Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日から師走

2011年11月30日 20時23分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日から師走であるが、前にも記したとおりやっと12月になったが、という思いが今年に限っては圧倒的に強い。例年ならばもう来年の手帳を購入し1月の新年会やら会議やらの予定がどんどん記入となる次期であるが今年は、手帳も購入していない。来週あたりに購入してみようと思うが、今年の師走も来年の正月も句会と友人との忘年会、定例的な仕事以外の予定はまだ何も入ってこない。実に静かな師走を迎えている。
 就職して以来こんなにのんびり師走を迎えるのは初めてではないだろうか。
 来年以降もこのような静かな年末年始を迎えられるのだろうか。この静かさに耐えられるのだろうか。静かならば静かでまた不安になる、仕事人間からの脱却をまずしなくてはならないようだ。
 

飯田龍太の句を少々

2011年11月28日 20時50分53秒 | 俳句・短歌・詩等関連
昨日の読了
NHK俳句入門「飯田龍太 俳句の楽しみ」
 1986年発行だから随分昔のものだ。しかし2001年の第12刷だから人気の一冊だったのだろう。
 第4章「自作の周辺」と題して作者の自選句36句があった。そこから気に入った句をいくつか書き留める。

・白梅のあと紅梅の深空あり
・春の鳶寄りわかれては高みつつ
・貝こきと噛めば朧の安房の国
・目ひらけば海目つぶれば閑古鳥
・短夜の水ひびきゐる駒ケ嶽
・かたつむり甲斐も信濃も雨の中
・ゆく夏の幾山越えて夕日去る
・山の雨たっぷりかかる蝸牛
・露草も露のちからの花ひらく
・わが息のわが身に通ひ渡鳥
・去るものは去りまた充ちて秋の空
・山々とともに暮ゆく木の實かな
・短日の胸厚き山四方に充つ
・水鳥の夢宙にある月明り

 俳句単独で鑑賞するのはなかなか難しい。今回の場合も作者の自解を読んではじめて「いい句だな」と思ったものがある。結局は有名な句ばかりを列挙することになったが素人などで許してもらおう。
 自分が理解できた句、意味が通じたと思われる句をあげるだけでも勉強になると思うしかないようだ。解説や自解を読んでばかりいると俳句単独での理解に限界が生まれるかもしれない。ここの兼ね合いはどうしたものか。ぐずぐずいわずにどちらも数をこなすことなのだろうが‥。

落ち葉掻き

2011年11月27日 15時58分18秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句

★植え替えの土柔らかに菊日和
★子は去りて次第につのる冬の雨
★人も葉も雲もしなやか落ち葉掻き
 三の酉
★熊手持つ男らの背のたくましき
★四五人で担う熊手は誇らしく

 本日は雲が薄く全天を覆い、天気予報どおりの気温上昇とはならなかった。それでも100分ほどのウォーキングでは、薄いウィンドブレーカーであったが汗をだいぶかいた。昨日に比べると随分と暖かだったと思う。
 11月に入って暖かい日もあったが、そんなことには無関係に落ち葉は時を知り、容赦なく散ってくる。あちこちで落ち葉を掃く人の姿が目に付く。地面に張り付いてなかなか掃けない葉、箒に張り付いて取れない葉、素直に塵取りに入っていく葉、落ち葉も樹種によってさまざまな性格があるらしい。
 しかもどの葉も個性的な色合い、形状をしている。同じものはないといっていい。地面に張り付いた葉をようやく剥がした途端、裏側の鮮やかな色にはっとすることもある。塵取りの中にいくつかの種類の落ち葉が混ざり、重なり合うと、思いがけない紋様に見えることもある。
 初冬の陽射しの中で、落ち葉を掃くために軽く格闘するのは気持ちがいい。ほの暖かい陽射しが心地よい。一枚一枚の葉の個性を拾い集めるほどに、静かに時間が流れていく。 

酉の市

2011年11月26日 21時03分56秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は三の酉、横浜橋商店街のそばにある金刀比羅大鷲神社周辺は、商売繁盛祈願の熊手を売る高張りの屋台、それに数倍する飲食の屋台も並び、歩けないほどの大賑わい。横浜橋商店街もまた賑わっている。
 大鷲神社の参拝も長蛇の列で、参拝は遠慮させてもらい、派手な熊手と人出で賑わう屋台を見てまわった。
 昨年は酉の市には出向かなかったが、以前より人出も参拝の列に並ぶ人も多かったような気がする。

