本日は思い立って江戸東京博物館へ出向き、「五百羅漢 幕末の絵師 狩野一信」を見た。50対100幅の羅漢図は見ごたえ十分。
羅漢が仏教でどのような位置を占め、それも浄土宗寺院の増上寺で、教義上どのような意義があるのかはわからない。
しかしこの絵の持つエネルギー、そして石造の各種羅漢像のユーモアのある姿とは遠い形相と絵の題材に圧倒される。
特に地獄のすさまじいまでの様相を描きそれを上から見る羅漢の構図は見ごたえがある。掲出図は第22幅。
ただし、一陣の風を吹かせたり、錫杖で地獄の人間を救い上げようとする行為が、どのような「救済」の思想を表しているかわからない。錫杖や一陣の風はあまりに微力であり一過性でしかない「救済」である。
一方で憤怒の形相と見える羅漢もおり、羅漢が地獄の人間にどのような位相をしめているのか私には不明だ。そして獄卒の鬼たちは羅漢をどのように把握しているのか、これも不思議なほど関係がわからないような表情をしている。
地獄に真逆さまに墜落していく人間の影は、地獄に落ちる人間をあらわしているのだろうが、私には羅漢たちの乗る雲からの墜落にも感じられた。羅漢の救済が一過性でしかない、はかない救いでもあるとのメッセージとして読み取るのは、間違いだろうか。
しかしこのような思考を通り越して、この地獄の絵4幅は地獄絵として圧巻である。作者の強烈なエネルギーの奔出を感じる。
次の第25から28幅の「鬼趣」においてもそこにうごめく人々と施しを行う羅漢との関係が私には不分明だ。次の第29、30幅の「畜生」は羅漢の教えを聞く動物達という関係が読み取れるが‥。全体を通して動物は従順である。
六道を経巡った羅漢が第41幅以降修行に入るわけだが、羅漢がどのような救済を目指すかのイメージはない。
羅漢が自らの顔の皮を剥いで不動明王になったり観音の顔になったり、カラスについばまれる死体をイメージする羅漢など、さまざまなイマジネーションが溢れ出る。イマジネーションの噴出とそれを支える技量で、私のような「論理」など一切お構いなく自由奔走に描かれてゆく。
「論理」や「信仰」を通り越したこの奔走なイメージの氾濫に脱帽だ。
第60幅以降は人物や背景の出来に起伏があるようだ。第81から90幅の「七難」では第2の「地獄」絵の様相だが、難に会う人々もそれを上から見る羅漢にも、迫真性は薄れていく。
貧窮に内にこの100幅の絵に注ぎ込まれたエネルギーとはいったい何なのであろうか。そして絵の中に混在するさまざまな表情と動作は、私の頭の中にさまざまなイメージを喚起するしたり、自由な物語を創造させるが、それは何なのであろうか。心に引っかかるものがあったことだけは確かだ。
羅漢が仏教でどのような位置を占め、それも浄土宗寺院の増上寺で、教義上どのような意義があるのかはわからない。
しかしこの絵の持つエネルギー、そして石造の各種羅漢像のユーモアのある姿とは遠い形相と絵の題材に圧倒される。
特に地獄のすさまじいまでの様相を描きそれを上から見る羅漢の構図は見ごたえがある。掲出図は第22幅。
ただし、一陣の風を吹かせたり、錫杖で地獄の人間を救い上げようとする行為が、どのような「救済」の思想を表しているかわからない。錫杖や一陣の風はあまりに微力であり一過性でしかない「救済」である。
一方で憤怒の形相と見える羅漢もおり、羅漢が地獄の人間にどのような位相をしめているのか私には不明だ。そして獄卒の鬼たちは羅漢をどのように把握しているのか、これも不思議なほど関係がわからないような表情をしている。
地獄に真逆さまに墜落していく人間の影は、地獄に落ちる人間をあらわしているのだろうが、私には羅漢たちの乗る雲からの墜落にも感じられた。羅漢の救済が一過性でしかない、はかない救いでもあるとのメッセージとして読み取るのは、間違いだろうか。
しかしこのような思考を通り越して、この地獄の絵4幅は地獄絵として圧巻である。作者の強烈なエネルギーの奔出を感じる。
次の第25から28幅の「鬼趣」においてもそこにうごめく人々と施しを行う羅漢との関係が私には不分明だ。次の第29、30幅の「畜生」は羅漢の教えを聞く動物達という関係が読み取れるが‥。全体を通して動物は従順である。
六道を経巡った羅漢が第41幅以降修行に入るわけだが、羅漢がどのような救済を目指すかのイメージはない。
羅漢が自らの顔の皮を剥いで不動明王になったり観音の顔になったり、カラスについばまれる死体をイメージする羅漢など、さまざまなイマジネーションが溢れ出る。イマジネーションの噴出とそれを支える技量で、私のような「論理」など一切お構いなく自由奔走に描かれてゆく。
「論理」や「信仰」を通り越したこの奔走なイメージの氾濫に脱帽だ。
第60幅以降は人物や背景の出来に起伏があるようだ。第81から90幅の「七難」では第2の「地獄」絵の様相だが、難に会う人々もそれを上から見る羅漢にも、迫真性は薄れていく。
貧窮に内にこの100幅の絵に注ぎ込まれたエネルギーとはいったい何なのであろうか。そして絵の中に混在するさまざまな表情と動作は、私の頭の中にさまざまなイメージを喚起するしたり、自由な物語を創造させるが、それは何なのであろうか。心に引っかかるものがあったことだけは確かだ。