Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「田淵安一展-知られざる世界-」(その2)

2014年07月31日 23時03分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 今回の展示で見る限り、1962年頃を画期として田淵安一の作品は突如として緑・黄・明るい青そして赤などの原色がほとばしり出るように「官能的」となる。
「白壁の下で」(1962)の作品の前にベンチがあり、図録と作者の著作が置いてあった。著作の題名を失念してしまったのが残念だが、作者は15歳の時、父親の愛人だった30歳位の女性と同棲する。その時の模様を記しているが、確か女性を白いものが覆いかぶさるというような表現をしていた。同窓生であった作家の隆慶一郎が家を訪れた時、田淵少年が母親と同衾していたと思いびっくりしたというエピソードが紹介されていた。
 この「白壁」は女性の象徴であり、右の赤と黄の図は明らかに交接の図である。このような官能の絵が1970年代半ばまで続く。
 1961年個展のため帰国したのちパリへの帰途東南アジア・インドで「東南アジアの土俗的色彩は西欧-日本の枠から僕を解放した。‥もうひとつの西欧の荒々しい生命力を発見する糸口になった」と述べている。
 私には「西欧-日本の枠」という一括りのとらえ方に思わず首を傾げた。私には実に新鮮というか、まったく発想になかった考え方である。「西欧」対「日本」、「西欧」対「日本・アジア」という枠組みが戦後の思想では当然の前提であった。こんな把握もあったのかと衝撃すら感じた。

         

 しかも「東南アジアの土俗性」といっても、私にはあまでも色彩感覚の取入れということのように思える。「西欧-日本の枠」というのをしばらく頭の中に常駐させて見たが、私には未だに理解が出来ていない。考えるヒントが欲しい。
 画家は自らの根っこを「日本」という枠組みから探すのではなく、「西欧の荒々しい生命力」を求めて自らの体験の対象化と「官能性」への方向を模索したようだ。10数年の遍歴は、しかし長期間である。
 また1960年代末以降「快楽の園」(1967)のように画面の直線による分割が行われる。横や縦などに分割し相似形のような図を並べる作品へと発展していく。三次元を二次元に変換する手法として、あるいは奥行きの表現として模索された技法らしいが、これは晩年の作まで繰り返し現れる。万華鏡のようでもあり、大地と空の分割線にも見えたり、時間の断絶のシンボルにも見える不思議な分割線である。

   

 画家はこの時期を「西欧人の原像」の執筆に過ごしたスランプは「樹」を主題に据えた連絡によっていっきょに吹き払われ、連作「未完の季節」のシリーズとなった」と述べている。私にはやはり「官能性の表出」という表現の方法と、「西欧人の原像」という問題意識と回答不可能性が、一体のものとして画家にのしかかっていたのかと推察している。
 この「未完の季節」のシリーズ(上は「花や実や(未完の季節1)」(1978)、下は「花や実や(未完の季節18)」(1978))は私にはとても好ましい作品に思われる。生命力の賛歌が「官能性」という迂回した表現方法から、身近な自然を表現の対象として獲得したと思える。
 難しい理論的な探求ではなく、身近な自然の表現の中に自然の生命力、自身の生への衝動を捉え、それを画面にたたきつけているような力強さを感じる。特に下の赤い夕陽のもとの燃えるような山とそれに対峙する孤高の樹木の静かな緑は、不思議な均衡を保っているように思う。樹木という生命体が、地球という巨大なエネルギーのかたまりと対峙している。樹木の下の白い未完の塗り残しに画家は何を込めようとしたのだろうか。わからないながら、興味を惹かれる絵である。
 この「高山の春」(1981)は、上記の山と樹木の対峙から一歩進んで、生命の象徴としての樹木の山に対する優位性を表現しているように私は感じた。春の山桜のような生命力あふれる樹木が、山を従えるように覆っている。
 ただし画面を横に区切った濃い緑の土台のような緑の帯と、その中に描かれた虹のような左右の縦線と、赤・青・黄の色彩は何を象徴しているのかはわからない。わからないがとても引っ掛かる。このイメージも晩年の「宇宙庭園」に結びついているかもしれない。
 山に象徴される地球のダイナミックなエネルギー、そして樹木で象徴される生命の溢れるようなエネルギー、それらを生み出す土台のような、より根源的なものの象徴かと思ったが、答えは見えてこない。しかしここまで言及してしまうと、何か宗教がかった観念の世界に入り込むような危うさを感じてしまう。