 かつぎ持つ裏は淋しき熊手かな(阿部みどり女)
 人波に高く漂ふ熊手かな(嶋田青峰)


俳句の季重なりについて

2011年11月23日 11時04分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 大納言様からいつもうれしいコメントをいただいています。夏目漱石の俳句を取り上げた私の昨日のブログに、「蚊は夏の季語、当然蚊帳も夏の季語ですよね。でもこの句は秋。このへんはどんなふうに解釈されてきたのでしょう。Fsさんはどう読みました?」とコメントをいただきました。
 素人ですが、私なりの考えをコメントしましたが、補強の上、以下に再掲します。

 私は「俳句は季感を大切にするよう」に教わりました。普通、季重なりを避けますが、「ふと揺れる蚊帳の釣手や今朝の秋」という俳句の場合「今朝の秋」が句意の中心ですから俳句の季感は秋、秋の初めです。暦の上では秋なのでしょう。蚊帳はまだ残る秋の蚊を避けるためと理解しました。あるいは晩夏の暑苦しい中にかすかな秋の気配を感じたのかもしれません。
 蚊帳に付随する季感はこの俳句ではあくまでも「従」です。二つの季語が等価であったり、相矛盾する場合は俳句として分裂しますので、極端に短い詩形である俳句では避けます。
 現代は季語が多数になり、それにとらわれすぎると俳句ができなくなります。俳句の季感をしっかり踏まえれば問題ないと思っています。
 歳時記をパラパラとめくると飯田蛇笏の俳句に「かりかりと残雪を喰み橇をひく」が出てきました。これも残雪(春)と橇(冬)の重なりですが、季感は明らかに春です。もう一つ例をあげると「枯はちす月光更けて矢のごとし」(岡本眸)もありました。枯はちす(枯蓮)は冬、月光は秋ですが、この場合、枯はちすの描写が主ですからこの俳句の季感も冬です。
 私は「ふと揺れる蚊帳の釣手や今朝の秋」は「秋」を見つけたことに主眼がありますので秋の句として、鑑賞しました。
 いかがでしょうか。

蚊帳の釣手

2011年11月22日 20時30分56秒 | 俳句・短歌・詩等関連
昨日掲載した俳句から
・ふと揺れる蚊帳の釣手や今朝の秋(夏目漱石、1910(明治43)年)

 私はひょっとしたら蚊帳を経験した最後の世代かもしれない。あの緑色の網目と例えようがない黴とも違う独特の匂い、そして鴨居にかけるふしぎな形の今の言葉で言うとフック、すべてが懐かしい。そして中に入って見上げるとそのフックも見にくく緑色がかった襖の模様や欄間が思い出される。
 これは漱石が「門」出筆中に悪化した修善寺での胃潰瘍による吐血直前の句であるらしい。吐血後の最初の日記に記された「別るるや夢一筋の天の川」より前の句のようだ。しかし症状は出ていたのであろうと思われる。腹部の不快感が横溢した病臥の句と私は思っている。
 静かに病的な不快感と付き合いながら、蚊帳の上を静かに見上げている漱石が目に浮かぶ。病の予感のうちに、静かに見上げているからこそ、ふと揺れる、微かな動きに気持ちが反応するのである。気持ちが揺らいでいたり落ち着きがなければ、必ず見逃す動きをきちっと受け止めたのだと思う。
 私は蚊帳自体の動きではなく、釣手の動きに着目したことがこの俳句の勝れた点だと感じている。蚊帳の面の動きは微かな風の動きでも目につく。秋と認めた微かな動きが蚊帳の釣手に伝わった、そしてその動きは蚊帳の面よりももっと微かであろう。その視点に私は脱帽である。

