Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

日野草城の句をいくつか

2014年06月30日 11時32分13秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 作業を中断して、ちょっと寄り道。

 昨日俳句をいくつか記した中に日野草城の句を1句挙げた。復本一郎は「誰も詠み得なかったエロティシズムの世界を構築し得た」と評している。今回はそのような句以外にもある好きな句で夏の句を5句ほど。

★仰臥して四肢を炎暑に抑へらる
★夏の闇高熱のわれ発光す
★炎天に黒き喪章の蝶とべり
★日盛りの土に寂しやおのが影
★ながながと骨が臥ねてゐる油照

 自分の身体を客体視して詠むことのできる人のようだ。また自分の身体が周囲の環境に融けていくような感覚を持っている人でもある。3句目は自分の身体感覚ではないが、浮遊する蝶に自分の身体感覚を同調させているようにも解釈できないだろうか。
 このような身体感覚を私も時々経験する。自分の身体をどこかで持て余している感覚でもある。この感覚の延長線上に「エロティシズム」の世界も構築できるのではないか。





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半分は休日気分

2014年06月30日 11時22分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日と明日は講座はなし。昨日講座があったので気分としては本日が日曜日。
 明け方から8時までぐっすり寝たつもりであったが、どうも体がこわばっていた。妻に起してもらったが、8時少し前から寝言で何やらブツブツ言っていたらしい。何かひょっとしたら夢でも見ていた可能性はあるが、いつものことながらまったく記憶にない。起きてからも結構フーフーと息をしていた。かなりのエネルギーを費やして体が緊張していたみたいだ。
 朝食を食べるのに問題はなく、普段通りの食欲もあった。顎関節症で口を強く噛みあわせてはいけないのだが、毎朝口は普段からかなり緊張して歯を噛みしめているのを自覚するようになった。今朝は一層口の筋肉が疲れていた。
 昨日の夕食はベトナム料理。野菜がたくさんあり、満足。辛いものはそれほど食べたつもりはなかったけれど、お腹が朝食時からゴロゴロとしていた。

 休日気分なので、朝食後はベッドで1時間ほどゴロゴロ。読書をしたわけでもないし、寝てもいない。
 起き出してから宮崎進「旅芸人の手帖」の感想の2回目をこれから書くつもりで、もう一度絵をバラバラとめくっている。うまくまとめられるか自信なし。


 昨日のようにカラッとは晴れていない。引き続き天気が不安定らしい。




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黒雲に驚く‥

2014年06月29日 23時42分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
センター南駅から、南方向(上)

同、東方向

同、北方向


 本日講座の始まる14時くらいまでは翌晴れあがっていた。講座が終了し16時ころ、横浜市歴史博物館からセンター南駅まで歩いた頃には空の雲がみるみる黒くなり、雨がポツリと降ってきた。携帯電話には神奈川県下に竜巻注意報が出たとのメールが届いた。
 駅前の書店を見てから再び空を見るとますます黒くなり、東の空では遠くの晴れた青空がのぞいて、真上の黒い雲が一層際立って不気味に見えた。
 これはついこの間のように雷がなり、大雨になるのかと心配しながら、横浜市営地下鉄で桜木町に戻った。
 途中で雨雲の動きを携帯電話の天気予報のサイトで確認したり、ツイッターの状況を見ると北関東、東京都内、そして川崎までがひどい雨であることが確認できた。
 幸い横浜中心部には雨雲はかかってこないようであった。

桜木町駅から東方向


 17時半過ぎ、桜木町駅まえで空を見上げたが、雲は多めであったし、若干低かった。それでもセンター南駅でのように黒くはならず、夕方の日射しもあり、明るい空であった。
 ほんの少しだけ降り始めていたが、それで雨は上がってしまったらしい。帰宅時には星が良く見える空に回復していた。

 昨日から今朝にかけての雨は久しぶりに「梅雨らしい」雨であったが、一転再び激しい雨を伴う不安定な天気になってしまった。



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「象山と海舟」講演会

2014年06月29日 22時48分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   


 本日は横浜市歴史博物館で開催された講座「象山と海舟」(講師:大口勇次郎御茶ノ水女子大学名誉教授)に参加してきた。
 申し込んでいたのに当選ハガキが来た先週にはすっかり応募していたことを忘れてしまっていて、思わずニンマリ。
 すでに展示は見ていたので概略はわかっていたつもりでも、話を聞くというのは勉強になるものである。
 佐久間象山という方は高校生の日本史の教科書には必ず名前は出てくるが、具体的な事績としては語られてはいない。吉田松陰の黒船への乗船問題に連座して真田藩で蟄居処分を受けたということと、京都で攘夷派に暗殺されたというくらいしか記述が無いのではないだろうか。いわゆる薩長史観のなせる業と云われている。
 佐久間象山の顕彰については、明治の半ば以降の勝海舟の尽力が大きかったようである。しかし今回の展示をみても、もうひとつその事績についてはっきりとしたイメージが湧いてこない。私の理解が足りないのか、功績の内「これだ」という形のあるイメージが私の中に像を結んでくれない。
 資料としてもらった年表についてはこれから折をみて時々参照してみようと思う。