 掲げた作品は、版画集「峨山國奇譜」(1986)より。1980年代後半からは再び山や岩、火山をモチーフにするように見える。図録では「東洋」的な主題への取組みとしているが、同時に「これらの「東洋」は西洋と日本の溶け合った色彩・造形感覚によって描き出された、地上のどことも呼ぶことのできない境地であった。(アトリエの在ったバリのガザン街の)ガザンは「峨山」と漢字に置き換えられ、版画集「峨山國奇譜」が制作された」と記載してあった。
 また「(金箔は)複雑な物質的心理的特性を持つ。歴史を通じて文化的意味を負荷された素材だ。それぞれに違う民族の文化が育てた美的感性の反映なのだ」という画家の言葉があり、金箔が画面に大きなアクセントとして用いられるようになる。



 この時期生命としての樹木はなくなり、火山のような自然をモチーフとして出現し、金箔がおそらく人間の歴史総体を暗示するものとして登場してくる。掲げた作品は「黒い火山Ⅰ」(1983-1987)。
 画家にとっては、東洋あるいは日本というイメージには帰り着く場所としてのイメージはなかったようである。架空の「峨山」という母型を自ら作り上げるしかなかったようだ。
 ある意味ではこれはとても人間にとっては不幸なことである。故郷、あるいは人間としての原点が何処にもない浮遊する存在でしかないと認識した時の空虚感というのは想像できない。初めから日本にも西洋にも帰る場所がない根無し草のような存在であった自分を発見したとして、新しい故郷を構築するに至る溝はとてつもなく深いのではないか。超えるにはあまりに幅の広い水路を跨がなくてはいけない。こんな困難を私なら感じるが、画家はどのようにこの事態に対処したのだろうか。作品からだけではよくわからない。これを作品から読み解こうという私の方法論は間違っているのだろうか。

(その3)に続く

ミレー生誕200年

2014年07月31日 10時00分57秒 | 読書
 今年は画家ジャン・フランソワ・ミレーの生誕200年にあたる。これを機会に開催される「ミレー展 傑作の数々と画家の真実」(三菱一号館美術館、10.17~1.12)は私も是非見に行きたいと思っている。

 「図書8月号」のあとがきにあたる「こぼればなし」には、岩波書店のマークであるミレーの種まく人との関連からこの生誕200年について言及している。
 美術展についてはまず、名古屋ボストン美術館で「ミレー展 バルビゾン村とフォンテーヌブローの森から」が4.19~8.31まで開催中。宮城県美術館でも「生誕200年 ミレー展 愛しきものたちへのまなざし」が11.1~12.14までの予定との情報が書かれている。

 さてミレーの「種まく人」は何を播いているのか?
 この「こぼればなし」によると、フランスで「サラセン人の麦」「黒麦」とも呼ばれる「蕎麦(そば)」であるとのこと。「寒冷地でも土壌が痩せていてもなんとか育つ、飢饉に強い雑穀として栽培された。「燕麦」よりもましだが、口の奢ったパリジャンたちの食べるものではなかった」らしい。
 高校生のころ世界史で「黒麦」という言葉が出て来て先生に質問したり、事典・辞典をひっくり返したがよくわからなかったことを思い出した。蕎麦のこととは知らなかった。世界史の先生も知らなかったのだろう。蕎麦の原産地は中国南部というのが定説らしい。
 この「黒麦」のことについては「「農民画家」ミレーの真実」(井出洋一郎、NHK出版新書)に詳しい、との紹介がされている。
 岩波書店の宣伝紙にNHK出版の書籍の紹介があとがきで掲載されるというのも不思議な気持ちだが、この「「農民画家」ミレーの真実」は是非手に取って読んでみたいと思った。

 しかし蕎麦好きの私としては、食文化が違うとはいえフランスでこんなに邪険に蕎麦が取り扱われていたというのはとても悲しい。とはいえ、生産主要国は、ロシア100万トン、中国80万トン、ウクライナ16万トン、フランス12万トン、ポーランド9万トンとなっている。そして日本の生産はわずかに3万トン余りしかなく、80%が輸入(中国・アメリカ)ということが分かった。(仕入れ先はWikipediaだが。)