漱石俳句集(岩波文庫)から

2011年11月21日 21時28分47秒 | 俳句・短歌・詩等関連
心に残った俳句36句
・氷る戸を得たりや応と開け放し
・かたまるや散るや蛍の川の上
・一つすうと座敷を抜る蛍かな
・長けれど何の糸瓜とさがりけり
・夕日逐ふ乗合馬車の寒かな
・累々と徳孤ならずの蜜柑哉
・人に死し鶴に生れて冴え返る
・ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり
・滝に乙鳥突き当らんとしては返る
・菜の花の遥かに黄なり筑後川
・若葉して手のひらほどの山の寺
・永き日を太鼓打つ手のゆるむ也
・湧くからに流るるからに春の水
・凩のまがりくねつて響きけり
・煩悩の朧に似たる夜もありき
・相逢ふて語らで過ぎぬ梅の下
・白露や研ぎすましたる鎌の色
・行けど萩行けど薄の原広し
・秋風の一人をふくや海の上
・筒袖や秋の柩にしたがはず
・手向くべき線香もなくて暮の秋
・暮なんとしてほのかに蓼の花を踏む
・山門や月に立つたる鹿の角
・ふと揺れる蚊帳の釣手や今朝の秋
・別るるや夢一筋の天の川
・秋の江に打ち込む杭の響きかな
・秋風や唐紅の咽喉仏
・骨立を吹けば疾む身に野分かな
・病む日また簾の隙より秋の蝶
・取り留むる命も細き薄かな
・生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉
・肩に来て人懐かしや赤蜻蛉
・あるほどの菊抛げ入れよ棺の中
・石段の一筋長き茂りかな
・我一人行く野の末や秋の空
・同じ橋三たび渡りぬ春の宵

 夏目漱石の俳句は生涯に約2600句。渡英前の1899(明治32)年までが量的にも一つのピークとなる。正岡子規宛の句稿という形をとる。渡英中に子規が亡くなり「筒袖や‥」「手向くべき‥」の句を読み、句作の格好の相手を失ってしまう。
 帰朝後、作家としての地位を確立する内も句作は続くが熱中度は下がったように感じる。
 それが修善寺の大患1910(明治43)年再び俳句に大きな比重が占められる。そして病中吟「ふと揺れる‥」以降「肩に来て‥」までは他にも心に残る句がたくさんある。
病は人を俳句に心を向けさせるのかもしれない。俳句の短さゆえもある。周囲の変化に敏感になる所為もある。私の場合もそうだった。うまい下手は別にして…。

俳句誌投句

2011年11月20日 18時16分52秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 俳句誌2月号投句
★眩暈してすすきの原の羅漢かな
★落ちてなお紅葉を返す滝の音
★山の秋田一枚ほどの池塘にも
★それとなく俳句を思う石蕗咲いて
★板塀に頭がひとつ石蕗咲けり
★人形のこつりと動く暮の秋
★珈琲の苦味は孤独冬来たる
★木枯らし吹く天空の青地の影へ
★二つ三つ星は雲間に枯れすすき
★芭蕉忌や陸奥に一夜の旅寝する

 昨日は南よりの生暖かい風と雨、大雨警報も出た。本日は晴れ上がり良い「秋晴れ」の天気となったが、この時期としては異様に暖か。冬とは思えない気温であった。夕方からは再び黒い雲が全天を多い、雷光が雲間に見えたが音は聞こえなかった。大雨注意報となったが、雨も小降りで終わった。

 本日の俳句
★植え替えの土柔らかに菊日和


節目

2011年11月19日 17時43分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は生暖かい強い風に雨も激しい天気。今も風が大きな音をたてている。神奈川県の西部は大雨警報とのこと。ここ横浜も大雨注意報がでている。

 昨日は私の所属する労働組合の支部の大会があり、私の支部長としての仕事も終わり、退任となった。組合役員となって丸34年、組合分裂再建後支部三役となって21年、支部長は6年経験した。後4ヶ月半で定年となる前の大きな節目を過ぎた。
 特に組合分裂後、少数派ながら100余名の組合員の人の輪、力を最大限発揮し、800号を超える機関紙を点在する19職場で毎回1000枚以上を撒いたのは、私の人生に取ってはかけがえのない宝物である。号外も入れれば100万枚以上を撒いたことになる。協力してくれた方々の名前と顔が懐かしい。
 少数派ながら明るく楽しく元気良く、多数派のごとくオピニオンリーダーとして振る舞う、これを私は訴えた。組合員は異動や退職で入れ替わりがあったがそのたびに新しい力が加わった。一人一人の顔が見える労働組合活動を実践して良かったと心から思う。どんなときも当該となる組合員一人一人の顔を思い浮かべながら方針を考え、交渉に臨んだりしてきた。意に添えなかったこともあるが、労使双方に私の思いは通じたと信じている。
 解決していない課題など心残りはあるが、退任した者がシャシャリ出て行くのは決して良くない。あとはすべて任せきることだ。
 頂戴した花束はバラとダリアの組み合わせ。私の部屋が明るく輝いている。