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艶めかしく

2014年06月29日 12時22分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「時には本の話でも…」で「夏はいらない」との面白いコメントもあり、私が「山に行けません。暑くなりません。果物が食べられません。生ビールが美味しく味わえません。朝顔が咲きません。夕立が無くなります。茄子やキュウリが美味しくなりません。その他たくさんあって、締め括りとしては、夏がくれば男女の仲がよくなります(逆もあるかな?)」と夏を擁護した。
 まあ、楽しい会話なのだが、ふとそんなことを書いているうちに「男女の仲が良くなる」のが表現されている俳句は無いか?と思いついた。

★おそるべき君等の乳房夏来たる   西東三鬼
★初夏の乳房の筋の青さかな   野村喜舟
★いっぴきの女と眠る梅雨の夜   日野草城
★炎帝を畏れず少年のアキレス腱   水沢葉子
★肘触れて立食うどん東京朱夏   有光米子
★夏めくや廊下に映る脛二本   高橋千代美

 最初の句は「男女の仲が良くなる」というのではなく、社会現象として戦後を活写した見事な俳句なのだが、ここでも取り上げてみた。「乳房」で、明治生まれの西東三鬼にしてみれば驚くような時代の転換であったのであろう「女性の役割が大きくなった戦後の社会」を喩えているのだが‥。

 男も女も、若い時は大いに異性を意識する季節かもしれないが、読み方、着目の仕方はしかし男女差が大である。よく男は直接的と云われるが、まさにそのとおりだと思う。
 日野草城の「いっぴきの女と眠る」までいっちゃうとこれまた私などはドギマギしてしまう。

 この歳になると、そういう雰囲気からは遠いところでビールと冷酒の旨さを夏野菜をツマミとして静かに過ごしたいという気持ちの方が強くなることは確かだ。もはや「廊下に映る脛二本」も直接的過ぎるような気もする。
 我がパソコンでの変換ミス「老化に移る脛二本」で十分である。


 さて本日は、久しぶりに横浜市歴史博物館での講座「象山と海舟」(講師:大口勇次郎御茶ノ水女子大名誉教授)に参加する。
 講座終了後は、家族で夕食会ということで昨日に続き桜木町へ。安い居酒屋ではなくレストランらしい。帰りは雨の予想となっている。




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「超高速!参勤交代」

2014年06月28日 22時48分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 本日は格安で手に入った切符で、「超高速!参勤交代」を妻と見てきた。
 本日は息抜きということで、楽しんで見ることに徹してみた。奇想天外なあらすじであるが、観る人に笑いのポイントは外さないようにしているようだ。
 ということで、いろいろあら捜しをしてもしょうがないので、そのままパンフレットを記載しておこうと思う。

 役者さんの顔を覚えるのはまったく苦手なので、どこかで見たことのある顔がいっぱいいたが、誰と誰がいた、などというのは私には理解できない世界なので勘弁していただきたい。
 今でいえば1万5千石というのはどのくらいの自治体なのだろう。面積で云えば今の横浜18区のうちの5区位だろうか。あるしは川崎市位の広さだろうか。人口はどのくらいか想定もつかない。
 弱い者いじめに対する抵抗、勧善懲悪、殺陣、義憤、ほんのちょっとした艶、実は最上位のものが味方、身分社会を超えた人の結合‥‥一応必要な材料は揃えられていた。
 殺陣はなかなか見ごたえはあったようだ。お国ことばはすべてがそうならば伝わらないからどの程度にするのか、というのは難しい問題であるが、この映画のお国ことばはかなり大胆に使っていたようだ。これは面白かった。

 それ以上のことは考えずに、桜木町駅の傍で食事をして帰ってきた。



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宮崎進「旅芸人の手帖」を読む(1)