 なお、岩波書店の種まく人のマークは、日本が国際連盟を脱退した1933(S.8)年とのこと。 マークを探して見たら、岩波文庫や岩波新書にもこの種まく人のマークはついていない。宣伝紙「図書」にもひとつもついていない。おかしいと思ってよく見たら、岩波文庫のカバーの表の左下についていた。文庫では表紙によってついていない本もあるようだ。年代によってマークの扱われ方に強弱があるのかもしれない。

図書8月号から「他人の痛みを知る」

2014年07月31日 02時12分10秒 | 読書
 岩波書店の「図書」8月号が昨日届いたので、いつものとおり斜め読みしていた。現在必ず読むのは、高村薫、赤坂憲雄の両氏、時々池澤夏樹氏、巻末の「こぼればなし」、そして最後に岩波の出版案内である。高橋睦郎氏の連載は今は古典ギリシャの世界なのでバスしている。
 今回は赤川次郎氏のところでちょっと目がとまった。「三毛猫ホームズの遠眼鏡」という連載の第26回として「傷を背負って前向きに」という題がついている。

 まずは、NHKのETV特集「鬼の散りぎわ」に言及して、
「(文楽の竹本)住大夫さんの脳梗塞の一因となったストレスに、橋下徹大阪市長の補助金打切り問題があったことは間違いない。橋下氏は「住大夫さんを引退させた人物」として、歴史に名を残すだろう。まあ、橋下氏がこのTVを見たからといって、おそらく何の感慨も覚えないだろうが‥‥。」
と述べている。
 集団的自衛権、武器輸出三原則を巡る報道についてマスコミ批判を展開したあと、後半では、
「もちろん日本にいいところは色々あるだろうが、福島の原発が事故から三年もたって、なお収束の見通しも立たないのは事実だし、都議会で、女性議員にセクハラのヤジを飛ばしても、辞めずに議員ポストにしがみついている男がいるのもまた日本の一面なのである。中国や韓国へのヘイトスピーチをくり返す人々はよく「自虐史観」という言葉で、戦後の民主教育を批判するが、私には「他の国を悪く言うことでしか自分の国を誇りに思えない」ことの方がよほど「自虐」と思えてならない。」
と述べている。
 最後に、赤川次郎氏の娘は小さい頃からけがで痛い思いをしているので、
「(娘は)「けがをするのもいやだけど、他の人がどんなに憎らしくても、けがさせたいとも思わない」と言っている。痛みを知るということは、もちろん、実際の傷のことだけではないが、知ることによって、他の人の痛みを知ることができる。」
と結んでいる。(けがをよくしていたのは私の娘も同じだが‥)

 言葉をついたくさん注がないと言いたいことが言えないと思い勝ちだが、このようにあっさりと述べることの方が的確に表現できることを教えてくれる文章である。これまで私は赤川次郎氏の小説もエッセイも読んだことがない。氏がどのような思いを持っているか知らないで申しわけないが、文章はすっきりしている。見習うことが必要だと思った。

 同時に「他の人の痛みを知る」ことの大切さをあらためて思い出した。小さい頃から教わってきたが「他の人の痛みを知る」ために謙虚に「知る」「学ぶ」こと、もう一度噛みしめておこう。

 批判者を批判する場合、自分の立ち位置も、より豊かな知識と包容力を常に求められる。相手にも味方にも、そしてとりわけ自分にも「考えること」「知ること」の大切さを求めなくてはいけない。そして味方には付和雷同する人を集めてはいけないのだ。

虫刺されの跡の痒み

2014年07月30日 23時51分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今日夕方ウォーキングから帰ってきたら、雲取山でアブか何かに刺された跡がとても痒くなってきた。妻は帰ってきた翌日皮膚科で塗り薬をもらってきた。それを私もつけたのだが、すぐには治らない。
 妻は小さいものも合わせて30か所ほどもある。それもかなり大きいものがいくつもある。私もよく数えたら小さいものも含めて10か所くらい。妻ほどにはひどくない。それでも3か所ほどが固く赤くなっている。シャワーを浴びていたらいっそう痒みが増してきた。掻き毟りたい衝動に襲われた。慌てて石鹸でこすったあと、冷たい水で冷やしてから薬を塗ったら15分ほどでようやく痒みと腫れは治まった。
 妻のはかなり鮮やかな赤で広がっていたが、少しずつ色があせ始めている。痒みはかなり薄らいでいるとのことである。私のは傷口が固く締まっている。同じ虫に刺されても微妙に症状には違いがある。体質による違いなのであろう。

