Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

五百羅漢図

2011年04月29日 21時59分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は思い立って江戸東京博物館へ出向き、「五百羅漢 幕末の絵師 狩野一信」を見た。50対100幅の羅漢図は見ごたえ十分。
 羅漢が仏教でどのような位置を占め、それも浄土宗寺院の増上寺で、教義上どのような意義があるのかはわからない。
 しかしこの絵の持つエネルギー、そして石造の各種羅漢像のユーモアのある姿とは遠い形相と絵の題材に圧倒される。
 特に地獄のすさまじいまでの様相を描きそれを上から見る羅漢の構図は見ごたえがある。掲出図は第22幅。
 ただし、一陣の風を吹かせたり、錫杖で地獄の人間を救い上げようとする行為が、どのような「救済」の思想を表しているかわからない。錫杖や一陣の風はあまりに微力であり一過性でしかない「救済」である。
 一方で憤怒の形相と見える羅漢もおり、羅漢が地獄の人間にどのような位相をしめているのか私には不明だ。そして獄卒の鬼たちは羅漢をどのように把握しているのか、これも不思議なほど関係がわからないような表情をしている。
 地獄に真逆さまに墜落していく人間の影は、地獄に落ちる人間をあらわしているのだろうが、私には羅漢たちの乗る雲からの墜落にも感じられた。羅漢の救済が一過性でしかない、はかない救いでもあるとのメッセージとして読み取るのは、間違いだろうか。
 しかしこのような思考を通り越して、この地獄の絵4幅は地獄絵として圧巻である。作者の強烈なエネルギーの奔出を感じる。
 次の第25から28幅の「鬼趣」においてもそこにうごめく人々と施しを行う羅漢との関係が私には不分明だ。次の第29、30幅の「畜生」は羅漢の教えを聞く動物達という関係が読み取れるが‥。全体を通して動物は従順である。
 六道を経巡った羅漢が第41幅以降修行に入るわけだが、羅漢がどのような救済を目指すかのイメージはない。
 羅漢が自らの顔の皮を剥いで不動明王になったり観音の顔になったり、カラスについばまれる死体をイメージする羅漢など、さまざまなイマジネーションが溢れ出る。イマジネーションの噴出とそれを支える技量で、私のような「論理」など一切お構いなく自由奔走に描かれてゆく。
 「論理」や「信仰」を通り越したこの奔走なイメージの氾濫に脱帽だ。

 第60幅以降は人物や背景の出来に起伏があるようだ。第81から90幅の「七難」では第2の「地獄」絵の様相だが、難に会う人々もそれを上から見る羅漢にも、迫真性は薄れていく。

 貧窮に内にこの100幅の絵に注ぎ込まれたエネルギーとはいったい何なのであろうか。そして絵の中に混在するさまざまな表情と動作は、私の頭の中にさまざまなイメージを喚起するしたり、自由な物語を創造させるが、それは何なのであろうか。心に引っかかるものがあったことだけは確かだ。

明日から連休

2011年04月28日 21時59分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日から連休だ。今年も間際の本日まで予定を立てず、夕食後に宿に電話予約。自粛ムードなのか、明後日陣場山の麓の温泉宿が奇跡のように空いていた。
 明日は特に予定はないが、明後日は早めに妻と陣場山付近の山にハイキングに行くことと相成った。
 連休中、暦どおり2日と6日は出勤。10連休よりはメリハリがあって良いかもしれない。
 後半は美術館めぐりを考えているが、どこにするかはまだ決めていない。

本日の俳句(110425)

2011年04月25日 22時08分59秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句

桜蘂額に落ちて風の道
足元に落花一片鳩寄り来
何処より落花一片鳥の声

 昨日は新緑のまぶしい一日であった。昼から16kmほどをウォーキング。新横浜まで遠回りで行き、川沿いの芝生で軽く昼食後再び遠回りをして帰ってきた。夕方は風が強まったが、心地よい風に感じた。

返信

2011年04月25日 21時23分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先日届いた友人からの葉書への返信