2014年06月28日 13時13分08秒 | 読書
 「立ちのぼる生命-宮崎進」展(その1)で私は、宮崎進の<墨東>(1959)について次のように記載した。

 「私はこの都市の風景に対して釧路の絵のような親近感がない。ちょっと違うように思う。もっとも小学校低学年の私と、生死の極限を体験した30代前半の画家とは比べものにならない感覚で都市に対しているのは承知をしたうえで云っているつもりだ。」
 「この絵で画家はこの東京の風景に大きな違和感を感じているのだと思える。少なくともそこに溶け込もうとはしていない。私は特に疎外感はなく住んでいたが、画家はこの都会では異邦人であったのだろう。こんなにもくぐもって墨東を描いた画家は今のところ私は他に知らない。この都市からの疎外感が表現されている。」
 「釧路の絵もこの絵も人が描かれていないが、この絵には人の匂いがしてこない。廃墟の街、人々が捨て去った砂漠に残った遺跡のような感じを受けてしまう。画家がそのような感覚で都会に対していたということは今の私にとっては、惹かれるものがある。」

   

 「旅芸人の手帖」には、1960年頃の墨東風景の写真とともに次のように書かれている。
 「墨東といわれたこの一帯は、荒涼として何もなかった。棒杭のような電柱が見え、すえた匂いが鼻を衝くここには、点々と掘っ建て小屋があった。陽が落ち、赤提灯が灯ると人影が何処からともなく集まった来た。戦後の私にとって、隅田川に沿った一帯は、そこで出会った人々の中で、自分自身をつきつめる旅の始まりであった。‥日雇いの人、小屋掛けの芸人、役者くずれ、大道芸人やストリッパー、‥暗い裸電球の下で男たちが手の平の塩を舐め、酒を飲み、何処かへ消えていく。ここで出会う人々には肌で感じる温かさがあって、私は人間への限りない興味を持っていった。」
 そして14頁後ろには<石狩>(1958)という今回の展覧会に出品されている<網走>に似た絵が掲載され、次のように書かれている。
 「なぜだかわからないが、私はただただ渺々として何ひとつない北国のこの風景が好きだ。‥黒い烏が群れ、小石や枯れ草の続く荒れ地は道もなく、寄り添う家並や、風雪に歪んだ針のような木が、大地に張り付て生きる生きる人間の営みを思わせた。‥その頃、冬が来ると、私はたびたび北国に出かけた。‥ある時は、寄る辺ない旅人のようにさまよい歩いた。流氷の岸辺に、荒野にそよぐ草や木に、飛んで行く鳥にも、在る物が宿す命の様は眼に焼き付いてイメージを駆り立てた。」

 宮崎進という画家の出発点、原点を告白したような文章である。
 宮崎進は、北国の冬の景色にはとても親近感を感じ、イメージを駆り立てるものとしてとらえている。同時に墨東の地では、場末の景色以上にそこに生きる人々、とりわけ漂泊の人々との「肌で感じる温かさ」に寄り添うような親和性を示している。
 画家は、北辺の厳しい自然の北国を彷徨しながらその景色に親しみを抱くと同時に、墨東という都会の片隅に棲む人々に馴致し、そこに寄り添っている。

 私は絵のスタイルが同じような<釧路>に親近感を感じ、<墨東>には違和感を感じたのは、多分に私の北国への思い入れの強さがさせた結果だと思う。それはそれで私の勝手読みのそしりは免れないと思う。
 だが私は、<釧路>には厳しい自然のもとで定着する人々の息吹を感じたが、<墨東>に描かれた護岸のような巨大な構造物には、人々の生活が感じられなかった。
 しかし北国の基本的な生産に従事しながら定住し、そこに張り付く人々の生活の匂いを十分に嗅ぎ取るアプローチをこの画家は見せているのに、都会の底辺に寄り添う漂泊の、「執着するものもなく、失う何物もない」人々への親和性をより強く表明している。そして1970年代の末までかけて宮崎進は「旅芸人」の世界に寄り添う道を選択する。
 この世界を描写するこの画家の表現はとても魅力的である。

 シベリアという極寒の収容所という極限の体験は、日本の北辺の町への親和性をもたらすと同時に、帰還後には、市民社会への着地に苦慮し逡巡している人間の苦悩を感じ取りたい。多くの兵隊経験者が戦後の混乱の中で社会生活への復帰に支障を来したり、困難を抱える中、画家も漂泊者へ寄り添うことでその困難を自らの内に抱え込んでいたと思われる。全共闘世代の多くの経験者が、政治集団に属した者も属さなかった者も、区別なく体験したように‥。