 明日でもう7月も終わり。8月は講座もほとんどないが、スケジュールが点在していて、二回目の登山の予定がなかなかたてられない。9月早々に南アルプスに行きたいという願望だけは先行している。いや、地図も購入済みであるが、はたして行けるだろうか。

 ブログに記載して、行くぞ、と決意を公表しているにもかかわらず、実際には行かなかったらみっともない。

ブラームス「ピアノ協奏曲第1番」

2014年07月30日 16時30分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 暑いので、ウォーキングは夕方までお預けにして、ブラームス「ピアノ協奏曲第1番」作品15を聴いている。ピアノはクリスティアン・ツィンマーマン、レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。1983年の録音となっている。しかしちょっと音が籠っているような感じの録音で、あまり音質が良くない。ピアノの音はそれなりに聞こえてくるが、オーケストラの音があまり聞こえてこない。「伸び」がない。初期のCDなのでデジタル化もアナログのテープからの編集なのかもしれないと思う。1983年といえばすでに音源はデジタル録音だったと思うが‥。

 さてこの曲、ブラームスの1856年23歳の時の作品である。シューマンがこの年に亡くなっている。第2楽章はそれゆえに当初はミサのための曲(ベネディクトゥス:祝福があるようにの意) の1節が添えられていたという。
 このCDは何回かはすでに聴いているのだが、第1楽章と第3楽章しか印象にない。今回あらためてじっくりと第2楽章を聞いてみた。ファゴットやクラリネットと絡んで進行していくピアノがまるでピアノ独奏曲のようにも聴こえる。これは録音の所為ではなく曲そのものの特質である。
 第2楽章は静かな瞑想のような曲、ミサの時の祈りの曲である。それも死者を想い、思いやるような曲である。第1楽章・第3楽章の厚みのあるオーケストレーションとは随分違う。いつもこのふたつの楽章に挟まれて聞くので、印象に残っていないのかもしれない。普通は静かな曲に敏感に反応するのが私の脳の特徴なのだが‥。確かに美しい曲である。今後はこのことを頭にしっかり埋め込んでおこう。
 そしてこの曲が初演当時は不評だったことの理由かもしれない。当時も今も、協奏曲には高度な演奏技術を難なくこなしてバリバリと弾くタイプの曲想が求められていた。しかしブラームスは音の厚みと深みをオーケストレーションに求め、過剰な名人芸を目立たせるよりもブラームスの追い求める音の世界に没頭していたのだろうと推察している。
 クララ・シューマンのアドバイスもあり、技巧的にはかなり難しい見映えのする個所もあるそうだが、当時「ピアノ伴奏付交響曲」との批判があったという。壮大な構築物を覗き見るような第1楽章、心地よいテンポで疾走する管弦楽としての第3楽章についてはそのような言い方はできるのかもしれない。ただしそれはピアノがオーケストラを圧倒して強い自己主張を繰り返すのが正しいとすればであるが。
 風潮には染まらないブラームスらしい曲といえばいいのだろうか。解説をいろいろ見るとオーケストレーションには楽器間のアンバランスなど、まだ未熟なところが垣間見える、とも記されている。セレナードに続く管弦楽2作目ならば致し方の無いところかもしれない。それでも近年は随分評価されているとのことでもある。
 できれば他の演奏家のものを聞いてみたいと思っている。

民宿「しちこ」と「荒川花ハス園」

2014年07月29日 19時01分06秒 | 山行・旅行・散策
 三峰口駅まで民宿「しちこ」のご主人が迎えに来てくれた。あるいても15分位なのだが、もう18時20分過ぎのため早く食事をしてしまわなければいけない時間でもあり、迎えに来てもらった。食事よりもまずは風呂に入りたいので、30分のお風呂タイムを所望。
 なお、ご主人の話では、昼間私たちが聞いた雷はこちらでもかなり鳴っていたようだが、雨は降らなかったとのこと。そして日中の気温が36℃を超えていたらしい。