 お葉書ありがとうございます。いつも心のこもったお葉書をいただきうれしい限りです。妻からは「ラブレターが来てるよ」と云われました。
「無為」については心に染みました。いつも何かに追われるように、義務に追いかけられるように日々を過ごしてきた私のような人間には耳の痛い、そして何よりも的確なご忠告と思います。昨年医師からも言われました。
 しかし気持ちではわかっていても、実際にはなかなか実行できないですね。ゆったりとした気分を保つこと、なるようにしかならない自分と周囲を許すこと、心にゆとりをもってものごとを観察する目、こんな自分でありたいと、そんな自分になりたいと考えているんですが‥‥。思うようにはいかないものですね。
 昨年の今頃はそれでも、美術館などにいってその感想をブログに掲載していましたが、このところ美術鑑賞もすっかりご無沙汰してしまいましたので、以前よりは心のゆとりをもって好きな美術鑑賞をしてみたいと思います。
 また今年は山にも久しぶりに行きたいなぁと考えてもいます。俳句以外の趣味をまた復活しようというところです。定年までの最後の一年、頑張ります。
 またのお便り心待ちにしています。

無為の時間の大切さ

2011年04月24日 20時18分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 おととい友人がブログの感想などを葉書で送ってくれた。震災に触れ「広島・長崎や東京横浜大空襲、このひと月あまり、当時の人々の阿鼻叫喚をあらためて考えました」とあった。まったく同感だ。
 その上で別の話題として、「無為は必要悪と考えます。無為の対極には効率的動きがイメージされますが求めすぎても‥。ああ、無為しちゃったということで心が腐ってしまうのが一番よくない」と書いてあった。私はこの言葉を記憶しておきたいと思った。よく覚えていつも自戒としなくてはいけないと思った。
 何かに追われるようにずっと生きてきて、このような言葉が身にしみるようになって来た。一年前、医師や友人たちに、仕事や自分で作り上げた義務に追われるような生き方、睡眠を削ることが価値のような生き方を変えなくてはいけないといわれて、そのとおりだと思ってはいてもなかなか心底かえられないのが自分の生き様だ。友人のこの一言大事にしていきたい。


法事

2011年04月23日 21時20分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨年5月亡くなった友人K君の一周忌法要に惨烈した。この時の模様は弔辞としてブログに掲載(10.5.13)した。
 弔辞でも触れておいたが、亡くなる三ヶ月ほど前に顔を合わせたものの大した会話をすることができず別れたことが、法要の間、思い出された。やはり返す返すも残念なことをしたと思った。
 法要は読経と多少の鳴り物で短時間で終了したが、法事というものはこのような無念、後悔を思い出させはするものの、その一方で、湧き上がったそれをやむをえなかったものとして静かに胸の内にしまいこませる作用があるようだ。
 法事というものはそのように営まれてきたものなのだろう。法事の根拠とはそのようなものなのだろう。あらためて法事というものの意味を噛み締めた。