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「ヴァロットン-冷たい炎の画家」展

2014年06月27日 23時46分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ようやく先ほど帰宅。本日は結局三菱一号館美術館で「ヴァロットン-冷たい炎の画家」展を見てきた。2時間近くかけてじっくりと鑑賞した。不思議というか、風景画、裸体画、静物画、神話に題材をとった絵、木版画とそれぞれ大きく趣きの違う絵が並んでいる。
 ジャンルの違う絵画を貫くものが何なのか理解できなかった。それぞれの違うジャンルごとに違う画家の作品をみているような錯覚に襲われた。
 この統一感が希薄と私には思われる絵の感想を書くのは、なかなか難しいような気がする。この感想は来週あたりを目標にしてみたい。

 東京では強い雨に遭遇した。14時少し前に東京駅に着いた時には土砂降りであった。18時からの飲み会の直前にも強い雨が降ってきた。いづれも直接雨にあたることはなかったが、それでも驚いた。

 飲み会が始まるまでの間に「旅芸人の手帖」(宮崎進)、ならびに本日の講座を担当されている佐野賢治氏の論文「宝は田から」を読むことができた。

 友人たちとの楽しい時間を過ごすことができた。久しぶりに最後にラーメンを食べた。




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東京国立博物館も行きたいが‥

2014年06月27日 00時41分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の予定表を見ると、午前中は講座、午後6時に東京駅の近くで友人7人で会食となっている。

 昨夜は本日の午後の過ごし方を考えているうちに寝てしまったが、寝付つく前にいくつかの候補を上げていた。意外と今朝まで覚えていた。
 まず最初に浮んだのが、東京国立博物館の「台北 國立故宮博物院-神品至宝-」展。かなりの人出になっているようだ。調べてみると「翠玉白菜」の特別5室だけが行列が出来ているとのことになっている。他の展示の混雑状況はどうかというとその情報がわからない。出かけるにはちょっと勇気がいる。
 次に考えたのが、三菱一号館美術館の「ヴァロットン-冷たい炎の画家」展。初めて聞く画家の名前である。興味はあるが‥。
 さらに思いついたのは、東京ステーションギャラリーの「ジャン・フォートリエ」展。この作家も初めて聞く名である。
 みっつめが出光美術館の「没後90年 鉄斎 TESSAI」展。鉄斎も、名前だけは知っているが、生涯の事績については知らないに等しい。
 欲張ってこの中からふたつほどを見る手もあるが、金銭的に厳しい上に、消化不良を起こしかねない。しかも「宮崎進」展がまだ頭から離れないので、ますます頭の中が混乱してしまっては困る。
 こんなことを考えながら寝てしまっていた。

 朝になって思いついたのは、とりあえず上野まで出向いて混雑状況を見極めて、混雑していたらいただいた宮崎進の「旅芸人の手帖」及びその他の本を抱えて喫茶店で読書タイム。ただしこれは本二冊という重量を考えなくてはいけない。

 ということで、本は1冊のみを持参して、講座終了後東京駅に着くまでに決めるということにした。退職者という時間にだけはゆとりのある贅沢であるが、優柔不断、ものごとを即座に決められないというのは情けないものである。これも歳をとったことのあらわれ、と妻に言われそうである。



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老いを実感するきっかけ

2014年06月26日 22時18分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 情けない話であるが‥。

 本日は妻がサバの味噌煮を作ってくれた。私の好みのおかずである。サバの味噌煮というのは、学生時代に数回自分で作ってみたことがある。生姜の細切りや輪切りをたっぷりと入れて煮込むのが美味しさの秘訣である。そしてサバのあの脂ののった皮の部分がとてもおいしいと思っている。味噌と脂、いい取り合わせなのだ。しかしサバの骨はかなり長くて、硬さもある。
 美味しく食べながら、ふと気づいたことがある。どうも昔のようにサバの骨を口の中で上手に処理できていないのではないか、ということだ。昔は、骨が少しでも舌の上に乗ると、異物を口に入れてしまった時のように、素早く口の中から骨を出すことができた。舌をうまく使えば、口の奥の方にある骨を前の方に持ってきて、口の外に出すことができた。その動作にぎこちなさが出てきたように感じたのだ。
 歳を取って、なかなかそれがうまくいかなくなったのではないか。確かに最近は、他の魚でも喉の奥の方に骨があるとなかなか口の外に出すことが難しくなったように思う。

 本日も口の中からすぐには出てこないで、食べ終わるのにちょっとだけ余計に時間がかかり、余分なエネルギーを使ったと思う。妻と二人で、これが老いということなのか、としみじみと話をすることになった。