 案内された部屋は新しいだけでなく、よく清掃してあり清潔感たっぷり。庭の草木もよく手入れされており、紫陽花が最後の見ごろ。ガクアジサイは花期が終わると下を向くといわれるが、その姿がまた紫陽花の風情でもある。この下を向いた様は「もうお終い」と閉じたような様でもある。また腕輪がいくつか並んだようにも思える。私には清楚な風情に見えて好きである。
 別棟の風呂がまた真新しい上に民宿にしては広い。5室あり、人が多いときはふたつの風呂を用意するそうだが、人が少ないときはひとつの風呂を独占できる。お湯が勢いよく落ちて来て、温泉気分になる。脱衣場も十分に広い。時間が許せば1時間でもゆったり入りたいのだが、20分ちょっとであわただしく出た。



 食事は、猪の肉とキノコの焼きもの、鮎の塩焼き、大根の煮物その他。大根とマグロの煮物は格別に美味しかった。猪も味がいい。久しぶりに食べた鮎の塩焼きも好みなので嬉しかった。この歳では十分な量の料理である。
 歩き疲れて、ビールと日本酒が効果満点でそのまま気持ちよく就寝。
 朝食も美味しくいただいた。ちょうどよい柔らかさのご飯と熱めのみそ汁が殊に嬉しかった。



 この美味しい食事と快適な部屋と素晴らしい風呂を満喫してひとり6500円という安い値段にあらためて驚いた。今度秩父に来た時にはまたお世話になりたい宿であった。
 朝は再び三峰口駅まで送ってもらった。

      

 秩父鉄道は昨日は落雷で一時不通になったが、すでに復旧。ふたつ目の武州日野駅で下車して、歩いて5分ほどの「荒川花ハス園」を訪れた。
 秩父市の奥秩父荒川観光協会が管理者となって、休耕田を利用した2000坪ほどに11種類の蓮が花を咲かせている。入場料ならぬ協力金としてひとり200円。
 秩父盆地の青い夏空と夏の雲、そして緑の濃い山々に囲まれて、ハスの白、赤がよく映えている。
 木道を歩きながら1時間30分ほどゆったりと楽しむことができた。ただし日を遮るものは受付のテントだけである。さすがに暑かった。

            

 この後は秩父鉄道で寄居町までおもむき、昼食をとってから東武線で池袋、副都心線・東横線経由で横浜に戻った。



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久しぶりに「夢を見た」のか?

2014年07月29日 11時04分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 三条の湯の大広間で食事がすんで20時ころにはもう寝てしまった。ふと目が覚めたがまだ24時まで15分もあった。携帯電話の明かりを頼りに外に出て、便所まで往復したが、天の川、夏の大三角が美しく天頂付近に見えていた。
 しばらくベンチに座って星を眺めたが、見得る範囲は山が迫っているので極めて狭かった。それでも3月末のカナダで見て以来の星空である。
 東京都・山梨県の境であるが、携帯の電波は届かない。メールの受信振動が無いというのも久しぶりであった。

 そして再び寝床に入ったが、まだ寝入っていないと思っているときにふと、「本日の休暇届どうしたかな?そういえば先週の講座も休暇届を出していなかった」という思念が頭を占領した。どういうわけかそのあと、職場に電話をしたいのだが最後の職場の電話番号がどうしても思い出せない。職員録を探し出してきても、肝心の職場のあたりをめくろうとするが、そこだけページが欠落している。「このままでは馘首になる」と随分焦った。しばらく焦っているうちに、ふと「もうすでに退職してるんだった」と合点した途端に目が覚めた。

 時計を見ると2時ちょっと前。布団に入ってから1時間半近く経っていた。随分久しぶりに夢を見たような気分になった。映像はみていない。職員録を探す行為と「馘首になる」という想念だけが残っていた。
 夢を見る、というが見ているものはなかった。見るということよりも想念に圧迫されたような気分であった。

 夢を「見る」、ということがなかなかできない。



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三条の湯-雲取山-三峰

2014年07月29日 07時06分30秒 | 山行・旅行・散策


 すでに記事をアップしてある通り、奥多摩駅-鴨沢西バス停-お祭りバス停-後山林道-三条の湯-三条ダルミ-雲取山-白岩山-霧藻ヶ嶺-三峰神社-三峰口駅-武州日野駅-花ハス園というコースをたどってきた。午前中に、三峰口駅までのコースを記す。午後に民宿と花ハス園の様子を記す予定。