仙台市復興計画案

2011年11月14日 21時01分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 11日(金)・12日(土)に仙台を訪れ、仙台市震災復興室の方から仙台市の3.11震災被害状況と復興計画(中間案)を聞き、仙台市周辺の被災地を視察する機会を得た。
 11日は被害状況と復興計画案の講義を受けた。
 東部海岸沿いの宮城野区と若林区が巨大津波の直撃を受けたことは記憶に生々しい。二つの区の人口の7%近くの2万2千人あまりが津波の被害を受けたという。政令指定都市としての仙台は行政上の権限も財政も職員の職種もほぼ県に近いものがあり、被災を受けた他の自治体とは違った力を発揮することが出来ていた。また政令指定都市相互の支援もスムーズな面があったことは否めない。
 それでも他の自治体が業務をアウトソーシングし、指定管理者制度で人的にも枯渇した事態でこの災害に対処しなくてはならない点、自治体のほぼ全域に被災地がまたがる自治体よりはゆとりがあることは確かだ。しかし長期にわたる人的支援がなければ立ち行かない状況には変わりはない。
 震災復興計画は5カ年計画で現在中間案をパブリックコメントにかけているとのことだが、ここまでこぎつけることが出来た政令指定都市の底力の必要性を実感した。政令指定都市大阪市を解体しようなどというとんでも前知事などははやく消えてしまってほしいものである。
 東部の津波被害地区を受けた地域の復興には海岸堤防・海岸防災林・丘状の公園・嵩上げした県道、そして今回津波の前進を止めて有名になった高速道路仙台東部道路などの5重もの坊潮施設を計画し、宅地の集団移転を含むなど向こう数百年を射程に入れた計画とのことであった。
 しかしこの計画に魂が入るか否か、都市施設だけの計画になるのか、都市活力の新たな創造となるのかはこれからの事業の進め方次第となることは確かだ。これがむずかしいのである。

 12日は荒浜地区など瓦礫集積場や、当時高台避難場所として有効であった高台の公園などを視察させてくれた。仙台の中心部から海岸よりに行くに従い、マンションなどのビルの民地部分に亀裂や段差が目に付くようになり、歩道上の下水などのマンホールが液状化で浮いている箇所が目に付くようになった。
 津波が押し寄せた区域に入ると一面見渡す限り元田んぼ・畑地と、宅地の基礎ばかりが目に付いた。また異臭が鼻をつくようになった。元田んぼ・畑地は泥にまみれ、除塩・土の入れ替えにどのくらいの資力と年数がかかるか想像できなかった。宅地も亡くなった方が多数いるかぎり、土地の買い上げも相続者の探索・同意を得るため膨大な労力を考えると呆然とした。
 防風林がまばらになりほとんどが大きく陸側に傾いていた。直径20cmはある街路灯の支柱が90度以上曲がっていた。海水浴場であった荒浜地区では津波に倒された「津波警戒地区」の看板が無残に見えた。
 案内の方の発言では、震災直後は田畑のいたるところに自動車が転がり、やはり津波に流された被災家屋が転々としていて、ここまで整地されるのに何年係るか呆然としたと言うことだったが、今では整地まではきれいに出来ていた。
 そして冷蔵庫・エアコン室外機・テレビ・その他電気製品・コンクリート・木材・畳・瓦・化学製品・土砂・タイヤ・車両等に分別しながらの瓦礫処理には目を瞠った。異臭がするなか、広大な瓦礫処理場での業者の大勢の作業員に頭が下がる思いがした。 

 さて、仙台空港に向かう途中、仙台市を外れ南の名取市に入ったときびっくりした。津波の被害を受けたと思しき地域に新築の家々が並ぶ箇所に遭遇した。津波の被害のあった箇所に家が新築されていたとしたら、と疑問が湧いた。仙台では西部の山側への集団移転を計画し、今でも家は再建されていない。すぐ隣の自治体ではそうはなっていないようである。仙台市の復興計画は周辺の自治体との整合性は取れていないことにならないか。名取市や仙台市と宮城県の復興計画は県の段階で調整が行われたのであろうか。
 被害を多く受けた石巻や女川や気仙沼などの自治体も含めた県自体の復興計画ははたして有効なものなのだろうか、という懐疑が湧き出てきた。機会があれば宮城県の復興計画も聞きたいものである。