 老いというのはさびしいものである。




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本日の講座

2014年06月26日 20時48分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日の講座は「アジアの視点 その5」の第三回目。世界平和アピール七人委員会委員の小沼通二氏。講演の題は「環境問題として見るアジアの原子力」。原子力発電の問題点とアジアにおける原子力発電の現状を踏まえた問題点の講義をしてもらった。
 同時に世界平和アピール七人委員会の発足以来109番目のアピールを配布してもらった。内容は以下のもの。
 議論の素材として掲載してみたい。




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曇り空

2014年06月26日 12時29分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 予報ほど湿度は上がらず56%ほどでとどまっている。予報では70%を超えるといっていた。実は久しぶりに7キロほどを65分でウォーキング。途中1キロほどはゆっくり走ってみた。時々日が差していたので湿度が70%にもなると熱中症の心配もあったが、予報が外れてとりあえず、助かった。
 これから、買い物に付き合って、16時からの講座に出向く。本日は世界平和アピール7人委員会委員の小沼通二氏の講演。昨年初めて講演を聴いた。なかなか歯切れのいい話であった。

 このごろようやく週に1回ほどの休肝日が実行できている。ただし飲み過ぎた日の翌日だけというのが、あまり芳しくないと自覚はしている。
 まあ続けることが大切ということで‥。




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休肝日

2014年06月25日 23時25分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど「宮崎進」展の感想の(その2)をやっとの思いでアップした。宿題をひとつやっと片付けたような思いである。
 片付けたといって満足のいく出来ではない。もう少し整理しなくてはと思うのだが、これが私の能力の限界とあきらめることにした。

 実は宮崎進の著作2冊をいただいた。「鳥のように-シベリア 記憶の大地-」と「旅芸人の手帖」。本当にありがたい。感謝に絶えない。さっそく「鳥のように」を読んで、勉強させてもらった。
 香月泰男のシベリアシリーズでも作者の言葉はとても大切な要素である。具象では表現しきれないで、抽象に重点を置く場合この言葉が重要になってくる場合がある。香月泰男といい、宮崎進といいシベリアシリーズには言葉が大切な要素である。共通なのは偶然なのか、考えてみる必要があるかもしれない。
 抽象だから言葉が必要というのはおかしい。シベリアシリーズだから言葉か欠かせないというのもおかしい。だけれども、ともに言葉・文章が大切な要素になっている。これは絵と言葉の合作というジャンルとして考えるしかない。
 「旅芸人の手帖」も期待している。今回の宮崎進展ではこの時期の作品が抜け落ちている。画家の出発点からシベリアシリーズが始まるまでの、1960~1970年代の時期の画家の足跡を是非たどりたいと思っている。

 本日は「桃山絵画の四大巨匠を紐解く」講座の最終回。昨日のお酒が少し残っていて、つらかった。後期の講座で「日本の絵画シリーズその3」があるように願っている。

 たまにはサラリーマンで混雑しているランドマークタワーでお昼を食べてみようかといくつか店先でランチメニューをのぞいていたら、後ろにいたカップルの女性が突然大声で「お酒臭い!」と素っ頓狂な大声を出した。私は思わず「昨日のお酒が抜けていなかったのかな?」と慌てだが、私のことなのか、相方のことなのか、あるいは別の人のことなのか判然としなかった。しかしあんなに大声で叫ばなくてもいいではないか、とおもわずブツブツ。
 結局あまりにランドマークタワーの店が混雑しているので、横浜駅に向かって歩いて5分ほどの別の大きなビルの2階でお蕎麦を食べた。いつもはおにぎり1個なので、お腹がかなり膨らんだ。帰宅してすぐにシャワーを浴びて、睡眠と読書。お酒臭かったのは私だったのだろうか?

 横浜は雨が降らなかった。

 しかし都議会のセクハラ野次の幕引きはあまりにいい加減。日本の首都の自治体の議会としてお粗末でしかない。肝心の「産めないのか」は誰が野次ったのか、解明する気がないということである。この種のセクハラ、かなり蔓延していると思われるが、都議会が率先垂範しないかぎり、それを理由に根絶できない状況が続くだけである。何ともひどい話ではないか。



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「立ちのぼる生命-宮崎進」展(その2)