 読経の音春の嵐にかき消され


電車の最先頭

2011年04月20日 21時24分58秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 誰でもが列車や電車の先頭に陣取って車外の景色を見るのが好きであろう。私も小さい頃は先頭車両の一番前に陣取って景色をみたかった。その上運転席が見えれば最高の気分であった。
 さすがに中学生になったころにはもうそんな誘惑にかられても実行に移すことはなかった。ごく自然に、たまたま出くわしたような振りをして最先頭に陣取ったことはあったが‥。今では先頭車両に乗ることがあっても最先頭からは少し離れた位置で前方を見るのがせいぜいだ。しかし最先頭に陣取ってみたい衝動にかられることもある。
 景色が押し寄せてくるのが楽しいという人、すべての後続の車両と乗客を後ろに従えている錯覚がうれしいという人、運転手になった気分を楽しむ人、いろいろいる。私は実は、レールを見つめているのが好きだ。人家や周囲の景色よりもレールを見つめているだけで飽きない。子供じみているが、それこそ一年に一度くらいは車両の先頭に陣取ることがある。
 レールを見つめていると現れる分岐ポイント、これが私にはたまらなく面白い。分岐していくレールと電車が走行しているレールとを同時に見るのも楽しい。ポイント部の構造、刃のように細いレールを見るのも楽しい。そしてレールの継ぎ目を数えながら電車の振動に体をゆだねるのも楽しい。レールは機能美に満ち溢れているといえるのではないだろうか。
 地方の列車でよく見ると波打っているように見える二本のレールの先端が次第に身近に迫ってきたり、いつまでたっても途切れることなく続く線路に感心したりしながらみるのも楽しいし、レールの間に草が生えているのを見るのも楽しい。
 一方で都内の駅ごとに複雑に分岐を繰り返す線路を見続けるのもまた楽しい。レールを見ていると都内の線路は実に端正だ。線路が波打ったり、小さく曲がったりしていない。地方の線路ではそうではなく、電車・列車のゆれも大きい。よくも都内の線路はこうも端正に整備されているものだと感心する。
 列車・電車の先頭にいなくとも、窓外に反対側の線路を見ているだけでもウキウキしてくることもある。
 60歳近くになって恥ずかしい話ではあるが、一年に一度くらいはそんなワクワク、ウキウキした気分も悪くはない。本日は仕事帰りの電車、先頭に立って、こんな気分を味わった。

あてずっぽう

2011年04月18日 21時55分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 気がついたらトータル訪問者が51,000を超え、トータル閲覧数も113,000を超えた。お付き合いいただき感謝にたえません。

 今年は桜の開花時期が4月にずれ込んだ。横浜では先週の半ば以降が「満開」というのだろうか、見ごろであった。今年の3月が寒かったため、といわれているが私なりの素人判断では昨年のこの時期の寒さが減員ではないかと勝手に思っている。気象の影響は一年遅れで出るのではないかということだ。何の根拠もないが。樹木に意志があるわけではない。しかし樹木は昨年のことをきっと生命体のシステムとして何らかの記憶をしているのではないか。この論から推理すると来年はもう少し早く開花・満開を迎えるのではないか。
 しかし私自身の体の記憶はそんな感じだ。昨年の3月・4月の寒さの記憶があり、それとの比較で無意識のうちで比較している。むろん直近のことだからということもあろうが、逆に直近だから比較できるのである。一年送れというのはそういうことなのではないだろうか。
 今年の夏になれば、直近として昨年の夏と脳の記憶だけでなく体のシステムとして自動的にあの異常な暑さと比較するのではないだろうか。
 そうして2年よりも前のことはすんなりと忘れていく。水準より大きく変異した異常な暑さ・寒さ・湿気などは脳の記憶への蓄積され、体のシステムとしては小さな変異の蓄積として恒常的な一年の変化として記憶されていくのではないだろうか。
 脳としての記憶と体のシステムに蓄積された記憶とはこのような違いがあるような気がする。
 繰り返すが、あくまでも素人の無責任なあてずっぽうである。私自身が来年の今頃、このこと自体を忘れている可能性がある。信用しないで貰いたい。

本日の俳句(110417)

2011年04月17日 19時48分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★風一陣花の吹雪は螺旋系
★碑に花の吹雪も夕陽なか

 昨日は多磨霊園に墓参りと合わせて花見に出かけた。俳句のことはまったく忘れて散策し、思い出しながら‥。
 桜の多くは満開を過ぎていたが、それでも午後からの曇り空の下、柔らかい風に舞う花吹雪を堪能した。

無事のたより

2011年04月16日 10時41分21秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 震災から一ヶ月近くたってから、東京在住で、仙台の大学時代の友人と一緒に飲んだ。そこで仙台時代の友人の安否があらためて心配になった。在仙の友人の多くが年賀状での年1回きりの音信だから、震災後も連絡のしようがないとあきらめていた。
 飲んだ帰り道、酔った頭の中でふとある友人のメールアドレスの存在に思い当たった。早速翌日その仙台の友人に久しぶりにメールを送った。すぐに返信が来て、共通の友人は無事とのこと。ひとまず安心した。
 同時にそのメールを思い出すまで一ヶ月近くもの時間がかかった自分が情けなくなった。

