。赤で印象的なのはシベリアシリーズではないが彼岸花を描いた1970年の作品が印象出来である。
宮崎進もこの明るい色を同じように使っているだろうことは間違いはなさそうである。
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