2014年06月25日 21時56分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本展のチラシには
「宮崎進は1922年に山口県徳山市(現周南市)に生まれ、20歳で日本美術学校を繰り上げ卒業し出兵、敗戦後1949年までシベリアに抑留されました。戦後、取材に基づく写実的な作品を展開し、1967年には《見世物芸人》で安井賞を受賞します。1974年には、神奈川県鎌倉市にアトリエを移し、そこで旺盛な創作活動を展開します。
 布のコラージュは1950年代から用いられていましたが、とくに1980年代以降、それらの作品の規模は大きくなり、抽象的になっていきます。
 宮崎の創作の根底には、敗戦と抑留の飢餓的状況の経験から見つめ直された人間の生命への強い想いがあります。」
 と記されている。

 展示カタログや著作である「鳥のように-シベリア記憶の大地-」を見ると、1988年位から宮崎進の作品はシベリアの体験をもとにしたものが中心となってくるように思える。少なくとも今回の展覧会では、1988年の「ラーゲリの壁」と「絶望」が始まりの作品である。

<ラーゲリの壁(コムソモリスク第3分所)> (1988)


<絶望>(1988)


 そして始まりは具象的であり、前回取り上げた1950年代の北海道や東京の風景を描いた手法に近いといえるかもしれない。暗い空と土に囲まれた収容所の壁と、記念撮影のように並んだ人間の形態とが描かれている。壁が白く塗りこめられてのしかかるように世界を区切り、人間存在の確かさを示すように白く微かに光っている。
 画家は「ここにあった絶望こそ、私を何かに目覚めさせるきっかけとなった。生死を超える‥人間を人間たらしめている根源的な力こそ、私を突き動かす」とも述べている。
 ラーゲリの壁はいくつかのバリエーションがあるらしく、画家にとっては重要なモチーフとなっている、と図録には紹介されている。

<冬の鳥>(1993)


 しかし次第に具象的な描き方から抽象的な表現に移行していくようだ。また風景ではなく、よりクローズアップしたように限られた平面の中に対象物のような形態が閉じ込められていく。
 この<冬の鳥>もかろうじて鳥のような形態が見える。形態よりもそこにある絶望と希望という想念が、この素材とモノクロに近い色彩に変換されているようだ。
 「そこでの悲惨な生活は写実的に描くことでは絶対に表現できない」と言い切っている。
 こうなってくると、画家自身による言語表現が補足のように加わってくる契機となるのかもしれない。引き合いに出すのが適切かどうかはわからないが、香月泰男の絵画も作者自身の言葉が重要になっている。

<ナナエツの少女>(1996)


 画家にとってはは同時にトルソも重要な表現であるようだ。収容所生活の中でもシベリアの地に住まう人々との接点は、彼らへの共感・親和となっていたようだ。ここには微かな平安が感じられる。

<黒い大地(泥土)>(1998)


<壁>(1999)


 この頃から顔を大きく描いた作品を除いて、具象的な表現からはどんどん遠ざかっていく。そして大地(泥土)と壁が画面一面にはみ出すように、クローズアップされて描かれる。
 大地(泥土)と壁の関係。壁は視界を遮り、人の自由を奪い、世界を区切る象徴として描かれている。画面の下には大地に接するように土の部分と思しき空間がどの絵にも描かれている。
 大地は黒一色に描かれていてもその下に生命の息吹があり、希望と生命力の象徴して扱われていると断言できそうである。壁は黄土色や白っぽい色であり、大地ははじめのうちは黒ないし黄土色で描かれる。題名を見なければその違いが判らないまでに酷似した印象になってくる。ここは作者の思いを聞きたいところである。私には疑問として残っている。
 大地も壁も素材の麻袋等の形がそれぞれの模様の区画線のように見え、その隙間から何かしらが覗いているように思えるのは穿ちすぎであろうか。大地からは植物相がその隙間からエネルギーを放出するように芽が出、壁からは区切られた外が垣間見られるかもしれない期待が、囲われた者たちの希望が存在しているようにも思える。

<生きるもの(2004)>


 写実的表現は不能との表明を先に紹介したが、同時進行で盛んに絶望や虚無の人の顔を画面いっぱいに描いた絵やトルソを制作している。
 そのもっとも力ある作品と思えたのがこの赤黒い人物像である。私はこの絵を見た時キリスト像それも死後聖衣に浮かび上がったという聖顔を思い浮かべた。
 諦念のような表情であるとともに、人間の存在を根底から見てしまった観察者の相とはこのような表情かもしれないと思った。血のような赤黒い色が、かえって死相に見える。
 顔に対する執念のようなこだわりもこの画家のひとつの特徴といえるのではないだろうか。

<「ヒロシマ」この大地の上で>(2006)