 実は11日には、神戸の震災から16年たったことを踏まえた神戸の震災復興都市計画事業を振り返っての講義もあったが、これについては割愛させてもらう。書き留めておきたいことは、都市施設の復興、再開発という街づくりも高齢化社会、格差社会の中で活気ある復興に至っていないという発言がとても気になり、印象に残ったということだ。

三渓園の菊花展

2011年11月13日 18時06分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は妻との約束に従って、横浜三渓園の菊花展を見に行った。三渓園の中は、ツワブキ・サザンカも咲き、もう水仙が花芽をつけていた。十月桜という珍しい品種の桜が花をつけている姿もあった。紅葉にはまだ早かったが、木の名はわからなかったが、一枝に見事な赤い葉と緑の葉をつけている木を見つけた。樹名板がなかったのは残念。
 菊花展では厚物・厚走り・管物・大掴み・一文字・美濃菊などの大菊の各種仕立てを愉しんだ。小菊の懸崖や盆栽もにぎやかに人を集めていた。
 今年は妻の嗜好にそって、中型の菊(中輪菊)の苗を4種購入してみた。苗の育て方や注意を親切に教えてくれた。咲いている見本を見ながら苗を購入したのだが、今年は花は楽しめないようだ。しかも購入してしばらくしたら、名前と実際の花はもう頭の中では一致しなくなってしまった。情けないものであるが、来年どのように咲くか楽しみではある。
 鴨や鯉に餌をやる様子をみたり、園内をゆっくり散策して暖かい冬の静かな一日を楽しんだ。

旅寝

2011年11月12日 19時20分01秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★人形のこつりと動く暮の秋
★木枯らし吹く天空の青地の影へ
★孤独なる星は雲間に枯れすすき
★芭蕉忌や陸奥に一夜の旅寝する

 出張で仙台に一泊した。芭蕉の奥の細道とは違って新幹線で2時間かからないで、出張族が多数いる都市となった。人通りの実に多い繁華街であるが、海沿いに近くなれば3.11の震災の爪跡が生々しい。さらに海岸部に近くなれば瓦礫の集積場や、土台のみを残す住宅跡が悲惨で大規模な津波の被害を直に語ってくれる。


菊の花

2011年11月10日 21時09分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 一昔前までは菊の花にはまったく興味がなかった。花を見ても何の感慨もわかなかった。菊=天皇家の紋との構図からそもそも身近なものにしたくない意識が働いていたと思う。このことが単純に「花」として菊を好むことから自らを遠ざけていたということになる。
 しかしある時、6~7年ほど前だったか、市営地下鉄のある駅の構内で菊花展をやっているのをそれとなく見て、そして眼を奪われた。黄色の「厚物」の三本仕立ての輝かしい色に目を見張った。菊の黄の色が、こんなにもあでやかで輝いているものとは知らなかった。
 その小さな菊花展をひと回り見て、白・黄・赤の色合いや、「管物」といわれるものがあることや、小さな菊の懸崖などが競われていることも初めて知った。そして見終わった後、高さ30cm.ほどの小さいけれど黄色の鮮やかな「厚物」を1200円也という安値で購入した。
 地下鉄の中にその鉢を持ち込んだところ、その鮮やかな黄色の発色に車内が明るくなったような感じがしたのを今でも覚えている。周りの乗客の目がその菊のまぶしさに吸い寄せられているのも意識した。何となくウキウキした気分になった。
 それ以来一年おきくらいに小さな鉢をその駅での菊花展で購入してきた。手入れをしないでも、肥料を与えないままでも翌々年位までは葉は小さいものの立派に花が咲く。色があせることはないようだ。きっと菊の栽培に凝りだしたらとことん凝ってしまいそうだが、すんでのところで放置している。私は花にとっては迷惑至極な所有者である。
 私は濃い黄の厚物、次いで白の厚物が好きだ。今我が家では黄色と白の厚物の鉢の成れの果ての花が、それでも大きく咲いている。鮮やかに照り輝く花を見るたびに、心が和む。これでもう少し手入れをするように花を愛でることのできる性格なら良いのだが‥。
 そしてあの天皇家の花弁一六枚の紋が実際の菊の姿とはまるで違う意匠であることにも気づいた。あれが菊というなら菊に失礼ではないだろうか。そんなことを毎年今頃感じている。

