Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

円山応挙の絵(3)

2010年10月31日 10時47分30秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
雪松図屏風

 この絵も薄い金泥を背景に描かれている。きらびやかな装飾ではなく、しっとりとした光を表しているようだ。前回の「松に孔雀図襖」の金箔よりもうすく、柔らかな光、あるいは落ち着いた空気を感じる。「松に孔雀図」が公式の広間をかざるものとすれば、こちらは私的な、くつろいだ場面にふさわしいと思う。
 右双がもっと前面に大きく松を描いている。根元を描かずに幹を拡大したように近い視点で描かれた直線的な1本の松だが、こちらの左双は、2本少し遠景に描かれていて曲線が美しい。そして枝ぶりにリズムがある。
 右双のほうが奥行きを感じさせ、左双は力強さを感じる。左右での遠近感が面白い。どちらも雪中の松の美しさを表しているが、これまた豊かな色彩も感じさせる。
 ただ、最初見たとき不思議と思うことがあった。雪の張り付いている方向である。この右双の左側の木を見ると、風は左上から右に吹いたように雪が、幹や枝・葉に張り付いている。右側の木も太い幹から木の先端まではその通りである。しかし、右に大きく張り出した枝には、右上から左に風が吹いたように雪が張り付いている。太い枝も葉も。あるいははじめ左上からの風から無風状態で雪が真上から降ってきたと解釈すれば首肯できなくもないが‥。「雪梅図襖・壁貼付」というやはり大きな絵では真上からの雪で統一している。
 一貫して左上から右に雪が張り付いたとすると、右側に大きく張り出した枝はもっと黒々と描かなくてはいけなくなる。そうすると黒白のバランスは極めて悪くなる。画家はそのマイナスを避けることを優先したと考えたほうが、見方としては正しいようには思う。
 さらに、この左右一対の絵、この右双は左双と一対でその間の空間が重要であることもわかるが、この右双だけでも独立して鑑賞できる、と感じた。

円山応挙の絵(2)

2010年10月30日 10時36分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 松に孔雀図襖(部分)

 この絵を見たとき、モノクロームの水墨画がいかに豊かに色彩を表現するか、をあらためて実感した。孔雀の尾羽、この絵は閉じているが、他の部分の広げている尾羽もこの絵も、孔雀の羽の美しさを十分に表している。そして松の葉も深い緑に見えてくる。
 この絵も薄い金箔が地に施されているが、きらびやかさや豪壮さではなく、落ち着いた感じがして、絵をしっとりと見せているようだ。それが豊かな色彩を思わせる要因の一つかもしれない。また尾羽の丸い模様が鮮やかなこともその要因の一つでもあろう。
 岩の上に孔雀を配し、その上に松の絵だがあるのもいい。翅を広げた孔雀があらわされた他の部分では、孔雀のすぐ隣に岩がある。いづれも孔雀と岩の対比と松の風情がうまくあっていると思った。
 襖12枚には孔雀と岩と松の3種しか表現されていないが、松の枝ぶりも何となく自然に枝を広げて見える。実際はこんなに広げた枝を持つ松はありえないと思うが、無理なく納得させられるのが不思議だ。左側の4枚、全体の三分の一を占めるのは松の枝のみ。特に一番左は何も描かれていない。の中央の4枚に幹日本と孔雀雄雌各1羽、岩1つが描かれているのに比べ実に伸びやかな空間を示している。
 右側4枚には松の絵だが左から右へこれも実に伸びやかに描かれており、押すの孔雀が岩の上に乗っている。たたんだ尾羽と松の枝が平行なのも効果的だ。
 襖12枚を使って、3種の絵をといえなくもない。襖12枚だから横の広がりは伸びやかだが、並みの絵ならば縦の空間が窮屈になってしまうだろう。しかしこの絵はそんなことは何も感じさせない。

 

本日の俳句(101026)