 作者は、2006年に広島市より「ヒロシマ」の制作依頼を受ける。この作品と<「ヒロシマ」VOICE>と<「ヒロシマ」Land>の3作を出品している。
 20歳で広島の部隊に入隊し、外地勤務を希望しなければ原爆により消滅した部隊に残っていた可能性があった作者である。この体験をもとに制作をしたと推量される。
 シベリア抑留体験と原爆惨禍、こんなに重い体験をふたつながらに自分の内に抱えている人生の重みというものは、なかなかないものであろう。
 しかしこの体験も体験にこだわり、自分の内に抱え込むことを意図的に追及しない限り、それは忘却という時間の流れに委ねてしまうだけである。体験は表現しない限り、拘り続けない限り、それは空虚である。私もせめて小さい体験であったことであってもこだわり続けたいとあらためて思った次第である。

<立つ人>(2006)


 この<立つ人>は見た目には何かわからなかった。確かに2本の足のようなものが画面中央下部に何となく見えるように感じる。しかし灰色の丸っこい長方形のかたまりは顔に見えた。
 そのような具象的な解釈は不要なのだろうが、顔と足で人間の全体像の象徴なのかと思った。そしてひょっとしたら「ヒロシマシリーズ」と連動して想像すれば、原爆で壁に焼き付けられた人間の跡を暗示しているのかもしれない。あるいは人体の骨の化石のように、シベリアとヒロシマに生きた人間の痕跡なのかもしれない。
 同時に少し緑がかったこの灰色の周囲の青みがかった明るい色からは、救いのシンボルにも思える。
 この絵はいまだに私には謎の絵である。

<花>3点(2004、2005、2007)


<花咲く大地>(2012)


 <花咲く大地>も繰り返し描かれる重要なモチーフである。
 「シベリアの春の到来が表現されています。ストラヴィンスキーの≪春の祭典≫のあの大騒ぎの音響そのまま‥。氷のあいだから小さな花が芽吹いてくる。それがある日大地全体が赤くなってしまうほどいっせいに花咲くのです。そのとき人間も‥気が違ってしまったかと思うほどに喜ぶのです。大地に宿った奥深い生命力。人間が生きること、そして、死ぬことの意味をわたしは、さまにシベリアで知ったのです。」
 と作者の言葉がカタログに記されている。
 この<花咲く大地>シリーズでも、大地や壁のシリーズとともにこの麻袋という素材がとても生きていると私には思える。
 この素材無くしては、この赤黒い血のような色も、隙間の大地の色と思われる黒も生きてこない。作者が見つけた素材へのこだわりが「花開いた」と感じる。
 この赤黒い色は、戦争と抑留という体験下で流された血、そこで死んだ者たちの生命の象徴として大地より顔を出した花なのであろう。だから赤い花でなくてはならないのであろうとも思った。

<立ちあがる生命>(2003)


 この像の題「立ちあがる生命は今回の展覧会の副題にもなっている。
 このような明るい青はこの作者は絵でもトルソでも過去には使っていないようだ。「立ちあがる」という題名から推察されるとおり、これは大地から明るい空に向かって植物が旺盛な生命力を発揮するようなエネルギーを表現しているのだと思う。
 しかしちょっとこの作者には唐突な色である。このように輝く色は少なくとも展覧会ではない。随分思い切った、あるいはこれまでの作風からの転換を意図した作品に思えた。
 この年の前年に作者は横浜美術館で「よろこびの歌を唄いたい」という展覧会を開催、平面・立体の大作80点を出品したとある。80歳での展覧会である。
 シベリア・ヒロシマという戦争体験、そして戦後体験のどちらかというと暗い状況、人間の強いられた極限状況にこだわってきた作者のある意味の転換であるのかもしれない。
 私はどうもこの「転換」にこだわり過ぎているかもしれない。もともとこのように明るい方への指向があるにもかかわらずそれを見抜けていない私の限界なのかもしれない。しかしこの「転換」(マイナスイメージで使っている言葉ではない)に見える作風はどこに潜んでいたのだろう。
 しばらくはこの像が頭から離れない時間が続きそうである。

(追記)
 先ほど、香月泰男の画集を復習がてらめくってみた。香月泰男のシベリアシリーズは黄土色と黒を基調とした絵である。人の顔は黒く塗られ、印象的である。
 その中でも青は、空、海という希望の象徴としていくつかの作品にだけ登場する。赤は朝陽で2点、燃える兵舎の描写で1点、青は明るい色合いで空と海で各1点のみ使われている。赤で印象的なのはシベリアシリーズではないが彼岸花を描いた1970年の作品が印象出来である。
 宮崎進もこの明るい色を同じように使っているだろうことは間違いはなさそうである。