 26日の中央線の人身事故による遅延のため新宿-立川間は京王線・南武線経由で迂回した。予定より1時間後のバスにやっと間に合った。しかも手前の鴨沢西バス停までしか行かず、お祭りバス停まで15分ほどの歩き。

      

 気温が高い日の長い後山林道の3時間の歩きはつらかった。やっとの思いで三条の湯に到着。石鹸か使えず体を洗うお湯も限らているが浸かるだけでもとてもありがたいお風呂である。



 夕食は鮎の甘露煮に鹿肉、ビートその他。鹿肉は小屋の管理人が仕留めてきたものとのこと。お酒は澤ノ井。



 大広間のストーブと丸太を刳り抜いた椅子は秀逸であった。



 三条の湯からは三条ダルミを経由して3時間で雲取山山頂へつくはずであった。三条ダルミ直前までは展望のきかない樹林帯の中。枯れそうな水場の水は冷たく美味。三条ダルミからは富士山とその周辺の山の展望が良い。しかしここには大量の小型のアブとハエが発生していて、人の周囲を何十匹となく旋回をはじめる。これが雲取山の最後の登り40分を苦しめる。しかも途中からは大型の蜂(スズメバチではない)も2~3匹が人の周りを威嚇するように回り始める。口や鼻、耳にも飛び込んでくる。なかなかしぶとい。

 頂上には清潔で明るく立派な避難小屋があり重宝する。不思議なことにアブ・ハエは避難小屋には入ってこない。蜂は小屋に入るなり、人への関心を忘れてしまうようだ。ひたすら明るい窓ガラスに突進するようである。小屋に飛び込むなり閉じ込められたように感じるのであろうか。人が避難小屋から出てきてもアブ・ハエ・蜂は襲ってこない。人に寄り付かなくなる。こんな苦闘をしていたためか予定より1時間以上遅れてしまった。

      

 避難小屋から100メートル離れたところに東京都最高点の表示と三角点がある。避難小屋の横の「雲取山頂上」の標識はどうも胡散臭い。
 頂上からも富士山や石尾根の眺めが素晴らしい。また甲武信岳など奥秩父、両神山の眺めは見ごたえがある。
 頂上では尾の赤いトンボが無数に乱舞していた。残念ながら元気がよく三角点や人に止まることもなく、写真には写せなかった。
 頂上から三峰方面に20分ほどで雲取山荘がデンと聳えている。ここの水は豊富で良質。
 ここまではいかにも真夏らしい雲と空で気持ちが良かった。

 小屋から霧藻ヶ峰までは3時間30分ほどのコースだが、樹林帯の中で空もなかなか見ることができず、展望はほとんどない。26年前にこの道を通った時は1月で、大ダワを過ぎるとほぼ雪はなくなり、歩きやすかったことを覚えている。しかし今回は、大ダワあたりから空気の湿度が人体に感じるほど高まり蒸し暑くなった。



 そして霧がみるみる濃くなり、雷が鳴り始めた。これには妻も怖がり、雲取山荘にもどることも一瞬考えざるを得なかった。次第に遠くなるようなので歩き始めたが、妻は、長谷川等伯の松林図のような深い霧を思い出し、一層さびしく不安になったという。



  芋の木ドッケの手前で1頭の鹿を目撃。白岩小屋の外のベンチで休んでいるとさらにもう1頭の鹿が現れた。



白岩小屋は半分潰れたような小屋に見える。ガラス越しに広間に布団が無造作に乱雑に積み上げられた様を見ることができた。緊急の避難用としては使えるが、ここに泊まることは考え難い。しかし場所としては営業しているならば利用する人もいるのではないだろうか。



 小屋の周囲にはフキの大型のようなものが咲き初めていた。しかし食べるにはアクが強そうな花と葉と茎であった。

 時折なる雷鳴を聞きながら、霧藻ヶ峰まで行けば何とかなるとの思いで歩くが、湿気が疲れを増進してるようで、登りになると妻が極端に遅くなる。私は下りになるとくるぶしの周りの靴擦れのようになっている皮膚が赤くはれ、痛い。妻に気遣いをされていたのかもしれない。
 2時間ほどコースタイムより遅れて15時15分に霧藻ヶ峰の休憩所についた。ちょうど管理人が帰る直前で「三峰神社前の最終バスが16時45分」との情報をくれた。これは私の事前調査の時間とあっている。これに間に合わせるために15時25分に小屋を出た。三峰神社までは1時間と少しだから十分間に合う、とのことであった。私は靴擦れでつらい足を引きづりながら、1時間でバス停までたどり着いた。