2010年10月26日 23時02分29秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句

★故郷とは秋日の暮るる何処にか
★木枯らし吹く乾いた天よりまっすぐに

 一昨日の夕日はきれいだった。ふるさとを持たない私もどこか郷愁を誘われた一瞬であった。

 本日は木枯らし1号だったかもしれない。夕方から強い北風に見舞われた。冷たい乾いた空気が午前中の雨もよいの湿り気を払っていった。

円山応挙の絵

2010年10月24日 22時23分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 松鶴図屏風

 円山応挙の絵というと、幽霊の絵と犬の絵しか思い浮かばなかった。本日、三井記念美術館で円山応挙-空間の創造-展で、その襖絵、屏風絵を初めて見て認識をあらためた。

 襖絵・屏風絵はどれも惹かれたが特に松鶴図屏風、竹雀図屏風、雪松図屏風、松に孔雀図襖が印象に残った。
 残念ながら山水図屏風、雨竹風竹図屏風、藤花図屏風はいづれも本日は展示されていなかった。
 その他の眼鏡絵や淀川両岸図巻は印象に残らなかった。

 松鶴図屏風は今回新発見と言うことだそうだが、もともとは障壁画であったとのこと。蔓の頭の赤以外は墨絵だが、私は松の幹の肌に目を瞠った。松独特の幹の模様は誇張はされているが、どっしりとして松が生きているという感じがする。鶴の姿態、特に尾羽の描き方がも生き生きとしていると感じた。そして松の葉の勢いも好きだ。ナベヅルとタンチョウヅルが一緒に群がっているのは不思議だが‥。

本日の俳句(101018)

2010年10月23日 21時42分13秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句

★柿の木を巡りて小家寄り添いぬ
★銀杏の踏まれて街の刻まわる

好きな句
☆山柿の五六顆おもき枝の先(飯田蛇笏)

 横浜などの市内では、最近の家は狭い敷地に目いっぱいに立てられている。庭木があるような庭を持つ家は、数十年も前の大きな分譲住宅地だ。まして柿の木がある家は旧家や農家に限られるようだ。
 そんな中、たまたま荒地に立つ柿の木を囲むような新しい5~6棟の家の傍を通った。柿はまだ葉をいっぱいつけていたが実は程よく柿色に熟して照り輝いていた。小さな敷地であっても周囲が広々としていてうらやましかった。
 銀杏の実が踏まれて私の鼻でもかなり匂うが、そのことがあたりの銀杏の木の黄色く色づいた様、秋をあらためて実感させてくれた。

本日の読了

2010年10月21日 20時56分12秒 | 読書
「農耕社会の成立」(岩波文庫、石川日出志)
 旧石器時代から古墳時代の初めまで、一冊にするには無理があろうか。概説に徹するか、中途半端になるか。本書は後者のような気がする。妙に遺跡の列挙は詳しいが‥。
 縄文時代の論考も不十分のそしりがあろう。東西・南北の違いや特徴の言及もない。弥生時代の論考はまとまっているが、古墳時代はあまりに駆け足。シリーズ日本古代史と題して6巻で先史時代の本書から最終巻の摂関政治までというのもバランスに欠けると思う。農耕社会の成立という題自体も無理がある。
 入門書としても中途半端。専門領域の啓蒙書としても中途半端。これでは岩波新書のこのシリーズの企画自体が中途半端ということになりそう。

本日の俳句(101018)

2010年10月18日 22時42分40秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★手にすれば冷たく照りぬ櫟の実
★柿食らう今年も去年(こぞ)を見習いて

 地面に転がっていた団栗をいくつか見かけて手にした。半分は葉の下になっていたためか、日なたに在ったにもかかわらず思いのほか冷たく感じた。不思議なもので団栗というものは拾うと、虫が食っていないか、傷はないかと観察して、その後、手や衣服で磨いてしまう。その輝きがうれしいのだ。
 本日熟してやわらかくなった柿を食べた。というよりほおばった。今年初めての柿、毎年初めて食べる柿はことのほかうれしい。食らう、といったほうがふさわしいほどかぶりついた。いただくのでも、食すのでもない。柿は、食らう、という語感がもっともふさわしい。   

本日の俳句(101017)

2010年10月17日 17時14分27秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★彫り深きレリーフのごと秋の薔薇
★響きあう夕日と秋の薔薇の黄と