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琉球新報の社説を転載

2014年06月24日 23時47分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 以下6月23日の沖縄慰霊の日の琉球新報の社説を転載してみる。

「慰霊の日 非核・共生の要石に 戦争と軍の犠牲強要に反対」

 沖縄戦の事実上の終結から69年を迎えた。多くの住民を巻き込んだ沖縄戦は「ありったけの地獄を集めた」と表現される。だが、戦闘終結後も「生き地獄」が続いたことを忘れてはならない。
 米軍は住民を収容所に隔離している間に、土地を強奪して基地を建設した。普天間飛行場もその一つだ。そのころ住民には満足な食料が配給されず栄養失調で倒れ、女性は米兵に暴行された。
 日米両軍による二つの地獄は、「軍隊は住民を守らない」という教訓を残した。だが、米軍は今も居座り、沖縄の戦場化を想定した日米訓練が繰り広げられている。

★教訓のギャップ
 米軍が沖縄島に上陸した4月1日朝の光景について、こんな記録がある。
 「死臭で息がつまるようだ。鉄帽を射抜かれてたおれている兵隊、両足をふっとばされて頭と胴体だけであおむけに天をにらんでいるおじいさん。頭のない赤ん坊を背負ってあざみの葉をにぎりしめてうつ伏せている婦人の死体…」。米国統治と日米軍事同盟に抵抗した政治家瀬長亀次郎さんの未発表原稿だ。
 沖縄戦は「本土決戦」準備が整うまで、米軍を一日でも長く沖縄に引きつけておく「出血持久戦」だった。第32軍が司令部のある首里で降伏せず、沖縄島南部の摩文仁、喜屋武一帯に撤退したのは大本営の方針に従ったからだ。
 第32軍は沖縄県民を守るために配備されたのではない。そのため住民保護の視点は欠落し、米軍の圧倒的な砲爆撃で多くの住民が犠牲になった。5月下旬以降の南部戦線は日本兵による食料強奪、壕追い出し、壕内で泣く子の殺害、住民をスパイ視しての殺害が相次いだ。日本軍は機密が漏れるのを防ぐため、住民が米軍に保護されることを許さなかった。そのため戦場で日本軍による命令や、強制、誘導によって親子、親類、知人同士が殺し合う惨劇が発生した。
 一方、軍にとっての沖縄戦の教訓とは「島の戦闘は守るより攻撃側が有利」だ。現在、尖閣諸島の緊張の高まりを口実に自衛隊は、島しょ防衛と称して南西諸島の軍備を強化しようとしている。
 自衛隊の隊内誌によると、自衛隊の離島作戦とは、敵の攻撃を受けたら島をいったん占領させる。その後、日米の増援部隊が強襲上陸して島を「奪還」する内容だ。尖閣のような無人島だけでなく石垣などの有人島も想定している。だが軍事作戦の中に住民避難の発想はない。住民が巻き込まれた沖縄戦の再来が危惧される。

★ワシントン体制
 第32軍創設によって、沖縄は米軍の標的になった。それ以前は沖縄に本格的な軍隊は配備されていなかった。なぜか。それを解く鍵は第1次世界大戦後に築かれた国際秩序にある。
 100年前に始まった第1次世界大戦は人類が初めて体験した総力戦だった。戦後、軍縮を目指して1921年から22年にかけてワシントン会議が開かれた。その結果結ばれた海軍軍備制限条約に、太平洋の島々をめぐる軍縮が含まれている。当時日米は同地域で覇権争いをしていた。同条約により米国はフィリピン、グアムなどの軍備強化を停止し、日本は台湾、琉球諸島、小笠原諸島などの軍備を凍結した。
 ワシントン体制と呼ばれる新たな世界秩序によって沖縄は非基地化された。しかし後に日本は同条約を破棄し、沖縄に第32軍を創設する。基地の島沖縄の源流は、日本が軍縮の枠組みを一方的に断ち切ったことにある。
 自衛の名の下に他国の戦争に介入しようとしたり(集団的自衛権)、海外での武力行使も許されたりするというのは、明らかに憲法の否定である。それは無念の死を遂げた沖縄の戦没者に対する冒涜(ぼうとく)でもある。私たちが成すべきことは、国際社会と共に東アジアを非核・共生のモデル地域として育んでいくことだと確信する。




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