 ところが16時45分のバスは廃止されて、次のバスは17時30分であるという。しかも25日までは道路の崩壊で運行が中止されていて、この路線は26日から再開ということになっている。
 運行再開の翌日に利用するという幸いにあずかったのは運がいいのだが、16時45分のバスの廃止は、大番狂わせである。
 まずネットで事前に検索したがこのような情報はどこにもなかった。
 「しちこ」という民宿には、18時20分以降でないと着かないことになる。あわてて民宿に電話をしたら、遅くなる食事と風呂には対応してくれるという。さらに三峰口駅まで車で迎えに来てくれるという。
 三峰口駅につくと、駅が閑散としている。本日山の中で聞いていた雷が落ち、秩父鉄道は不通になっていた。危ういところであった。
 バスの時刻は変更にはなったが、バスの運行が再開になっていたことと、鉄道を停めるような落雷に山中で遭遇しなかった幸運に恵まれた山行であった。



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雲取山登山-実況7/28(1) エピローグ

2014年07月28日 16時45分42秒 | 山行・旅行・散策
 昨日は真新しくて、清潔感溢れる民宿「しちこ」で素晴らしいお風呂とビールと夕食で疲れを癒されてぐっすり就寝。今朝の朝食も美味しくいただき、15012円という安い値段にビックリ。これは嬉しかった。

 三峰口駅から二つ目の武州日野駅で下車して歩いて5分ほどの「花ハス園」を訪れた。奥秩父荒川観光協会が管理している、休耕田を利用したハス田を見に行った。11種類という蓮を木道を歩きながら観察できる。
 真夏の白い雲と青空に蓮がよく似合っていた。

 この後は秩父鉄道で寄居町で降りてみた。鉢形城のある側の古い町並を歩いてみようとしたが、どこの店も閉まっており、かなり暑い。見つけた蕎麦屋で昼ご飯を食べ1時間半ほどで寄居町散策を取りやめ、東武鉄道で寄居から小川町まで各駅停車、小川町から快速に乗り換え池袋まで。池袋から副都心線・東急東横線で横浜駅に先ほど到着。無事帰宅した。寄居町から2時間35分ほどかかった。

 雲取山の直下の三条ダルミから雲取山頂上まで、大量のコバエ、小さいアブに付きまとわれ、妻は20か所以上を刺されたが、私は5か所ほど。妻の刺された跡は見事に赤く斑点になって目立つ。私の傷跡は赤くはなっているが日焼けした皮膚なので目立たない。持参したマイザー軟膏で応急手当てをしたが痒みも弱まらない。

 早速洗濯機をフル回転して汚れものの処理を始めている。



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雲取山山行ー実況7/27(2)

2014年07月28日 05時10分05秒 | 山行・旅行・散策
昨日は10時間あまりの歩行で41000歩。結果としては一昨年の燕山荘ー蝶ヶ岳、昨年の笠ヶ岳ー三俣蓮華のコースに匹敵するアルバイトとなった。
1泊2日なのでそれらよりは楽といえば楽だが。
妻にはかなり過酷だったようで、白岩小屋や霧藻ヶ峰休憩所でもう一泊できれば良かった。営業していないのはつらい。
途中雨には遭わなかったが雷に驚かされた。霧が深くなり、雷鳴が遠く近く鳴り、かなり肝を冷やした。下山してみると落雷で秩父鉄道が不通になっていた。
北アルプスとは違い、終日樹林帯の中の山歩きの楽しさを味わった。霧も雷が鳴っていなければ風情がある。
私は私で、登山靴の中敷きを忘れたり、いつも毛の靴下の下に穿く軍足を忘れてかぶれたりして、足のくるぶしの周囲が赤く腫れ上がってしまった。表面の痛みなので何とか我慢したが、最後は足をひきずって歩かざる(バスに間に合うように走るように歩いた)を得ずつらかった。
バスの運行時間の変更は地元の民宿等も知らされておらず、ネットでも掲載されていなかった。ブツブツ・・・。