 港の見える丘公園の薔薇が見ごろというので、妻と出かけた。例によって薔薇の香りは微かにしか私には感じられなかったが、妻の印象では全体として芳香はわずかだったらしい。直接花に鼻をつけないと香らないため、恥ずかしさが先にたって十分に薔薇の香りを楽しむことはできなかった。
 八重の薔薇は、西欧の雰囲気がする。一重の小ぶりの薔薇の幾品種かは日本の庭にも合いそうだ。
 以前外人墓地で
★薔薇絡むレリーフの目の深き彫り
と言う句を作った。
 私なりに気に入った句だが、薔薇は陰影の濃い目鼻立ちがくっきりした人によく似合う、と思っているのは私だけだろうか。

秋の雲

2010年10月16日 21時14分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雲を見ていると飽きない。秋・冬・春・夏それぞれの季節にそった表情がある。朝・昼・夕・夜・明け方それぞれの時間帯ならではの色がある。晴れ・曇り・雨・雷雨・雪さまざまな気象に合わせた形もある。
 1年を通した規則的な気候変化に関わらず、時々刻々の様は不規則である。人間はこの大枠では規則的、定常的なものであっても瞬間的には不規則なものの連続を見ているのが好きなのかもしれない。
 たとえば滝や沢の流れ、海の波、大河の流れ、風になびく草原のうねり、樹々の葉や枝のそよぎなどなど。物理学的には波、波動方程式というもので説明ができるものだが、解のあるような規則的なものはかなり複雑であっても人は機械的、人工的なゆらぎと、人はすぐに見破ってしまうようだ。海の波をいつまでも眺めていた記憶は多くの人にあると思う。

 秋は空を見る機会が多い。夏のうだるような暑さの元ではみながうつむいて歩く。私も夏は雲を見る気にはなかなかならない。せいぜい夕焼けにはえる入道雲なのかもしれない。多くの人は冬も背を丸めて寒さをこらえているから空を見ないようだが、それでも私は遠くの雪に覆われた山を見るのが好きだから、背筋を伸ばして山と、それに続く空と雲を見る。春は秋についで空を、雲を見るのかもしれないが。
 今季節は秋、私はウォーキングの途中いつも空を見上げる。特に夜は雲の色が微妙にさまざまの色合いを示して美しい。雲が細切れに夜空のごく一部に浮かんでいると美しさもひとしおだ。空一面に紫がかった日もある。暗緑色がかかったような時もある。雲もそれにつれてうすい紫がかったり、緑っぽく見えたりする。それに月の出ている、出ていない、三日月か、満月に近いかによっても、違う。
 5分後に見上げると、雲の形も変わり、地上では風がないのに、ついさっき想像していた5分後の位置と随分違うな、と驚くことがしばしばある。
 さて晴れた昼間の秋の雲の私の印象は陰影が少ないことだ。白い部分が圧倒的に多い。そしてうろこ雲などといわれるように細切れである。夏の雲は厚みが手に取るようにわかり、太陽の光の当たるところとあたらないところで明暗の差が大きい。白さが目につくだけあって、秋は空全体が明るいと感じる。
 物理的には秋は夏と違い、雲の厚みが少ないためという理由で説明ができるのだろうか。また雲の高さが高いということでもあろう。気象学的な説明も知りたいものだが‥。
 雨の時の雲も全体として雲の位置が高いというのが、私の印象だ。夏や春先の荒れた天候の時の雲とは違う。雲間から日矢が美しく差し込むという光景の印象がない。印象がないだけなのかもしれないが。

 天高く‥と称される秋の空と雲だが、私の気分はなかなか晴れ上がらない。

俳句誌「軸」12月号投句

2010年10月16日 08時12分05秒 | 俳句・短歌・詩等関連
俳句誌「軸」12月号投句

★一茎のすすきの重みを瓶に入れ
★秋の雨樹木の相のあらたまる
★彼岸花雲鮮やかなるゆえに咲く
★手に肩へ塀に屋根へと秋あかね
★単眼に港は青し赤蜻蛉
★この竹のかくもあたたか秋夕日
★丹沢へ星降り行かん金木犀

本日の俳句(101015)