小望月の夜

2011年11月09日 20時43分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は仕事の帰り道、駅まで前方の空を見ながら歩いた。平年並みの気温になったとかで、頬にあたる風が冷たく感じる。空一面を雲が覆っていたが、満月の前の月の影が雲を通してほのかに見えた。月を眺めながら歩くこともなくなって久しい。月に照らされて歩くことは随分あるが、月を意識することは稀になったと思う。月が照っていても何かに追われるように歩いているのかもしれない。
 私は冬の冷たい風が好きである。晩秋から初春にかけて頬を鋭く過ぎる冷たい風は実に心地よい。今晩は、久しぶりの冷たいと感じる風を感じながら月を眺めて歩いた。向かい側から歩いてくる人、駅を出てくる人からは空を見ながら歩く私の姿はちょっと変であったろう。でもそんなことは気にしない。
 この駅は、商店街も小さく駅前は高層の団地群だ。だからそれほどは明るくないがそれでも月が無いときにも星は見にくい。これからはせめて月を探しながら駅までの短い距離を歩くことを心がけようと思った。
 自宅の傍の駅についてからも空を見上げたら国道沿いに並ぶ照明灯の長い列の上に、やはり雲を通した月を見ることが出来た。幾つもの橙色の照明灯の上にほの黄色い雲をすかして見る月は、なんとも言えず孤独の陰を宿している。現代だから余計孤独なのだろうか。古代から孤独の影を宿していたのだろうか。
 月とはふしぎなものである。その孤独故だと思うが、雲がなくて見ていても見飽きることがない。時々雲に隠れることがある月もいい。そして雲を通して時々光が薄くなったり濃くなったりする姿を見るのも見飽きることがない。ほとんど雲に隠れている月を探すのもまた楽しい。

 暦と月の満ち欠けが一致していた頃、月は現代の我々よりずっとずっと身近であったはずだ。古代から月に関する文学は多い。風流で月を愛でていただけではなかろう。古代の人々も、宮廷の貴人たちも風流だけで月を見ていただけではない。この位の気候、気温ならば屋内とはいえ月を見ながらの夕食、会議、宴会も行われたろう。えげつない権謀術数をめぐらす謀議も月のもとで行われたに違いない。魑魅魍魎の跳梁する世界だ。そして月の満ち欠けで日限を区切ったり、日数を数えたかもしれない。
 現代の人間にとって月を見ることは風流以外にはないようだ。余ほど心にゆとりがあるか、暇なときに限られそうだ。日常は月の満ち欠けの夜の世界から太陽暦という昼の世界に転換してしまったのだ。それだけ権謀術数はより暗い陰湿な、心に深い傷を与えるものになったともいえるかもしれない。魑魅魍魎などが跳梁するは世界はより暗黒の世界へと後退し、人の口に上らなくなったのだろう。

 こんなことを考えながら帰宅した。


気力

2011年11月07日 18時51分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日・本日とダウンして丸々寝て過ごした。若い頃なら一日寝ていること自体がつらかったが、今の私は際限なく横になっていられる。やはり一種の病気なのだろう。本日の夕刻、閉院ぎりぎりにいつもの循環器科の医院に行き、二週間分の薬をもらってきた。
 ただ寝ていただけだが、救いは多少本を読む気力が湧いていたことだろう。岩波文庫で「漱石俳句集」(坪内稔典編)の後半、イギリスに渡った1900(明治33)年から死の年の1916(大正5)年までを鑑賞できた。それなりの気力と収穫はあったと喜んでいる。
 残った前半は、先日読んだ半藤一利の「漱石俳句を愉しむ」を下敷きとしながらそれにとらわれずにどれだけ鑑賞できるか。漱石の俳句は漢籍の素養が必要なので、理解はお手上げの句が多いだろう。1900年以降の句ではそれほど感じられなかったが。

 今はようやく起き上がる気力が戻ってきたようで、シベリウスのピアノ曲を聴きながらこのブログをつくっている。
 最近はシベリウスのピアノ曲にすっかりはまってしまった。毎日のように3枚のCDのどれかを聴いている。