感想は帰宅後まとめる予定。



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雲取山山行ー実況7/27(1)

2014年07月27日 22時42分09秒 | 山行・旅行・散策
本日は朝6時半に三条の湯を出発。三条ダルミ、雲取山からは富士山の眺望はじめ石尾根、奥秩父の山、丹沢などの眺めを満喫した。
さらに芋の木ドッケ、白岩山、前白岩、前白岩の肩とピークは快調に歩いた。
しかし前白岩の肩を超えたあたりから疲れも出て来た。
三峰神社発16時45分発のバスに乗ろうと必死で歩いた。ところがこのバスは無くなって、17時半までバスは無し。結局18時45分に民宿にたどり着いた。



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雲取山山行ー実況7/26(2)

2014年07月27日 21時00分25秒 | 山行・旅行・散策
三条の湯は、石鹸が使えない風呂だが、温かい湯に浸かれるだけで幸せである。あとはビールを体に注いで、沢の音を聞きながらウツラウツラすれば何も言うことなし。但し1匹のアブがうるさい。
星空は美しい。沢筋のため北東の一角がわずかに見えるだけだが、夏の大三角と天の川が際立っていた。

携帯電話の電波は届かず、ブログの更新は断念。



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雲取山山行ー実況7/26(1)

2014年07月27日 20時33分28秒 | 山行・旅行・散策
三条の湯に15時半到着。中央線の事故でどうなることかと心配したが、立川駅から先は順調に来た。バスの接続もうまく行き、助かった。
夕食・朝食・弁当付きで2人で18000円。
林道を3時間ミッチリ歩いた。22000歩余り。舗装の率は低いが歩きにくい、その上登山靴が重く感じる。通常の5割増の疲労に思える。
山道に入り歩くのが楽になり、山の気分になった途端にわずか30分で三条の湯に到着。合計で27000歩を超えた。
コースタイム3時間半のところ昼食時間込みで4時間はいいタイムだと思う。
大畳30畳の大部屋で今のところ10人。空いている。



三条の湯から雲取山�・三峰神社間は携帯電話は通じないため、ブログの更新も連絡も取れなかった。ご心配いただき申し訳ありませんでした。無事下山できました。今夜は三峰口駅傍の民宿で一泊、明日夕刻帰宅予定です。


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中央線事故!

2014年07月26日 09時43分45秒 | 山行・旅行・散策
まだ奥多摩駅に着かない!
中央線の事故の事故の影響で、新宿ー立川間は京王線・南武線を利用した。
今ようやく拝島着。
奥多摩駅9時35分発のバスはどういう扱いになるのかな?

拝島ー福生は今からちょうど50年前、中学1年の終わる春休みにクラス全員でハイキングでやってきた。独自の自主企画であった。すっかり住宅街に変貌して当時の面影など見つけられない。
担任の数学の先生ももう亡くなった。




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雲取山登山準備

2014年07月25日 21時48分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は6時30分過ぎに家を出て、奥多摩駅・お祭りバス停経由で雲取山直下の三条の湯で宿泊予定。明後日に雲取山、三峰神社を経由して秩父鉄道三峰口駅そばの民宿に泊まるつもりである。一応ゆとりある行程を組んだつもりである。
 明日のお昼ご飯の調達が面倒である。行きに家の傍のコンビニか、新宿駅の駅中でお弁当を調達するか、どちらかしかない。

 さて本日は8月下旬に妻の両親の墓参りのための切符と宿の予約を昼に済ませてきた。ビュープラザは混んでいるかと思ったが、ガラガラ。こんなに空いているのは初めて見た。
 仙台市内に2泊するが、両親の墓参りと東北大片平キャンパスで魯迅記念展示室を見ることが決まっているだけである。他はその時の気分次第で決めようと思う。

 しかし横浜駅の東西を結ぶ自由通路はものすごい人出であった。喫茶店はどこも満席。ようやくコンビニの片隅にあるコーナーでアイスコーヒーを飲んで一服できた。



 帰宅後に明日の登山のための荷造り。着替え一組と雨具とカメラと単眼鏡、洗面道具と薬と地図と手帳。宿と帰りの電車の中で飲むウィスキーで荷造りは終了。あとは明日に購入する水筒替わりのペットボトルだけである。



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