2010年10月15日 12時48分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★丹沢へ星降り行かん金木犀
★街灯のひかりの輪より萩こぼる

好きな句
☆しみじみと日を吸う柿の静かな(前田普羅)

 花の匂いはほとんど嗅ぐことのできない私の嗅覚だが、妻と歩くといろいろと教えてくれる。丹沢の山並みにかかる夜の雲と星を見ながら歩いているときに金木犀の香りを教えてくれた。すでに過ぎた道路上に少し花が街灯に照らされて散らばっていた。
 防犯灯の灯りが円錐形に照らされる中、垣根からこぼれる白い萩があふれんばかりに咲いているのは見事であった。限定された灯りの範囲の中で犇めき合って咲いていた。

本日の俳句(101012)

2010年10月12日 21時39分50秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★露けさに草のたわみの揺れもせず
★秋澄みて寝付かれぬ夜の海深し

 一昨日の夜はガードレールや石垣に露が付いていた。月もなく無論風もなかった。澄み渡った空に点在する雲が、まだ出ぬ月を待ちかねているように街の火を月の光のようにやわらかく反射していた。雲のない部分は濃い紫にも、また低い雲は薄く紫がかったようにも見え、不思議な空の下を歩いた。
 就寝後、なかなか寝付かれず、浅い夢で先ほど見た紫色の空が徐々に膨れ上がってくる海に少しずつ浸食されるように感じている不思議な感覚に襲われた。幾度か同じような感覚に襲われながら悶々としてなかなか寝付かれなかった。

本日の俳句(101011)

2010年10月11日 11時34分43秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句

★白壁のひそとたたずむ秋夕焼
★この竹のかくもあたたか秋夕日

 昨日は夕方から太陽が顔を出し、急に気温が上がったようだ。一軒の真新しい家にその夕日が当たり、白い壁を赤く染めていた。雲は低かったが風もなく、静かな夕日であった。
 近くの家の庭の数本の竹、夕日にあたり輝いていて思わず手を出して竹を触ってみた。思いのほかに暖かみがあり、竹の触感よりもその温かみが帰宅後も手に残った。

モーツアルトのピアノ三重奏曲

2010年10月10日 12時13分23秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨晩、秋の雨の音を背景に何か聴こうか迷った末に、長らく聞かなかったモーツアルトのピアノ三重奏曲6曲(バイオリン カール・ズスケ、ピアノ ワルター・オオルベルツ、チェロ マティアス・ブフェンダー)を引っ張り出してきた。
 モーツアルトのピアノ三重奏曲はあまり演奏されることもないく、CDも数回聴いた記憶があるのみ。今回はタイミング良く私の気分にはぴったりだった。
 特に第5番、第6番のともに第2楽章が気に入った。
 チェロという楽器は不思議な魅力を持つ楽器だ。チェロソナタとしてピアノとの相性もいい。バイオリンと同じ旋律を弾いても、どちらかが伴奏になってもバイオリンの音色に厚みをもたらすだけでなく、チェロ自身も気持ちよく響く。
 ピアノのとんがった印象の高音の旋律に柔らか味を与え、ピアノのソロにチェロが加わったとたんに控えめながら厚みのある音で自己を主張する。この変化がまた楽しい。モーツアルトのこの曲は三つの楽器ひとつひとつの音を追いかけながら時間を忘れさせてくれた。演奏もなかなか良いものと思った。
 6つの曲は決して明るい派手な印象はなく、じっくりとゆったりと聞くことを想定しているように思えた。

ベルディのレクイエム

2010年10月06日 21時27分14秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 友人が日本フィル、小林研一郎指揮のベルディのレクイエムを聞きに云ったとの事。うらやましい限り。
 私はミラノ・スカラ座管弦楽団、アバド指揮のCDを久しぶりに聴いた。学生時代にアマチュアと大学生の混成で演奏したことがあり、忘れられない曲である。最初のレクイエムとラクリモーザは忘れられない旋律だ。
 トューバ・ミルムのトランペットのクレッシェンドの効果と合唱の迫力、ダイナミックなオーケストレーション、独唱とオーケストラのバランスを味わうためにも劇場で聞かなくてはいけないが、我慢するしかない。