 震災の無事が届いて夕桜

 昨日は連日の忙しさについに休暇をとって一日何もしなかった。とりあえず根を詰めた業務は終了した。ホッとしたら体が正直に反応して、休暇取得とあいなった。ベッドの上でごろごろしている間に、外では強い風にあおられて終日桜が散っている。

 何もなくひたすら一日桜散る

 こんなことも今年でもう終わりにしたい。

魂を乗せていく船

2011年04月15日 20時40分52秒 | 読書
 年度始めの忙しさにかまけて、ブログの更新を一週間以上サボってしまった。例年年度末からゴールデンウィークまであわただしい。どこの誰もが同じ状況であろうから、私だけがととりたてて言い繕うつもりはないが、それでも「どうしてこうなんだろう」と不満が高じる。
 昨年はとくに悲観的な状況に追い詰められたようで精神的にも参ってしまった。今年は開き直りもありかなりゆとりをもって対処はできたが、それでも毎日22時過ぎの帰宅が続くと、帰宅後は何もしたくない。茶を喫し、風呂に入って寝るだけ。
 ブログはそれにもかかわらず、毎日80から90名の訪問者があるようでうれしく思っている。
 そんな中、このブログできり絵を取り上げた福島のさとうてるえさんから、「体調でも崩されたのですか、心配しています」とメールをいただいた。業務繁多を理由にサボっていることを告げたら今度は「病気が悪化したかと思いました。‥普通の何気ない日常が垣間見える生活雑感みたいなほうが面白いよ。読みたくなるような名文を期待します」と、励ましというか、お叱りをいただいた。
 今回の地震災害地でもある福島で私のブログを見てもらっているなんて、光栄の至り。
 さてさとうさんのメールの中に「あの本震の直後からいきなり寒くなって雪がふり曇天続きでようやく晴れ上がったのが一週間後でした。その時青空に浮かんだのがこの巨大な飛行船のような雲。死者の魂を乗せて行くかのような不思議な感覚に襲われました。」とあった。写真はメールに添付されていたもの。
 私の文章よりずっと名文だ。

本日の読書

2011年04月06日 22時42分50秒 | 読書
「みすず」(4月号、みすず書房)

・「ないないづくしからたちあがる一挙手一投足こそが、そのまま世直しの歩みではないですか。66年前は、日本中の街々が焼け野原でした。復興はいつか来た道。‥天地自然とと呼吸をあわせる街造り、国作り。そのはるかな道のりへの足取りが、鎮魂の祈りとなりますように。」(小沢信男、賛々語々12「津浪の町の」)

・「災害発生の数日前の新聞を読むと、何とやくたいのない記事ばかりが並んでいることよ。‥政治家も久しぶりに現実と相渉る日々となって、鍛えられるであろう。戦争でなく、天災が政治家の現実感覚、責任感覚を育てるならば、それが天災のもたらした最大の賜物であろう。世界的に政治家が不足しているが、日本の枯渇ぶりはひどかった。」(中井久夫、「東日本巨大地震のテレビをみつつ」)

本日の俳句(110403)

2011年04月04日 21時32分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★何気なく心拍増えて夕桜
★月も身のおきどころなく花の夜
★携帯の警報なりて桜の夜

 桜はまだまだ満開までには間があるが、本日の暖かさでだいぶほころんできた。昨日は新月で月は出ない。計画停電はなかったが節電で暗い中を、桜の花を見ながら帰宅。不気味な緊急地震速報まで鳴った。

本日の俳句(110403)

2011年04月03日 19時52分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★初桜寺の庇に届かんとす
★初桜日差しと犬をつなぎとめ

 昨日、近くの寺の境内の桜もほころび始めていた。寺の門から見ると大きな屋根の庇の端に桜の樹の先端の花が届きそうに揺れていた。桜の樹に繋がれた犬が日差しを受けてうとうととしていたように見えた。